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恋に恋して 第26話

トラブルメイカー

 代々木さんのことをトラブルの元、と書いたが実はこれはあとで知った話である。
 彼女は誰も近づけないような雰囲気だったから、一緒に働いている看護師やヘルパーと、あまり仲良くしようとはしない人だった。
 と言っても必要最低限の話はするし、聞かれればなんでも答える。
 ただ、自分の仕事に絶大なる自信があるようで、会話の端々はしばしにプライドの高さが見え隠れしていた。

『こういう人は病棟では医師の判断がないと扱わないですよ』
 入浴の可否判断に話が及ぶと彼女は必ずそのようなことを言った。
 確かに他の看護師も同じようなことを言う。
 自分の判断で高齢者を入浴させてしまって、もし何かあったら困るというのだろう。
 病棟ではそういう判断は基本的に医師が行ってくれるから安心だというのだ。そしてこの仕事は危ない、こんなにいい加減な判断でよく入浴などやれるな……と上から目線で言うのである。

 で……。
 こういうことを言う看護師は基本的には訪問入浴の仕事を辞めてしまう。

 簡単に言うと合わないのだ。
 結局、入浴の可否判断に最善のものはない。
 極論だが、医師が判断しても何かあるときは何かある。
 こればかりは仕方ないのだ。
 いくら気を付けていようともそういうことはあり得るのである。
 と言っても……ボクが今まで経験した中でも入浴介助の最中に急変したという例は聞いたことがないので、そういうことはごくまれであるように思う。

 ただ、そういうごくまれにあることで、自分が判断した内容で事故が起こってしまえば自分のせいになってしまうというふうに思ってしまう気持ちは分からないでもないのだけど、それでも、万が一急変してしまったら……と考えてしまう人は基本的には在宅の介護には向かない。
 急変したケースの話を聞いたことがないのでなんとも言えないが、おそらくそういう場合に当該看護師が責められることはないと思う。
 というのも……
 入浴の可否にかかわる基本的な生命兆候バイタルサインは、会社でもマニュアル化されており、少し重度の方なら主治医の先生に連絡を取って可否の判断の目安を聞くことも可能だからだ。

 そうやって気をつけて仕事をしているので……
 そんな中でも『何かあったら……』と理屈をこねるのは自分が判断したくないという逃げのようにボクには思える。

 代々木さんは在宅介護に向かないそういうタイプの看護師だった。
 そして彼女が言うように『何かあったら……』という気持ちはすべての看護師が持ちながら仕事をしていた。でも代々木さん以外の看護師は最善を尽くしながらも、そういう時は仕方ないと心のどこかで割り切りながら仕事をしていたのだ。
 だから、当時、うちの会社では新人の看護師だった代々木さんが偉そうにそんなことを言うのを面白くないと感じている看護師は多かったのだ。

 そんな理由で彼女は嫌われていた。

 そんなことを全く知らず、ボクはバカな片思いに浮かれていた。
 そして……突然、彼女はいなくなった。

 連絡もとれなくなってしまった。

 でも、それはボクとは連絡がとれなくなったという意味で、彼女はきちんと『辞めます』と会社に伝えて辞めたので、業務上は彼女が急にいなくなっても困りはしなかった。

 代々木さんがいなくなって数日後……
 もう一人のヒロコさん、つまり川野ヒロコさんが辞める日になった。

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