ナニ見て跳ねる?
真っ白なうさぎが道路に飛び出したんだ。
俺はそのうさぎを絶対に捕まえなくてはと思い、必死で右手を伸ばした。そして車に轢かれた。
「打ちどころが良くて、何よりだったね。それに夏休みだから学校休まなくても良いってのが、不幸中の幸い!」
見舞いに来た母は俺の枕元に本を数冊置きながら言った。アブラゼミのがさつな声は閉め切った病室にも届く。窓の隙間から夏の熱気が滲んでいるのと同じように。
俺の頭には包帯が巻かれているものの、擦り傷さえ治ればこれも取れるらしい。鞭打ちも骨折もない。車に轢かれて、手足と額に痣が出来たのと、全身筋肉痛であるぐらいなら御の字だろうと医者にも言われた。
「あんた、右手は商売道具なんだから大切にしなよ。まー、学生に商売道具っていうのも変かもしれないけど。あんたは美大生なんだから」
母は俺の着ていた寝巻きを畳み、蛍光ピンクをしたエコバッグにぎゅうぎゅうと押し込んだ。どぎつい色は目を引き、遠くからでもよく分かる。一緒に歩いていると、ちょっと周りの視線が痛いぐらいだ。
『それどこで買えるの?』と聞いたら『隣のおばちゃんがもう要らんからって』とあっけらかんと答えた。それって不要品を押し付けられただけでは? と思ったが黙っていた。母は気に入って使っているようだったから。ださいけど。
「これ下着と着替えね。あと水も置いておくから」
ガサガサという音を立てながら、コンビニの袋と俺のリュックを置いた。リュックの中には衣類とゲーム機と充電器が収まっていた。そしてコンビニの袋の中には水とガムとタブレット菓子が入っている。タブレット菓子には『夏季限定 夏みかんチョコ味』と書いてある。『若い子の買う菓子はよーわからんから、レジ横に置いてあるやつ買ってきたで』と言う母は、時折ネタ系の菓子を買ってくる。勿体ないから食うけど、よく分からないならいっそ買わないでほしい。これなら祖父の引き出しにあるボソボソした食感の菓子の方がずっとましだ。
「こんなものまで持ってきたの?」
この手際の良さと気遣いには舌を巻く。祖父が入院した時に、一ヶ月毎日通いながら世話を焼いていただけはある。
「退屈やろ? 退屈は人を殺すって言うやん。明後日まではおるんやし。食事制限はないって聞いてるし」
なんで突然そんなに物騒になるんだよ、と思いつつも、
「ゲーム機はマジ感謝」
と言って両手を合わせた。母は空中で人差し指をブンブン振りながら
「あと、ここWi-Fi飛んでるから、ちゃんと繋ぐんやで。データ量がもったいないから。パスワードとIDはこれな!」
と俺に紙を渡しながら言う。データ量が勿体ない、って言い方面白いな。
そういや……電子機器に対し、詳しくないであろう言葉の使い方をする母が何故Wi-FiのパスワードとIDについて知ってるんだろう。母がパソコンを使うところなんて見たことがない。多分、ワードすら使えないと思う。
「詳しいね。俺、病院でWi-Fi使えるの知らんかった。じいちゃんのためにWi-Fi繋いでたりしたの?」
「んなわけあるかい。じいちゃんはガラケーしか持ってなかったやろ。私のため! 待ち時間暇やから、動画観てたん。看護師さんが教えてくれて。診察の待ち時間とか阿保みたいに長いやん。看護師さんも暇やったんか、丁寧に教えてくれて。そんで覚えた」
母は物覚えが悪くはない方だし、分からないことは確認するタイプだから、それなら可能か。とはいえ、母のエネルギーを受け止めた看護師さんはすごい。
「じゃー、帰るから。なんかあったらナースコール押すこと!」
何度も言われて耳にタコができそうだ。俺は、
「はいはい、分かった分かった」
と適当に言いながら手を振った。母は豪快に笑ってから、
「達者でな!」
そう言うと、スパンッと扉を閉めた。ゴムがスライドドアについてるから良かったものの、ついてなければヒビが入ってたんじゃないかと思うぐらいの勢いであった。
人の寝息だけが聞こえる病室というのは不気味で、何かが暗闇に潜んでいそうな気がする。故に、肝試しにはぴったりな場所だとは思う。ちょうど夏休みだし好きな奴は廃病院なんかで肝試しをしているんだろう。
そういえば、今度の展覧会に出展するメンバーから俺も誘われてたっけ、肝試しと旅行。大学一年目の夏休みだし、思いっきり遊んで、いろんな場所でスケッチしたかったんだけどな。車に轢かれたんだからやめておけ、って言われて俺だけ留守番になったけど、マジでつまんねえな。入院暇すぎ。
俺はベットの上で何度も寝返りを打ちながら、時折うさぎに手を伸ばした時のことを思い出していた。白い艶やかな毛皮に俺の指先は届かなかったのだ。そのふわふわとした毛先に爪が触れるかという時に、車にぶつかった。向こうが俺に気づいて徐行してくれていたから良かったものの、そうでなければ今ここに俺はいないだろう。
白くて丸い月にはうさぎが住んでいるという。あのうさぎは月へ帰ってしまったのだろうか、なんてことを考えた。もちろん、そんなことはありえない。でも一体どこへ行ってしまったのだろうか。
俺は無機質な天井を眺めながら、何百回目かの寝返りの際にそんなことを考えた。退屈すぎて昼寝をし、そのツケが回ってきたようだ。つまりは全く眠くない。
それにしても、なぜ俺はうさぎごときを逃したことを、こうも悔やんでいるのだろうか。自分でも不可解だ。
俺は確かにうさぎを捕まえようとして、車の前に飛び出した。別にうさぎが好きというわけでもない。そもそも自分が飼っているわけでもない。それならば、わざわざ身を挺して捕まえようとなんてしないはずだ。なぜこんなにも、あのうさぎに執着しているのか自分でも分からなかった。
車の前に飛び出すだなんて、我ながらどうかしている。尋常じゃない。
そして何よりも強烈なのは、あのうさぎを逃すべきではなかった、という思い。この奇妙な、けれども強い思いが俺の心の中でずっととぐろを巻いているのだ。胸の奥深くで今も不可解な喪失感に苛まれている。轢かれそうなうさぎを助けなくてはならない、ではなく『逃してはならない』という、思い。これは一体なんなのだろう。
何よりも不思議なのは、俺以外あのうさぎを見ていないということだ。なんともなしに現場の状況を聞いてみたが、うさぎの『う』ですら出てこなかった。俺が突然、道路に飛び出したのだと目撃者も俺を轢いた運転手も言った。
俺は幻でも見ていたのだろうか。でも俺は生まれてこの方、幻覚なんて見たことはない。
俺は重いため息をついて、布団から足を出し、ベッドに腰掛けた。少しひんやりとしてきた秋の空気が足首を冷やす。足の爪先で薄っぺらいスリッパを弄びながら、俺は再度空を見上げた。
ああ、病院にいる他の人たちもこの月を見ているのだろうか。この微笑を浮かべた女性の横顔のような月を。
「気分が悪いといったような、不調はないですか?」
医師は神経質そうな細い目を瞬かせながら、俺に尋ねた。診察室は閉め切られていて、いるだけでどこか鬱屈とした気持ちにさせる。何か悪いことが起こるような気がするのは多分、テレビの見過ぎだろう。
「はい、全然なくて」
うんうん、と小刻みに頭を動かしながら、
「CTの結果も問題ないし、明日には退院できるよ」
と言った。俺はほっと胸を撫で下ろす。
「それは良かったです」
医師は細い銀縁の眼鏡の奥から、俺をチラリと見やってから、
「でも浮かない顔してるね。やっぱり体自体はまだしんどいでしょ」
と言った。やはり本職、鋭いところがあるなぁと内心頭を掻いた。
「それもあるんですが……絵を描く気にならなくて」
「まだ混乱してるのかもしれませんね。軽症とはいえ、車との衝突って心身ともにかなりのストレスになりますから」
医師は少し首を傾げながら、その綺麗に整えられた髪を手で撫でつけた。
「そうなんですか」
と言いながらも、俺は不安感を拭い切ることができなかった。そのことには気づいていないのだろう、医師は話を続ける。
「車に乗れなくなる人なんかもいますし」
「気の毒ですね」
そう相槌をうったものの、俺は恐怖に近い感情を車に対しては抱いていないので、車に乗れなくはならないだろうと思う。
「でも空中一回転してから着地した人も、人生で十回も車に轢かれたっていう大学一年生の子も車に乗れなくなったりしませんでしたね」
その現場を思い浮かべ、俺は思わず顔を顰めてしまった。想像するようなものではない。俺の顔を見ながら医師はぽつぽつと振る雨のように、
「どう転んでも運が悪い人っていうのはいるし、悪いことにあっても良い方にことが運ぶ人もいます。事故にあったという経験は決して良いものじゃないですけど、辛いことについてはあまり考えすぎたりしないように。事故というのは、心身に影響が出てしまうものですから。あと相談したいことがあれば、また来てもらえればいいですし。それと万が一、数日中に気分が悪くなったりしたら、病院に来てくださいね」
と言った。どうやら俺は退院できるらしい。そのことに胸を撫で下ろしつつも、魚の骨が喉に刺さったように絵のことが気になっていた。
換気のために窓を開け放していた。テレピンの臭いが部屋に籠らないようにするためだ。
真夏日の気温をそのまま反映した、うだるような部屋に電話がかかってきた。どんよりとした部屋の空気と俺に氷水をかけたかのように、緊張が走った。
それは今一番話したくない相手だった。今井明彦、彼は俺と同じ油絵専攻で同じ予備校にも通っていた長い付き合いがある人間だ。ストレートな物言いにカチンとくることもあるけど、芸術に対して熱心なところは一目置いている。根気強く対象を見極めようとする努力と、技術不足である点をすぐに認めるところは、好敵手ながらあっぱれだと思う。
電話を取らまいか悩んだが、電話に出ることにした。スピーカーをオンにし、腰かけていたスツールの足元に携帯を置く。
『よう、進捗どう? お前のことだから、もう終わってるだろ? 俺は全然。なんせ下書きから進まん……スランプではないと思うんだけど、これっていう構図が見つからなくて。なんかこう、曇ってるって言うの? 次に何を作り上げていくかっていう、道筋が見えないんだよね』
俺は何か言おうと思ったが、何を言えばいいか分からなかった。黙ったままの俺が放つ空気に気が付いたのか明彦は、
『どうしたんだよ、だんまりなんて珍しいな』
そう尋ねてきた。俺が答えあぐねていることにより、奇妙な沈黙が受話器の向こうにも伝播していく。それにいたたまれなくなった俺は、
「描けないんだ……」
その言葉を喉から捻りだした。背中は冷たく粘っこい汗で濡れ、張り付いたシャツが不快だ。だがそんなことは最早些事であった。
「描けないって、手でも怪我したのか?」
俺が出す声のトーンから、明彦もなんらかの異常事態が起こっていると理解したようだ。
「違う。手は全然問題ない」
『じゃあ、精神的な方?』
「それも違うと思う」
『じゃあ、分かんないってこと?』
俺は唇の端をガジガジと甘く噛みながら、
「そうだよ」
と低く唸るように言った。
『それ、打つ手なしじゃん』
俺の沈黙こそが全てを雄弁に物語っていた。俺は太ももに肘を置き、頭を抱えた。
『どーすんだよ。夏休み明けの展覧会……』
明彦の声にも焦りが滲んでいた。
「そんなこと言ったって……」
『お前の絵が目玉になるって話で進めてるのに……』
そう言った後ですぐに、
『ごめん……』
と明彦は謝った。俺は腹の中に苦いものを感じながら、
「展覧会までもう日がないもんな……」
と言った。明彦は黙りこみ、繋がっているはず電話からは無音しか流れない。あまりの気まずさに俺はそのまま電話を切った。切られた電話はそのまま、俺たちのように黙り込んでしまった。
俺はため息をついてから、その携帯を足の爪先で蹴とばして、再度息をついた。
どうして描けないのか俺自身が分からない。
絵を描くことが当然で、飯を食うことを忘れても、絵を描くことは忘れなかったような俺が描くことができないだなんて。いまだに信じられないのだ。頭を打ったからなのだから、仕方がないとは思えなかった。俺にとって絵は呼吸にも等しく、人生を捧げてきたものなのだ。同じ学校の奴らが運動だの勉強に割いている時間を、俺は絵に捧げた。彼らがバイトや塾に行っている間、俺は筆を動かし続けていた。夏休みだってほとんど遊びに行かず、近所でスケッチを行ったり、絵の教室に通った。俺よりうまいと言われた子が一人でもいれば、俺はその子に勝つまで同じものを何度も練習して描いた。誰よりも描いたから、だれよりもうまくなったのだとはっきり言えるほどに。
せめて描けなくなった原因が分かればと思い、ここ一週間以上携帯で調べているが収穫はなし。明彦も言っていたように、打つ手がない。
不調を経験した複数の先輩の話を聞いて、メンタル的なものかと思って俺も情報を漁ってみた。
でも俺はそういうサイトに書いてあるように、たびたび苛々していたわけでも、落ち込んでいたわけでもない、不安があったわけでもない。寧ろ最近はとんとん拍子に話が進み、同じ専攻の有志で展覧会を開くことが決まって張り切っていたのに。
「なんでなんだよ」
俺は何度も筆を乗せたキャンバスの前で呟いた。たっぷりのテレピンに少しの乾性油、それを纏わせた筆で油絵具と絡ませ、ざらついた生地に筆をのせていく。テレピンをたっぷり使用して描かれる下描きから、仕上げに向けて徐々にテレピンの割合を減らしながら描いていく。
その過程が俺は何よりも好きだった。自分が頭の中で漠と思い描いているものが、テレピンの量が減るに従いこの世界に厚みを持って立ち現れる。俺の脳という小さな世界で創られたものが、色彩と影を纏い、時には存在感すら放ちながらこの世界に生み出されていく。
でも今じゃ、テレピンの臭いがトラウマになりそうだ。夏休み前はあんなに好きだったテレピンの臭いも下描きしか描かれていないキャンバスも、全てが俺の神経を苛んでいく。そしてあと二週間で学校がはじまる、その事もが否応なく俺の神経を擦り減らしていく。
大学生の夏休みは人生で一番楽しい期間だよ、なんて言った馬鹿はどこのどいつだ。そんなの嘘だ、俺はこんなにも苦しい。
「あんたちゃんと夕飯食べんと痩せるで」
俺はそれに対し、「ああ」とも「うん」ともつかないような吐息で返事をしながら、逃げるように自室に帰った。
「調子でも悪いんかー?」
母親が叫ぶ声が聞こえる。母の陽気さは楽しくもあるが、こういう時は鬱陶しい。俺は返事もせずに、ノイズキャンセリング機能のついたイヤホンをつけ、スツールに座り込んだ。目の前には夕陽の下で橙に染まる、下書きだけがなされたキャンバス。俺はざらざらした手触りのそれに指を這わせる。やはり、何も浮かばない。俺にとっての、絵を描くうえでの核ともいえるものが完全に失われている。
いつもだったら、俺の中にある風景が「早く外に出してくれ」と言わんばかりに俺の手を急かす。だというのに、俺の中が空っぽになってしまったかのように、何の情感も浮かばなかった。
自分の中で産声を上げたイメージの元ともいえるものを、取り上げてそれに服を纏わせていくかのように構図を考え、下絵を描いていく。でもそのイメージの元と言えるものが今の俺にはない。あった場所にぽっかりと大きな洞があるだけだ。
なくなっていることにすら、気づいてなかった。さっきまで。本当に失っていると、ないことに気づかないと言ったのは誰だったか。
『あんたさ、夏休みの間になんか動物のスケッチしに行くとか言ってなかった?』
先程、母が急に言った時、俺は寂しさとも不快感ともつかぬ感覚を覚えた。そして俺はその話に全く心当たりがなかった。記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
『何それ』
『今度、描く絵に動物を掻こうと思ってるってあんたが言ってたんよ。覚えてない?』
そう言われた時、俺は逃げ出したうさぎを思い出した。いや、思い出してしまった。俺の手の届かないところに逃げ出したうさぎのことを。
今すぐにでも、捕まえに行きたいと思った。だけど、あんなに俊敏な動物をどう捕まえるのか、そもそも五週間前に逃げた動物を捕まえに行くのは現実的ではない。無理だ、つまりはどうしようもないのだ。
あのうさぎは俺のもとには戻ってこない、絶対に。それを確信してしまい、俺は飯もそっちのけで自分の部屋に戻ったのである。やりきれない。どうしていいか分からない。かなしくてくやしくて重いものが胸につまってしまったかのようだった。
突然、電話がポケットの中で震え出したけど、俺はそれすらも無視をして腕の囲いの中で膝頭に目を押し付けていた。
とてもじゃないけど、今は人と話したい気分じゃない。明後日に始まる秋学期の授業、どの授業を取るかの相談だろうきっと。そんなのどうでもいい。もうどうでもいい。あらゆることを今まで絵に捧げてきたというのに。
「どうすればいいんだよ……」
俺は歯を食いしばって、固く目を閉じた。
膝に顔を埋めて暫くたってから、日がどっぷり沈んでいることに気が付いた。思ったより長い間、スツールの上で体操座りをしていたからか尻が痛い。
俺は足を伸ばしながら、灯りなどつけていない部屋が妙に明るいことに気が付いた。どこに何があるか分かるだけではなく、薄暗いながらも下絵が見える。
俺を満月が見下ろしていた。あけ放たれたこの部屋からは、驚くほど明瞭にその姿を見ることが出来る。その光がこの部屋を明るく照らしていたのだ。
まるで『絵のない絵本』のようだ。これで月が話しかけてきたりしないだろうかと思いながら俺はイヤホンを外し、カラララという音を立てながらベランダの引き戸を開けた。八月とはいえ、夜は僅かに肌寒い。そして何よりも夏の匂いがする。むせかえるような緑と熱されたアスファルトの匂いが混ざった匂い。
ああ、良い夜だな、と思いながら俺は月と目を合わせた。
もちろん、月が話し出したりはしなかった。
何考えてるんだろう俺、もう部屋に帰ろう、そう思い部屋に帰ろうとしたら、
「大きいねえ!」
そんな声が俺の耳に届いた。声のした方に目をやると、小学校低学年ぐらいの男の子が天体望遠鏡を覗き込んでいるのが見えた。道路に面した庭に男の子、その父親らしき人物、母親らしき人物、その胸に抱かれた赤ん坊がいた。どうやら家族で天体観測をしているらしい。男の子の左手には何やら紙のようなものが握られているようだ。そういえば、俺もあの年頃に満月の観察をする宿題が出た気がする。俺は満月の日を逃して、七割ぐらいになった頃に観察をしてたっけな。理由は『テレビが面白いから、あとでー』と言った後に、宿題のことをすっかり忘れていた気がする。
「満月だね」
父親らしき人がそう言うと、子供は紙に何かを書き込んだ。夏休みの宿題だろうな。大学生になってから、宿題なんかは出ないから逆に新鮮に感じる。この前まで夏休みの宿題に悩んでいたというのに。
「現金なものだな」
と俺は独り言ちた。そして月に再び視線を戻した。
こうして見ると、空に浮かんだ月は宛ら異世界への入り口のようだ。ぽっかりと口を開けている大きな穴。
多くの人間は月に触れることすら出来ない。それは古の時代の高貴な人間や高い宝と同じだ。数多の人間が月を神聖なものとみなしてきたのは、そこにもあるのかもしれない。触れられない、というのはそれだけ貴重で丁重に扱われなくてはならないものである裏付けをしているかのようだ。美術館にある物品が厚いガラスケースの向こうから姿を晒しているのと同じように。
触れられない、というのは対象と自分を阻むと同時に、相手へ触れないという意識も生むのだと思う。その結果、他の対象よりも強く意識に残るのだろうか。接触できないものだからこそ、人は強く惹かれ焦がれるのだろうか。
きっと月や星に触れることが出来れば、人は此処まで月に焦がれることもなかっただろう。月自体に人を引き付けるような引力がある気がする。実際に、月は地球へ引力に従って近づいているらしいけど。
突如、
「綺麗だねー」
と母親らしき人が抱きかかえた赤ん坊を揺すりながら言った。赤ん坊は月を見ることもせず指をくわえている。ふくふくとした手にはほくろも傷もない。その様を見ながら父親らしき男は笑い、男の子はそんな中で必死に望遠鏡をのぞいている。
不意に庭の横を通っていた原付に乗った男がくしゃみをした。それは閑静な住宅街では、爆竹のように響いた。それを聞いた赤ん坊が泣きだし、母親はあやしながら家へ帰り、父親は男の子の背後で笑いながら何やら喋っている。家から洩れるクリーム色の灯に照らされた父と息子の横顔はとても安らかだ。
それを見て、俺のうさぎが月にいればそれでいい。いや、それがいい。俺は不意にそう思った。
俺の元にはもう戻ってこないだろう。それはとても寂しいことで、今でも帰ってきて欲しくてたまらない。でもそれが叶わないのならば、遠くへ。いっそこの手が届かないほど遠くへ行ってほしい。
そして月を眺めている人を横目で見ながら、跳ね続けてくれればと思った。
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