君たちはどう生きるか、は君たちへのメッセージとは言えないところがある
映画を二回視聴した。
そろそろ映画の話題性も乏しくなってきた頃だし、ネタバレしてもいいと思うので、ポイントを絞って書いていきたい。
この映画を楽しんだ人、楽しめなかった人。それぞれに思いがあると思う。
その違いはわりと単純で「この映画は監督の自叙伝である」という前提を前情報として受け取っていたかどうか、がまず大きい。
それを理解した上で、象徴も内容も把握しておきながらも、それでもなお楽しめなかったとしたら、それは好みではなかったとしか言いようがない。
1、青サギとは何者か?
前情報によると、青サギのモデルはジブリのプロデューサーである鈴木敏夫氏であることが公式に呟かれていた。とは言え、話はそんなに単純ではない。サギとは何か、その象徴するものの正体はわりと奥が深いようだ。それは自分で調べて各々がこれだろうなと解釈を楽しめればそれで問題ないように思う。しかし、あからさまなのは、ブツブツで大きな鼻、あれは、見る人が見れば、手塚治虫作品によく登場する「猿田彦」であろうとピンとくる。どうしてそれが作中に登場するかと言えば、宮﨑監督にとって、人生を変えたと言える強い影響力を与えた人物の一人だからだと見ることが出来る。(余談だが、猿田彦は今の天皇家の先祖を導いた天狗の国津神で、カラスであり、鳥であり、太陽神でもある。映画「すずめの戸締り」の主人公、すずめのモデルとなったアメノウズメ、その夫が猿田彦。つまり、ウズヒコ。ウズメとウズヒコは繋がった二つの渦で象徴される、二柱で一つの神である。)
その事情を知らない人はわかりっこない話だが、これは有名な話で、若かりし頃に読んだ手塚治虫の「新宝島」に影響を受けて漫画家を志した宮﨑少年は、絵ばかりを描いて過ごすようになる。目も良くなくて、運動も得意ではなかった宮﨑少年は、すっかりインドア派になっていく訳だが、それを強烈にプッシュした、心の師とも言える存在が、手塚治虫先生というわけだった。なので、当然ながら火の鳥だって読んでいる。
その後、宮﨑青年は漫画家の道を諦め、アニメーションの世界に入っていく。しかし、その道に立ちふさがったのが、皮肉なことに手塚治虫先生であった。手塚治虫氏は数々の作品で既に人気作家の地位を確立したように見えたが、その功績もあって漫画業界が活発化していく中で、既に昔の人になりつつあった。新作が鳴かず飛ばずになり、本人のやる気とは裏腹に世間が手塚治虫の漫画に飽きてしまって、他の新進気鋭の作家達に注目が集まっていく。そんな窮地に陥った手塚治虫が見出した活路が、テレビの力を利用することだった。
漫画をアニメーションにすることが出来れば必ず人気が出る。当時は白黒テレビの時代で、テレビ自体まだまだ高級品だったが、東京オリンピックでテレビの需要が高まったこともあり、広く普及し始めていた。そこで手塚治虫はテレビ局に掛け合い、自身の作品をアニメ作品として放送する権利を獲得する。映像の分野は、テレビより先に映画が普及しており、庶民が映像を楽しむと言えば映画館で映画を観ることだった。アニメは海外では製作されており、日本独自のアニメが求められていた中で、劇場に頼るしかなかった映画とは異なるテレビの世界で、手塚治虫のテレビ漫画が成功を収めることになる。しかし、そこでテレビと契約したことが後のアニメーターの地位を貶めることに繋がったらしい。つまり、手塚治虫氏にとっては、低迷する自分を安売りすることは全く厭わない状況であったから、後のアニメ業界のことまで考えが回らなかった。その被害を間接的に強く被ったのがこれから育とうとしていた黎明期の若いアニメーター達であり、宮﨑駿の世代であった。
テレビ漫画の先駆者として悪い前例を作ってしまった手塚治虫氏のことを宮﨑監督は徐々に敵視するようになっていく。ここで宮﨑監督は「手塚治虫のようにはならない」を自分の生き方の軸に設定することとなったようだ。
話を戻すが、君たちはどう生きるか、に登場する青サギは、宮﨑監督にとっての「自分の人生を導いた鳥であり、自分にとっての許しがたい困難となった存在」なのだろう、と一応の仮説をここで立てることが出来る。宮﨑監督にとっては、それが鈴木プロデューサーであり、手塚治虫であった、という考え方だ。青サギは「君たち」を導く存在であり、試練を与えてくる悪魔の一面が同時に存在している、と読み取れる。
2、眞人(まひと)
主人公の名前は、眞人という。作中でも名前については触れられるので、深い意味がない名前ということはないらしい。キリコは「眞(まこと)の人か、どうりで、お前からは死の臭いがプンプンする」といったことを話していた。セリフは少し違うだろうけど、ここで重要なのは「なぜ眞人の名に死の臭いがするのか」だ。
死と言えば、作中で黄金の門があり、そこに「ワレヲ學ブ者ハ死ス」と書かれていたのが印象深い。ワレとは誰のことだろう? これは作中で最もと言えるくらい答えが出ない問題で、何やら何かがそこに封印されている、と考えることが出来る、それしか解らない。この映画が自叙伝であれば、あの不思議空間は宮﨑監督の精神世界ということになるだろう。であれば、そこに封印されているものも宮﨑監督である。そういえば「ジブリで育ったアニメーターはつぶしが利かない」とどこかで言われていたのを思い出す。ジブリは他のアニメ会社とは全く違うアニメの作り方をしているから、そこで学んだ技術はジブリでしか使えないという。そしてジブリは常にこれが最後だと言い続けて作品を作ってきたから、社員は映画が完成すれば外に放り出される運命にある。これは厳しい現実だ。ジブリが好きでジブリの一員として頑張った若い人達が派遣社員のように使い捨てられ、そこで培った技術を外で活かせない。どんなにベテランでも、ジブリから一歩外に出てしまえばヒヨコとして一から学び直さなければならない。…そんなアニメ製作会社の事情を鑑みると、宮﨑監督に師事した人達が死ぬ、という解釈もわからないでもない。そういった自虐ネタだろうか?
しかし、話はそんなに単純ではなさそうである。物事を抽象化して表現するということは、それだけ多くのことを同時に語れるということであって、そこに複数の意味が含まれていないのなら、抽象的に語る意味がない。無駄な抽象化は語彙が足りないだけの話になってしまう。
一度、あの黄金の扉のシーンにあった情報をここで少し挙げてみよう。
・眞人がペリカンの大群に襲われて扉を開いて中に入ってしまう
・ペリカンは眞人を食べようとするが、青サギの風切り羽の7番を眞人が所持していた為、ペリカンは眞人を食べることが出来ない。
・キリコがペリカンの群れに飛び込み、魔法使いのスティックのような棒で火を起こしてペリカンを追い払う。その後、眞人と一緒に火でお祓いを行い、火が煙となって上がっていくとこれで大丈夫だということをキリコが言って、後ろを振り向かずに後ずさって、距離が取れたら、後ろを向いてその場を去る。
これは、宮﨑監督が封印されている、にしてはあまりに仰々しいように思う。そこに封印されているのは神か悪魔か、何らかの災いをもたらす存在で、それに対しては魔法の力を使わなければ一方的にやられてしまう、ということが読み取れる。石に封印される神。石を信仰するのはアニミズム、日本のアニミズムは縄文人からの出雲系の人々の思想であり、もののけ姫、その先祖は天津神に抵抗する国津神の意思を継ぐ者達であり、磐座信仰と龍蛇信仰に属する、蝦夷、隼人、熊襲といった民族である。そして、巨石と言えば、エジプトのピラミッドが思い浮かぶ。例えば、ファラオの呪い(ツタンカーメン王墓入り口に「王の眠りを妨げる者には、死の翼が触れるべし」という言葉が彫られていた)。これは、あとあと重要になってくる「悪意に染まっていない石」というキーワードにも多少は関わってくる筈だ。石に封印された日本の神と言えば、太陽神である天照大御神が連想されるだろう。ある伝承にはヒミコが無くなった時に日食が起こったと記される。つまり、太陽が月(石)に隠れてしまう自然現象とも重なっている。ヒミは火巫であるから、火の巫女、太陽神を降ろす巫女と考えることが出来る。そのあたりは、なんとなくふわっと関連付けておけばいいだろう。
それで、ようやく話を戻すが、眞人の名になぜ死の臭いがあるのか。まず、手始めに、キリスト教的に解釈すれば、真なる人とはメシアと解釈出来る。これはユダヤ教やイスラム教も同じで、異なるのは「誰が本当の救世主なのか」で意見が分かれるということ。つまり、私こそが本物である、というリーダーが人々を従えて国や軍を作って、同様に主張する他のグループと争っている、という歴史が人類史の中に連綿と繰り返されてきたという裏の側面があった。それはまさしく戦争の原因であり、死の臭いであったろう。
次に、まことの人、であるから、人種問題に関わってくる。白人と有色人種は果たしてどちらが人としてよりベースに近いのか。これもこじれそうな話ではある。
君たちはどう生きるか、は自叙伝であるから、主人公は基本的に宮﨑監督のことだと考えられる。しかし、その主人公に眞人と名付けるというのはかなりのことだと考えられる。自分をまことの人と呼称するなど、まるで神に選ばれた存在と言うかのごとき所業だろう。これは大丈夫なのか? 確かに、あの世界は宮﨑監督の精神世界を具現化したもので、映画の観客はその精神世界の中に招待されたようなものだから、その世界のホスト、大叔父様、主とは宮﨑監督そのものであって、まさしくそれは神かもしれない。しかしそれを自分で言ってしまうというのがどういうつもりなのか、が気になってくる。
根本的な話で言えば、宮﨑監督の映画の中に登場するキャラクターは全て、宮﨑監督の分身である。ナウシカもサンもキキもメイも、女性キャラであってもそれは宮﨑監督の中にある女性性である。監督にとっては、自分で思考する自分というのはオリジナルから派生した存在であって、派生した一つの自分がアニメを製作しており、その中に更に自分を分裂させて登場させている状態で、本当のオリジナル、自分の中にある精神の根源は、今まさに封印状態であり、自分と言えどもそこは不可侵であって、その領域を神の領域と捉えている、のかも知れない。それは、あからさま宗教的な観念なので、解釈の一つに過ぎないのであるが。
つまり、眞人、というのは、そんな自分を抽象化させたもの、更に、全ての人間を抽象化させたものの、ミックスであると、私は一応解釈してみる。
3、映像研には手を出すな!
更に、予備知識として付け加えると、この映画は7年の歳月をかけ、使用された製作費は100億を超えているのではないかと試算されている。日本映画の平均制作費は5000万円程度である。100億という金額がいかにぶっとんでいるか、が理解出来るだろう。これは、売れると確信しての投資ではない。スポンサーが誰なのか不明だが、その人はわりと騙されている筈だ。この映画は採算度外視で作られているとしか思えない。ジブリが宵越しの銭を持たない為の、最後の贅沢をするアニメだと思う。しかも、宣伝費をほぼかけなかったというから驚きである。もし映画が不発に終わって、さっぱり売れなかったらどうするのか、怖くなかったのだろうか?
これを読んでいる人の9割の人は「映像研には手を出すな!」という漫画本を知らないと思う。それをここで急に引き合いに出して説明してもピンとこないであろうことは重々承知なのだが、どうしても面白かったので、ここで少し語っておきたい。
映像研には手を出すな!、は大童澄瞳氏の描く、女子高生三人組が素人ながら一からアニメを部活動で作る物語。最新刊の8巻では音響や声優などメンバーが増えているが、とうとう全国規模のアニメ大会で優勝して賞金300万円を獲得することになった。こう書くと単純な話だが、その物語中で描かれているアニメ哲学は実に奥が深い。例えば、予選の段階で審査員が「血の表現を抑えた方がいい」とアドバイスする。それに対して主人公が出した答えが「血が些細な味付け程度の演出だと思われたのが問題の核心」であり、血の演出をやめるのではなく、血の表現が必要であると解らせる演出に切り替える。つまり、舞台装置に血による生体認証の機械を登場させることで流血を必要とさせた。主人公であり監督である女子高生、浅草氏は「血は何万年もかけて意味を持ち過ぎた、今はただの血を表現する方が難しい」と語った。これは一例だが、アニメとは記号の集合体であり、人と人の間に存在する暗黙の了解の組み合わせで成立しているコンテンツだということを丁寧に紐解いていく作品になっているということが、説明不足ではあるけど伝わってくれればうれしい。
それでだが、この物語は初期から「我々はモラトリアムに守られている」という発言がある。大人は既得権益を守る為、責任を果たす為、生活の為、仕事としてモノづくりをする、そこにクリエイターとしての自由はほぼ失われ、売れるものを作らなければ話にならないというしがらみの中で表現を継続していくこととなるが、我々は学生だから、そのしがらみがないから挑戦することが容易い、と主張していた。学生時代にしか出来ないことは学生の内にやっておかないともったいないというわけだ。そのチャンスをアニメという題材で最大限活かしたらどうなるか、という思考実験。内容はかなり哲学的で詩的である。そして、8巻では大人と子どもの対比となってそれが極まった。つまり「青春は活力を失った人の振り返りの中にしか存在しない夢の中のもの。私はそんな思い出に乗っかった覚えはない」や「年長者に求められるのは挑戦のサポートであって、先回りの規制ではない」や「確固たる自我を持たず、環境に流され他者の創作行為を軽視し、生ぬるい平穏に甘んじ、自身の創作をも貶めている。その平穏に波風が立たないようにと、表現を規制する側になっている。もはやあなた達の中に表現者の影はない」など。大人にとって耳が痛い痛烈な批判を行う。
「俺は大人と戦っているようなつもりでした。大人はバカで余計な注文ばかり。出る杭を打ち、若い芽を摘み取り、出鼻を挫き、自分達は何もせず過去の遺産で食っている。視聴者を見下し、型通りのコンテンツで金を稼ごうとする悪い奴らだ。そいつらと戦うんだって。古い人間なんか意に介さず、自分の表現を貫くんだって。でも映像研は違った。映像研は“わかってくれない大人達”を突き放すのではなく、自分達の見ている景色を一緒に見ようと引き寄せたんです。」
このセリフは、若い大人が作中で言ったセリフだが、映像研の作品に感化されたことがよく解るセリフとなっていて面白かった。モラトリアムに守られている学生だからこそ出来ることではあったが、その作品によってつまらない大人になってしまったかつての子供達が目を覚ます。そうだった、自分は表現者だったのだ。
これが、映像研のメッセージで、痛烈な大人批判だったわけだけど、これを読んでから、君たちはどう生きるか、を観るとどうだろう。宮﨑監督は、果たしてここで批判される大人達に該当しているだろうか?
まず、眞人が自傷して頭からドクドクと血を流すシーン。血をあからさまに表現するというタブーを何も気にせず行っている。宮﨑監督は既にそういうことを気にするレベルにない。
次に、モラトリアムに守られている、という表現。大人はモラトリアムに守られない。失敗したら自分で責任を取らなければならない。しかし、宮﨑監督はどうだろう。鈴木敏夫プロデューサーが全ての責任を負ってくれるので、守られている。だから表現者として自由だ。
大人は青春を描こうとする。そういう夢を見たがる。しかしそれは子どもの為にそうするのではなく、自分が活力を失ったから青春を描くことで活力を取り戻そうとしているに過ぎないのではないか。それに対して、宮﨑監督はどうだろう。青春を描くことを目的としているか。そんなことはなさそうだ。自分がどうしたいかより、もっと、子ども達のことを考えて作品を作ってきた。子ども達に見せたいからアニメを作っている。君たちはどう生きるかでは、それを手放した。子どもの為に作る、という大義を、自分の為に作る、に切り替えている。そこにあるのは、青春を取り戻そうという逃避ではなく、死にゆく自分と最期に向き合う形だ。
今回、宣伝にお金をかけなかったのは、先回りの規制を逃れる為でもあっただろう。お金を出してくれる沢山の大人達の要望に応える映画にしないため。
宮﨑監督には数々の弟子がいるが、その中で最も成功したと言えるのがエヴァンゲリオンの庵野監督であり、庵野監督はエヴァで大人と子どもの対比を常に描いてきた。そして、大人がいかに汚い生き物で、子どもはいかに傷つきやすくて、犠牲者だったかを描いた。現代の子どもの目線から大人を非難し続けた。けれどそれによって鬱になって、生きる希望を見失ってしまう。大人にならざるを得ない自分を否定し続ける難しさ。そして監督は結婚することでその苦しみを乗り越えることに成功し、シン・ヱヴァンゲリヲンでは、永遠の少年だった主人公が大人になって締めくくった。これで良かったんだな、と思える終わり方だった。ようやく大人になった。エヴァの呪縛に囚われた「君たち」も、これでようやく大人になれるだろう。そのタイミングで、宮﨑監督が出した答えが「子どものような表現者になること」だった。これによって、庵野さんがヱヴァンゲリヲンで出した答えも、映像研には手を出すな! で語られた哲学も、全てひっくり返したことになる。
「わかってくれない“子ども達”を突き放すのではなく、自分達の見ている景色を一緒に見ようと引き寄せたんです」
4、君たちとは誰か?
君たちはどう生きるか。そのタイトルは一見すると、アニメの視聴者、もしくはこれからを生きる若者達へのメッセージのようだ。ようするに「私はこのように生きた。あとは君たちの時代」と、上から目線で説教をしているかのようにも受け取れる。しかし、映画を観ると、そういった内容とは真逆であることが解る。むしろ、高みにいる大叔父が全てを捨てて若者達の目線まで降りてこようとしているような、死ぬときは全裸だ、とでもいうような無欲さを感じられる。ああ、この人はもう死んでしまうんだ、と思える。それと同時に、まだまだ生きるつもりなんだこの人は、という矛盾も感じる。若者のように笑って、泣いて、どれだけ瑞々しい感性の82歳なんだ、と驚愕せざるをえない気持ちにさせられる。半分以下しか生きていない自分よりも若いような気さえする。
更に映画をよく観ると、これはアニメの教科書、ジブリの奥義書という見方が出来る。アニメ監督としての全てを込めようとしているようだ。つまり、監督にとっての生きるとはアニメを作ることと同義であって、君たちとは、アニメを作る人のことなのだろう、と思える。
君たちとは、ジブリ社員の「君たち」であり、ジブリに関わって仕事をしてきた全ての「君たち」ではないか。そして、ジブリを好きになってくれた「君たち」である筈だ。ジブリにそんなに興味がない人達は君たちには含まれない。
君たち、は全て鳥で表現された。ジブリ世界のイマジナリーの空間には、外から連れてこられたペリカン達がわらわらを食べていきていた。わらわらは未来の子供達だ。そのペリカンを招き入れたのは大叔父だ。不気味な話にはなるが、ペリカンは出口を求めたが、外の世界に出ることが出来なかったので、わらわらを食べ続けた。インコ達も、外の世界から連れてこられた。インコは隕石のジブリ世界の中で繁殖して増えて、その世界を支配する住民になっていた。インコはジブリファンだろう。そして、ジブリ世界が崩壊すると、鳥達は外へ飛び立った。外へ出た鳥達は糞をまき散らした。それを眞人が浴びたが、全く意に介さなかった。
まとめ
君たちはどう生きるか、は、アニメ界の巨匠が13個の「悪意のない石」を積み上げた世界であった。悪意のない石は珍しい。隕石は時の回廊となっていて、時間の流れるそれぞれの世界を繋ぐ、扉の集合した駅のような場所になっていた。だから、その空間では時間が不思議な流れ方をする。ヒミとキリコは眞人が生まれる前の時間の扉を開いて外に出た。外に出ると、中での記憶は失われる。現実では一年の時が流れていたが、そこに神隠しにあっていたヒミとキリコが現れた形になる。しかし、疑問なのはキリコで、恐らくキリコは生まれた時から時の回廊にいたのだろう。そこには現実にいたおばあちゃん達の人形があった。気になる表現だ。大叔父は全てを創造する。あのおばあちゃん達は現実の屋敷を守る為に作られた式神のようなものではないか、と仮説を立ててみる。キリコも式神だが、その役割はわらわらを育てることだった。その役割は大叔父の死と共に消失してしまう。
大叔父はあの隕石の秘密を解き明かし、時の回廊の存在に行き着き、そこに自分の空間を創造することで、時間が一方向に流れる三次元空間から自由になれる四次元空間に居を構えることに成功した。もともとその空間はそこにあったのだが、そこに三次元空間から辿り着いた人はどうやらいなくて、誰もいなかった場所に自分の城を築いた大叔父が、魔法使いのように、色んなものを創造した、と。つまりは、ジブリ空間の主である宮﨑監督である。その空間で生まれたキリコが、ヒミと一緒に現実に現れ、記憶を失って、屋敷で侍女となって生活し、何十年か経って、そこに眞人が現れる。ヒミは勝一と結婚して眞人を産む。そう考えると、ヒミはキリコがおばあちゃんになるくらいの時間を一緒に過ごしているような気もする。どうなっているんだろう。それはさておき、キリコもおばあちゃん達も、青サギも、大叔父が作った妖怪に近い存在な気がするという話。
大叔父は常世(とこよ)のような地底の四次元世界を介して様々な現世(うつしよ)を旅し、悪意に汚されていない石を探した。大叔父のいる草原には無数の石が転がっている。その全てに悪意が含まれてある。だから捨て置かれている。大叔父は眞人に自分の仕事を継げという。現実的に考えればジブリアニメを作れという話だが、それを眞人は断ってしまう。宮﨑監督には息子がいて、息子である宮﨑吾朗さんは宮﨑監督の後継者にはどうやらなれなかった。そことリンクしているようにも思える。眞人は大叔父に「自分は自分で傷をつけた。この傷は悪意の証明だ。だからその石には触れない」といったことを語る。ようするに自分には悪意があるから、大叔父のように綺麗な心で石を積んだり出来ないよ、と言った。ついでに、積み木(命)ならいいけど石は墓(死)と同じだ、とチクリと非難した。
眞人が期待出来なければ夏子の子に期待するしかないから、夏子があの世界で出産を控えていて、それは眞人が継がなくていいようにしたのかもしれない、などと考えることも出来た。結果的に、誰も引き継がなかったので、あの世界は崩壊した。
さて、ここで言う「悪意」とは何のことだろう。純粋さの喪失? 穢れること? 人間らしさ(まことの人)そのものだろうか。真理や真実が歪んでしまったもののことか。
たしかに、この世界は余計なことで溢れているけれど。
13という数字は何かと意味深で、例えばキリスト教ではユダを意味するとして不吉がられたりする。あとは、12という数がそもそも意味深で、円卓の騎士や干支や星座や、一年の月の数、それらを支配するのが13(トランプのキング)という訳だ。12に支配される世界から解脱する存在。例外、それは神かもしれないし、悪魔かも知れない。
石を信仰する思想のほとんどが悪意に染まってしまって、本当の意味で信仰している人が少ない、という意味にも受け取れる。それこそ意味深だ。
監督は、この作品が世に出る頃の世の中がどうなっているのかをずっと気にしていたらしい。最初は3年で完成する予定だったが、鈴木さんが「時間を気にせず予算を気にせず一度、やりたいことをやりたいだけやってみたらいい」と、許可したらしくて、時間に追われずお金を気にせず作ったら7年も経ってしまったらしい。そうなると、日本の方向性的に、公開時には既に戦争が始まってしまっているんじゃないか、そうなったら映画を楽しむどころじゃないじゃないか、第二次大戦が6年間の出来事だったから、次の第三次大戦も数年で終結し、戦争が終われば中断されていた映画の製作が再開して、どうにかして完成する頃にはもうその時の日本は戦後なんじゃないか。そもそも、自分が寿命でそろそろ死んでしまうんじゃないか。色々考えただろう。でも、結果としてとりあえず日本はまだ戦時中という雰囲気でもなく、映画は完成し、無事に公開された。7年もかけてしまうと、どう転んでもいいように「世の中がこうなっているんじゃないか」という予想をして、どこにでも着地出来るようにしてしまうのはある程度は仕方ないのだと思う。やりたいことを時間の制限なく、大人の事情にも振り回されず、純粋に本気でやったら、宮﨑駿は何を作るのだろうか、というプロデュースを、鈴木敏夫さんが今回行った、と。壮大な実験。そうしたらこうなった。とんでもないカオスだった。
以上、拙い文章ではあるが、この作品があらゆる意味で異常だということを少しは説明出来たかと思う。こんなことが現実にあり得るんだ、という感動を味わえたら、人はきっと絶句せざるを得ないだろう。この映画のすごさはそこにこそあると私は考えている。この映画を観て絶句した人は、何かしら度肝を抜かれたから絶句したのであって、その絶句の理由は一つではないから、どう整理したものか、解らなくなる。この映画の受け止め方は、きっとそれで合っている。