優しいスーパー営業マンこと悲しみ

悲しい。
秋は悲しみの季節だとか言うけど、今年の秋はそれにしたって悲しい。寂しいにも近い。

別にそんな大きな事件は何もないのに、散歩をしていて犬が全然家に帰ろうとしてくれないとか、棚から物が落ちたけど家に1人しかいないとか、楽しみにしてたプリンがひっそりと冷蔵庫で腐ってた時とか。
そんな何でもないことで、道に迷って不安で押しつぶされそうになった子供みたいに、その場でおいおいと泣いてしまいたくなる。


中学でいじめられていた時は、今よりずっと毎日つらいことがあったはずなのにこんなに悲しくなかった気がする。
家も大変で自分が崩れると衣食住が無くなりかねない感じだったから、多分怒りとか生存本能とかが勝っていたのだろう。


…ともすればこれは、あの時の悲しみが遅れて来訪してきているのではないか?
なるほどそう考えると辻褄が合う。
この悲しみは今の悲しみではなくて、過去の処理されなかった悲しみが処理してもらおうと再訪問しているのかもしれない。


あの時の私はそれはもういっぱいいっぱいで、悲しみを感じるゆとりすらなかった。
何なら悲しみに漬け入られないように悲しみを追い返していたまである。

夕飯を作っている時に来た電気代割引のセールス訪問ぐらい素っ気なく、ドアすら開けずに悲しみを門前で追い返していた気がする。
かわいそうに私の悲しみは項垂れてトボトボ帰るしかなかったのだろう。
悲しみにもノルマとかあったかもしれないのに。
営業部長に怒られたりしなかった?
なんかごめんね。


だけど追い返した悲しみは消えずに残っていた。

また私の悲しみはしぶとく、粘り強かった。
1位にはなれないけど、地道にコツコツと毎月契約を取ってくる営業マンぐらい粘り強かった。

そんな悲しみが「今ならドアを開けて話ぐらいは聞いてもらえるぞ!」と思ったのか、ここ数週間日に何度もピンポンを押しにきているのだ。
勘弁してほしい。
さっき謝ったけど取り消したい。



一方、スーパー営業マン悲しみは優しいやつでもあった。

あと数日で30歳になるけど、10年以上私に無視されながらも、その間忙しそうな私に気を遣って静かに待ってくれていた。
実は良いやつなのかもしれない。
やっぱりごめんね。


そんな実は良いやつこと悲しみが「今ならいけるな」と思えるぐらいゆとりある生活をできているのはありがたいことだなと思う。
応援してくれる人、頼りにしてくれる人、気づきを与えてくれる人、支えたくれる人、今ままでこのために生きてきたのだと思えるぐらい、今幸せな日々を生きていると思う。
だから悲しみが遅れてやって来たのかもしれない。
人間って本当によくできている。


ここでまた悲しみを追い返したら、さすがのスーパー営業マン悲しみも今度こそ心が折れて二度とピンポンを押しに来てくれなくなるかもしれない。
それはとても悲しいことで、私は自分をそんな目に遭わせてあげたくないなと思う。

あと、それで済んだら良いのだけど、私の悲しみは少々粘り強過ぎる所があるので、今度はピンポンでは足りないと判断して家ごとバズーカでドアを破壊しかねない思い切りの良さがある。
仕方ねぇ、だったらこれしかねぇ!の捨て身の作戦である。
宿主に似ているのでやりかねない。


同じように悲しみを抱えている人、あなたの悲しみはどんな性格のどんな方でしょう?
もしよかったら聞いてみたいな。

うちの悲しみは優しいスーパー営業マンです。
ドアを爆破されない程度に、たまには温かい紅茶でも出して話を聞いてやろうと思います。






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