【密室殺人】黒衣の聖母(3)
3
夕の六つごろから、島の者なら台風の予兆としてなじみのある湿気を帯びた西風が吹き始めた。
「見せたいものとはなんじゃ?」
十兵衛が前をゆくいさなに声を懸けた。
「府内からお役人さまが着いたそうじゃな」
いさなは問われたことには答えず、逆に尋き返した。
「ああ、着いた」
破船検分吏の一行が魔界島を訪のうたのは、座礁した破船が見つかってから初めての大潮となる日だった。村役の左兵衛が、島民一軒一軒に先触れして周った。
「朝方の廻船にて、府内のお代官が来られるとの報せが参った。くれぐれも粗相のないよう心得られよ」
島民は数艘の一丁櫓と短艇を漕ぎ出し、代官一行を迎えた。
代官所が置かれている救民郡は在来の朽綱氏がすでに亡く、大友氏の息のかかった田原氏が詰めている。
当代の宗悦は老齢で、潮が凪いだ頃合いを見計らって裃を濡らさぬよう配下に負ぶさって上陸した。いささか威厳を欠く代官様の来訪に、迎えの村人からは失笑の声も洩れた。
「まっこと、魔界の島にふさわしか」
船酔いに苦しめられた宗悦とその家臣たちは、鄙びた村の様子に嘆息した。
隆盛を誇る彼らから見れば、ここは最果ての離島なのだ。村役の左兵衛が、額を砂にこすりつけるようにして、一行を出迎えた。
「お代官様には、よくぞ遠路かようなる鄙にお越しなされまいた。本来ならば、浜長の宗右衛門ががお迎えすべきところ、それもならず申し訳のうござりまする」
主君宗麟と同じく「宗」の一字を名前に戴く田原宗悦は、このような鄙の浜長が宗右衛門を名乗ることに鼻白んだが、伏して奏上する左兵衛の話がトヨの客死に及ぶや、驚きの表情を浮かべた。
居ずまいを改めての応対ではあったが、骨柄が小さくなにごとにも驚く様は、威厳に欠けている。早速にも歓迎の宴が始まるはずが、思わぬ運びじゃ、とのとまどいが顔に表れた。
「トヨ様が何者に害されたか、お役人さまの吟味をお願いいたしとうございます」
宗悦は慌てた。
それでなくとも面倒な南蛮船の検分に加え、厄介ごとを押しつけられてはかなわぬ。きょときょとと落ち着かぬ目がそう語っていた。
「それにつきまして、考えがございます」
十兵衛がしゃしゃり出て跪いた。
「申してみよ」
身形は貧しいが、雅びた風の十兵衛に宗悦は好感を抱いたようだ。十兵衛はトヨが害された日の状況を簡潔に述べ、
「難儀なるは、引き戸が内側から突っ支いされておりました件にてございます」
「そのようじゃな。老女が自害にしては、刃物が見当たらなかったとのことゆえ」
「したが、これは彼の庫裏のつくりがもたらした目眩ましかと存じます」
「どういうことじゃ?」
十兵衛は、庫裏の内にある行李の書物について、潮風にさらされる海際の建屋に収められていたにしては状態がよかった、と言った。
「この庫裏のごとき横木を組み合わせたつくりの蔵は、湿気にさらされるや木が水を含んで膨らみ、湿気を遮るよう仕組になっておりまする」
ふむ、と宗悦が頷いた。ゆえに書物の状態が良かったのか、と納得の態である。
「あの日は、夕刻より雨が降り出してございます。
それゆえ湿気により庫裏の横木が膨らみ、引き戸の枠を圧迫したるがゆえ、我ら内側より心張り棒が噛ましてあると勘違いいたしました」
「なるほど、あとで見出した心張り棒は、実は噛まされていなかったのじゃな」
「さよう、実は雨が降る前に物盗り目当ての賊が押し入り、トヨ殿をば害したかに思えます」
宗悦は満足気に頷いた。
「お主の申しよう、もっともじゃ。早速にも島内にて怪しき者をば手配いたそう」
話を聞いていたいさなは、ふんと鼻をならしたがなにも言い足しはしなかった。
ふたりはやがて、海を見下ろす丘の上に出た。
そこは切支丹の共同墓地として使われている荒地で、名ある者には十字を刻む石碑や、罪標が書かれた石塔が建っている。一方、無縁墓地ではただの土饅頭が墓碑の代わりの目印となっていた。
その土饅頭のひとつが割れている。遺骸が身につけていた思しき革靴が、墓地の隅に転がっていた。
「な、奇怪であろう? まるで、埋められていたしびとが蘇り、穴から抜け出したかのようではないか」蝉の声が姦しく鳴き渡るなかで、いさなが十兵衛に言った。「村の者のなかには、しびとがえりじゃ、と言うものもおる」
十兵衛は、ヤブ蚊を払いながら割れた土饅頭の側にかがみ込んで、中を改めた。
「埋めておったは、破船の水死人か?」
「おうよ。村人を喰らうために生き返って彷徨っておるわ」
馬鹿(おこ)なることを言うでない。十兵衛は苦笑する。
「たれかが掘り返しただけじゃ。見よ!」穴の縁を指さした。「底へ向かってえぐれておるわ」
「何のために、そのようなことをする?」いさなが口を尖らせた。「白蓮などは、伴天連はしびとを喰らうのじゃ、としきりに村人に吹聴しておるぞ」
十兵衛はいさなの相手をせず、尋ねた。
「荒木殿は礼拝堂か?」
「いや、近頃はしきりに宗右衛門屋敷に異人を訪ねておるらしい」いさなは声を顰めて囁いた。「人の口に戸は立てられぬ。どうやら屋敷内に異人が匿われておることを、白蓮めが嗅ぎつけたらしい。村人を煽動して調伏すべしと息巻いておる」
十兵衛は、ぽりぽりと蚊に刺された腕を掻きながら言った。
「荒木殿は、黒衣の聖母に魅入られているようじゃな」
「あの聖母に魅入られたるは、爺さまだけではない」
いさなが何かを思い出す目つきをした。
「ぬしも、見たことがあるのか?」
十兵衛の問いに、ああ、と答える。
いさなは、南蛮船が難破した日、海から入った洞のなかで見たことを訥々と語り始めた。
「たれかおるのか?」
洞のなかへ向かって呼び掛けた声がこだました。
そのとき、不意にひいやりとした手に首筋をなでられたような気がして、ひぃと声を上げた。
――おそるることはない。
聴いたこともない言葉が、頭の中に流れ込んできた。言葉にならぬ言葉。異国の言葉でありながら、その意味が伝わってくる。頭が痺れるような感覚に襲われ、いさなはその場に座り込んだ。
その体勢のまま、唇を吸われた。ぬらぬらとした唾液が口の中に入り込んでくる。
うっぷ。口の中の唾液を吐き出しながら手をやみくもに突き出し、なにものかから身を守るように振り回す。しかし、相手は容赦なくいさなの体を触り、なめ回し、陵辱しようとする。
――おそるることはない。我に身をゆだねれば良いのじゃ。もはや犬の血には飽いたわ。ぬしのようなうら若きおなごに、このような所でまみえることができようとはの。
抵抗する力が、徐々に失われてゆくのがわかる。身をゆだねよう。甘美なささやきの前に抗する気力が失せてゆく。
瞬間、いさなの胸元から鈍い光がこぼれ出た。
きぃーあー。獣の咆吼が洞に響いた。
「なぜこのような東の涯にて、かかる目に遭わねばならぬ」
怨念の強さに圧倒され、いさなはその場に伏せた。頭上を蝙蝠がばたばたと舞う。悪しき巡り合わせじゃ。悪しき巡り合わせじゃ。悲鳴のような声が繰り返した。
しばらくして意識がはっきりしてくると、いさなはふらふらと立ち上がった。
いったい、なんだったのじゃ?
入り口の方へと戻ろうとするが、足がすくみ、全身の震えが止まらない。ふと目を凝らすと、洞の奥に黒光りする長持ちのようなものが立てかけてあるのに気づいた。黒い吐息をまき散らすかのように腐臭、いや、それ以上に死に近いなにかの感触が、あたり一面に漂っている。
立ち上る冷気に、いさなは思わず胸元にこぼれ落ちた”くるす”を握りしめた。銅で作られた二寸ほどの粗末な十字架だが、”ぱーどれ”によって聖別された真品である。
目が慣れるにつれ、黒い長持ちの傍らに誰か居るのがわかった。
その人物がゆらりと立ち上がると、大柄ないさなよりも頭ひとつふたつ高く見える。異質なにおいが漂い、いさなは思わずあとずさりした。強い体臭に混じり、何かを燻したようなにおいが満ちていた。
村人のなかには、これほどの体格の者はいない。
そう言えば南蛮船が難破したと聞いた。ここまで泳ぎ着いた生き残りがいたのだろうか。
以前、唐船が打ち上げられたとき、芥子坊主(弁髪の異称)が数人上陸してきた。子どもだったいさなは、ひたすら怖かったことを覚えている。
恐怖が蘇った。
うかつじゃった。逃げねば、と思ったが、足が動かない。
そのとき、相手の動きがぎこちないのに気づいた。
「怪我をしておるのか?」
問いかけると、相手はその場にくずおれた。いさなは恐る恐る傍らに寄る。体臭がきつく、色の白い顔は眼窩がくぼみ、妙なことだが、懐かしいような思いにとらわれた。
異人の年齢はわかりづらいが、銀色に染まった髪、髭などから、初老を迎えた年頃だと思われた。異人はうわごとのように、”ろざりあ”と呟いている。
いさなは怪我をしている右足に、自分の帯を解いてきつく縛り、止血してやった。
虚ろに冥界を彷徨っていた異人の意識がふと現実に帰り、青い瞳がいさなを認めた。害意がないことがわかったのか、いかつい顔の異人は微笑むと、自分を指して ”さるふぃあ”、と言った。どうやらそれが、この紅毛人の名まえのようだ。
洞窟の奥に立てかけてある長持ちは一間くらいの長さで、側面に浮き彫りが施された棺だった。蓋には複雑な意匠の繰り返し模様をかたどった装飾が施され、茨と薔薇の花弁が刻まれている。
奇妙なことに、数カ所刻まれていたと思われる、十字架の浮き彫りが、すべて削り取られていた。棺の蓋は半ば外れ、
その中には眠っているかのような若い女が横たわっている。
「死んでおるのか? まるで生きているようじゃの」
いさなは声に出して言った。少女と言ってもいいようなその若い女は、黒い天鵞絨の長衣をまとい、額は白く頬は紅く、鳶色の髪が柔らかくうねってその顔を縁取っている。
確かに息をしておらぬ。だが、今にも目を開けて微笑んだとしても不思議ではない。
びるぜんまりあさま――
首からかけたくるすに手を掛けると、思わずそう唱えていた。
黒衣をまとった聖母、そう思えた。いさながその少女に手を触れようとすると、異人がうなり声をあげた。
「わかった。触りはせぬ」
そう言うと、まるで言葉が通じたかのように巨大な異人は体を横たえた。
くるすが反射する光が届くと、邪気がないように見えた少女の美しい顔が一瞬、ゆがんだように思えた。
いさなは動くはずのない閉じた口の中に、鋭い犬歯を見たような気がした。先ほど話しかけてきたのは、この聖母ではないか? いさなの心中に疑念が芽生えた。
ばかな、この聖母は確かに死んでおる。動くわけがない。
そのとき、異人がなにかにぴくりと反応した。洞窟の入り口に舟が漕ぎ寄せたようだ。それに続いて松明の明かりが浮かび上がり、数人の男どもがこちらに入ってくる気配が続いた。
いさなは異人を岩陰に押しやり、自分も身を隠すと息をひそめた。
「浜の御爺が、異人が入っていくのを見たと言うのは、確かにここなのかや?」
「おおかた酔って幻でも見たのであろうが」
「見や」
「小舟の残骸ではないか?」
声高に言い合いながら、洞内に入ってくる。
「このような洞があったとはのう」
「儂も来るのは久しぶりじゃて。子どもの頃に一度、中に入って叱られたことがある。祟りがあるそうじゃで」
声に聞き覚えがある。浜長の宗右衛門屋敷に詰めている男たちだ。
やがて松明を背に数人の男たちの足音が聞こえてきた。男たちの掲げた松明の光が届き、安置してある棺を照らした。
彼らが息を呑む気配が伝わってくる。棺の中の聖母は、がさつな海の男たちですら畏怖させる威厳を持っていた。先頭の男が、声を励ますように言った。
「これは異国の女神であろうか。運び出してトヨ様にお目にかけるのじゃ」
男たちが、棺に手を掛ける。
そのとき、いさなが止める間もなく異人が叫び声を上げながら岩陰から飛び出した。棺が運び出されるのを止めようとしているようだ。
不意を突かれた男たちは一瞬恐慌状態になったが、やがて相手がひとりであることに気づくと、回りを取り囲んだ。
「破船の生き残りじゃ。取り押さえろ」
何人かが異人に組み付いた。異人は膂力が強く、数人の男をひとりで振り回したが、怪我をしている足を棍棒で殴られたらしく悲鳴を上げて倒れた。
「殺すでない。生け捕りにしや」
「何という力じゃ」
倒れた異人を小手高手に縛って自由を奪った末に、やっと息をついた男たちの嘆息が聞こえてきた。
「ほかにはおらぬか?」
松明の光がいさなの傍らを照らしたが、男たちも腰が引けていたことが幸いした。
いさなが息を殺しているうちに彼らは異人の男と棺を舟に運び、洞窟を後にした。いさなはしばらくの間震えが止まらなかったが、表の気配が消えたのを確認してからそっと外へ泳ぎ出た。
「なるほど。トヨ殿があの黒衣聖母を手に入れたは、そのような経緯であったか」
十兵衛は納得した。そのとき、宗右衛門屋敷のある浜のほうが明るくなり、大勢の猛る声が聞こえてきた。(続く)
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