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【歴史夜話#5】『わが友なる敵』真田幸村vs伊達政宗
一代の英傑だった豊臣秀吉が没したあと、血筋派(遺児秀頼派)と番頭派(江戸宰相家康派)に分かれた後継争いが決着する、大阪夏の陣。
『赤い彗星』真田幸村vs『黒い三連星』伊達政宗の戦いが実現したのは、この戦場でのことでした。
しかしこの戦いは、英雄たちの活躍すら押し流す時代の趨勢を、象徴するものとも言えます。
ふたりの戦いの華は、戦場の外にあったようです。幸村がとった、思いもかけぬ行動に応える、政宗の『粋(いき)』についてのエピソードです。
戦国屈指の好カード
戦国時代を代表する好カードといえば、だれもが信玄と謙信が戦った川中島を思い浮かべるだろう。
さらに北条氏康を加えた、三つどもえの戦いも見応えがある。
知名度で劣るとは言え、赤備えで知られる真田幸村と黒のチームカラーで統一した伊達政宗の直接対決は、玄人好みのシブイ一戦と言える。
馬場 vs 猪木は実現しなかったが、長州 vs 藤波に熱狂したあの頃を思い出す。
両雄がまみえたのは、遺児を担ぐ上方派と新帝都東京派の趨勢が、すでに決した大阪夏の陣(慶長20年(1615年))でのことだった。
戦国のフィナーレを飾るにふさわしい一戦だ。
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政宗世代だった幸村
伊達政宗は永禄10年(1567年)、出羽国(山形県)米沢城で伊達氏16代当主輝宗の嫡男として生まれた。
同じ年、信濃国(長野県)では、真田昌幸の次男として幸村(信繁)が生まれている。信繁には元亀元年(1570年)誕生説もあるが、どちらにせよ甲子園ならギリ対戦できたはずで、同世代と言える。
実母に疎まれ、母が溺愛した行儀のいい弟との間で家督争いがあった、という点で政宗の生い立ちは信長と似ている。
ただこの時代の史書は、当時の先進国中国のスタイルを模倣して類型化されている。だから似通った生い立ち話が、各地にある。
余談だが信長の伝説にしても、曹操をモデルにしたフィクションではないか、というのが私の画期的な新説だ。
いっぽう真田幸村の父、昌幸は中小企業社長にありがちなクセのある親父。自分をどう見せるか、というコツを熟知している。
家康不在の徳川軍に勝利した上田合戦ののち、「あの」徳川に勝った真田、というコピーを大いに流行らせた。徳川という大企業に対抗するには、こうしたケレンも必要だったのだろう。
アクの強い親父をもった幸村だが、親父よりは純粋な武人だったようだ。
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わが友なる敵
前年の大阪冬の陣後、家康の姦計によって堀を埋められた大阪城は、もはや籠城戦に耐える術がなかった。
慶長20年(1615年)4月30日、戦略会議で幸村は大坂城南辺りで終結した徳川軍を迎え撃つことを主張したが、後藤又兵衛(基次)は道が狭い国分周辺に陣を敷き、大軍の力を削ぐ戦術に固執した。
又兵衛の戦術が理想だが、烏合の衆である大阪浪人勢が歩調を合わせた戦術行動を取れるか、幸村は危惧していた。そのため、城南で闘いたかったのだ。
しかし詮議では又兵衛案が採択された。
幸村の懸念は当たり、大阪方後隊の多くが霧によって集結に遅れてしまう。しかし又兵衛は自ら率いる軍だけで善戦し、己の戦術眼が正しかったことを証明する。
男達が自らをを証明する戦いは、それぞれが正しい目を持っていたと知らしめた。
又兵衛が戦死したのち、真田幸村と伊達政宗による戦国ラストを飾る一戦の火蓋が切られる。
「火蓋が切られる」とは火縄銃の点火準備が整った、ことを意味する。その通り、この一戦は鉄砲の運用に拠った戦いでもあった。
午後になって展開した「誉田(こんだ)の戦い」では、徳川方総勢34,300に対し、幸村ら後隊12,000がぶつかった。
序盤、伊達の片倉重長が率いる鉄砲騎馬隊が真田軍を攻め立てた。伊達の鉄砲騎馬隊とは、騎射ではなく鉄砲の弾幕を利用した攪乱戦術である。
真田軍は相手の術中にはまらず、引き寄せてから応射したので伊達勢は藤井寺まで後退した。そこで毛利勢と合流して両軍が対峙し、膠着状態になる。
徳川先鋒大将の水野勝成は追撃を主張したが、伊達政宗が同意しなかったため実現しなかった。
幸村は追撃しない相手に対し、「関東軍百万も候へ~男は一人もなく候~」と言ったが、実際に追撃されたら窮していた場面だ。
政宗としては幸村をすぐに追撃して殲滅せず、「敵」を温存することが外様である自分の価値を高める、と考えただろう。
そうした行動原理に従った政宗に、幸村は自分と同じく組織内で苦闘する「友」を見たのかもしれない。
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いくさの果てに・・・
源平時代のいくさは、生物のオスが「ディスプレイ」すなわち優れたオスであることを<誇示>し、リーダーシップをとる勝負だった。種の存続のためには同種が殺し合わないで、力を温存したほうが得策だったのだ。
しかし鉄砲という火器を得たニンゲンは、生物の頂点に立つ。
その結果、信長・秀吉の時代は、物理的な殲滅戦つまり競合相手を消し去る戦いに移行する。
それに続く時代の組織的戦闘が主流となる頃には、幸村・政宗という英傑ですら組織の歯車に過ぎなかった。そこで生き残るためには、戦闘に勝利することより組織内での地位保全が重要になる。
徳川軍の先鋒である猛将水野勝成ですら、外様を調整する中間管理職なのだ。
また後藤又兵衛も、一騎打ちではなく名も無き者の銃弾に倒れた。
閉鎖的組織で、幸村が提案した戦略はなにひとつ採用されなかった。
しかも、もし幸村案が採用され大阪方が勝ったりしたら、淀殿らワガママ女帝によって浪人衆は戦後粛正されるのは明白だった。
過酷な運命のなかに、幸村は敵方である政宗にシンパシーを感じただろう。そんな幸村がとった、もっとも奇抜な戦術は戦いのあとで明らかになる。
片倉家の「老翁聞書」によれば「大坂落城の砌、城中より年の程十六、七ばかりの容顔美麗なる女性、白綾の鉢巻に白柄の長刀を杖つきて重綱(片倉重長)公の陣先へ出けり」とある。
幸村は三女の阿梅(おうめ)を、誉田で戦った片倉重長に託したのだ。
政宗は幸村が期待したとおり彼女を匿い、彼女はのちに重長の妻になる運命をもつ。
政宗の、文句があったら戦場で述べよ! という気概には徳川家ですら沈黙した。
なんとも、韓流ドラマのような展開ですね。
幸村には、男ならダメだが娘だったら「政宗という男は家康に憚って害したりせず、保護してくれる」という自信があったのでしょうね。
とは言え、敵方に愛娘を託すその心情を思うとき、胸が熱くなるのを禁じ得ません。
(参考)
「わが友なる敵(ロングイヤー著 安田均 訳)」講談社文庫