虹の足
「虹の足」見たことありますか?
私たちが虹と言って連想するのは空に浮かぶアーチ状の七色の橋。
その橋の一番下の部分は見たことがないですよね?
現実的にそういう原理なのかもしれないけれど、虹の足は未知の世界。
たった今思い出したけれど、「虹の岬の喫茶店」という小説でも虹を追っていく話がありました。追っても追っても一向に近づかない、やがて見失ってしまって、この岬の喫茶店を見つけるというストーリーです。
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虹の足、中学の国語の教科書にのっております。
以下「虹の足」作:吉野弘
「虹の足」
雨があがって
雲間から
乾麺(かんめん)みたいに真直な
陽射しがたくさん地上に刺さり
行手に榛名山が見えたころ
山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。
眼下にひろがる 田圃(たんぼ)の上に
虹がそっと足を下ろしたのを!
野面にすらりと足を置いて
虹のアーチが軽やかに
すっくと空に立ったのを!
その虹の足の底に
小さな村といくつかの家が
すっぽり抱かれて染められていたのだ。
それなのに
家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。
――おーい、君の家が虹の中にあるぞォ
乗客たちは頬(ほほ)を火照(ほて)らせ
野面に立った虹の足に見とれた。
多分、あれはバスの中の僕らには見えて
村の人々には見えないのだ。
そんなこともあるのだろう
他人には見えて
自分には見えない幸福の中で
格別驚きもせず
幸福に生きていることが――。
幸福についての詩ですね。
幸福の渦中の中にいる人は今自分が幸福なんて意識することは滅多にないのでしょう。
もちろん、そう感じている人もいるでしょうが。
最期の文。
そんなこともあるのだろう
他人には見えて
自分には見えない幸福の中で
格別驚きもせず
幸福に生きていることが――。
私たちはいつ、幸福だと気付くのでしょう。
格別も驚きもしない幸福、穏やかな平穏な生活。理想的な暮らしをしていたとしても、どこかで満足できない面を見てしまう、隣の芝生は青くキラキラと輝いて見える。
この詩の中に出てくる、虹の足が降り立った村の人々と、それを見た乗客、そしてこの詩を読む私たち。
この3つの中で誰が幸せなのか考えると、この詩を読んだ私にとっては、虹の足が降り立った奇跡的瞬間を見たバスの乗客です。
そんなバスの乗客は、虹の足が降り立った村人を羨ましく思い、その村人たちは、この出来事を知る由もなく何年かして作品を見て特別な感情を抱くのかもしれない。
大きな世界で見たら結局は円のようにクルクルと誰かを羨む気持ちが回っているようにも思うのです。
誰かを羨むあなたを羨む私を羨む誰か…。
そう考えると少し楽になるようなきがしませんか?結局みんな遠い人でも近い人でも誰かを羨ましく思う、と知ったら。
また、そんな自分のことすらも誰かは見ていて羨ましく思っている事を知ったら。
少なくとも、このnoteの中にはそういった円が出来上がっていると思うのです。妬みや嫉妬ではなくて、リスペクトし合える円が。
良い方向につながる丸い縁ができていると思うのです。
*
虹の足とは話が逸れましたが、国語の教科書で印象的な文でした。
6月のnoteハッシュタグ企画は#虹。
梅雨の時期、虹に巡り合うことが増えるかと思います。是非とも街に降り立った虹の足を見てみたいものですね^ ^
おわり