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「サザエさん」も洗脳

 2025年に入り、フジテレビがなかなか騒がしい様子ですが、ここで一つ和多志が思うことで新たに「サザエさん」(「ちびまる子ちゃん」も然りですが)が登場です。個人的に和多志は「主婦業」と呼ばれる活動に10年ほど前から次第に嫌悪を感じるようになってきていたのですが、特に毎日必要とされている「日常の食事づくり」が億劫極まりなくなってきたのが初めの兆候でした。とにかくなぜ毎日の家族の食事を妻・母・女である和多志が主体的に考え購入し作り続けなくてはならないのか‥結果「和多志は家政婦さんじゃない」という思いです。

 単に和多志が「料理好き」ではないだけの話かもしれませんが、昭和から生きてきた人生で「家族に料理を作らない女はダメ女」のようなレッテルを貼られているかのような「呪詛」を常々感じてきました。和多志の母は当時珍しく大学を卒業したのですが、学位は「家政学」で取得。日々の食事作りは「サザエさん・フネさん」のごとく欠かさず行い、サラリーマンの父や我が子らを支える甲斐甲斐しい後ろ姿が今も記憶に残ります。それが和多志の潜在モデリングとなり、結婚後も「夫を陰で支えてやってくれ」というメッセージを受け続けていました。

  ここで「サザエさん」は洗脳というトピックにつなげますが、今も変わらず半永久的に家族を支え続けるサザエさん、フネさんのアニメの存続を願う日本国民の声を聞くことで、ハッとしたんです。この半世紀、世の中は日々変わりゆく中で、なぜ画面の中の母(妻)は家族を食を通して支えるイメージで届けられるのか。父(夫)は上げ膳据え膳の立場を享受できる映像を見させられるのか。父は日夜働いたその稼ぎで家族を支えているから? 母は専業で時間があるから家のことで家族を養い世話するのは至極当然のこと?

 これを、「サザエさんとマスオさん」や「フネさんと波平さん」の役割が逆転しているような設定のアニメを想像してみてほしいです。または 現にそういうアニメが国民的アニメとして何か実際日本にあるか教えてほしいです。ないですよね? 今から30年以上前に男女雇用機会均等法なるものが施行され、事務職ではなく総合職で採用された同年代の女性を思い出します。それ以前もそれ以降も「サザエさん」はそのままの形で放映し続けられ、今もフジテレビがたとえ無くなったとしてもサザエさんは他局で放映継続してほしいという声に‥目が覚めました。

 何が「多様性の時代」でしょうか。女性は長らく家に閉じ込められ、女中か家政婦かのような役割を「潜在的に高貴で崇高な役割と刷り込まれつつ」果たすことを求められ、それに沿わない女性は「白い目で見られる、異端者扱いされる」社会的風潮がそのまま放置されている今は21世紀です。料理が好きで、家族を「専業主婦」として自身の喜びのもと日々家事に勤しみながら細やかに支えている妻、母に対して、和多志は心から敬意を表します。ただ、そうではない女性に対して冷ややかにみる社会的圧力は違うのではないかと声を上げたいのです。

 何かを生み出さなければ、誰かのためにならなければ、その個人の存在価値はない‥という考え方の根本から見直す時期に来ているのではないでしょうか。その人が「喜びに溢れた」生命活動をしている限りにおいて、すでにその個人の存在価値はあるわけで、それを互いに尊重し受容しあう関係性を醸成していくことこそが今最も(精神性を高める意味でも)求められているのではないでしょうか。あまりにも自覚なく「稼ぐものに従え、そして稼がぬものは彼らの世話するのが当然」という世界的唯物論主義に身も心も染まっていないでしょうか。

 サザエさんもちびまる子ちゃんも和多志はここ5年ほど視聴したことがないのですが、もしもまだ台所で甲斐甲斐しく料理作りをするお母さん像、居間で食事を待つ、または酒を飲んでいい気分のお父さん像が描かれ、それが国民的「家庭アニメ」として慕われ続けるのであれば世も末だと和多志は感じざるを得ません。女性も男性ももっと多様な生き様が描かれてもいいのではありませんか。固定概念のステレオタイプ的アニメが長寿番組として何年も継続するというのは特定の意図を介した「洗脳」に他ならないと思う和多志の考察は突飛でしょうか。

 

 

 

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