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陰謀論と選挙
今朝、和多志のお気に入りYoutuberさんの動画を視聴していてふと思いついたことがありました。もともと和多志はこの3次元世界には「支配者ら」が存在しているという根底の考えがあります。これは2020年以来、強く持ちはじめた思想なのですが、この「支配者らまたは支配層」というのが、①狡猾②我欲の塊③残虐④卑怯そして⑤(直接間接問わず)犯罪集団‥に違いないと、今も何の根拠もなくそれでいて魂レベルで信じるに至っています。
その思想をベースに、あぁ〜陰謀論と選挙っておんなじ「一般大衆の洗脳ツール」だなと改めて深く腑に落ちたのです。陰謀を隠すために「陰謀論」を創り出し、一般大衆の意識を目覚めさせないために「選挙制度」をこれまた創り出した訳です。誠に狡猾の極みなり。これは賢明さではなく「ずる賢さ」という道徳的には恥ずべき行為なのですが、昭和平成、、いやそれ以前からずっとあたかも「正当・正義」の仮面の元、騙し続ける世界に和多志は生かされてきました。
以前のnoteでも書いた記憶があるのですが、この「支配層ら(取り巻き連中を含め)」の共通言行動パターンが以下のものです。①利己的または組織に甘んじた非倫理的な言動を辞さない②自身の言動をはたから追求批判されると「誹謗中傷は法的措置を取る」と脅す(被害者側に身を置く)③社会の目から一方的に逃げる(その中には隠蔽や隠匿する支配層用のシステムが出来上がっているようでもある〜入院、引退など?)④(一部)ほとぼりが冷めたころ何気なく復帰する
少しトピックとずれてしまったようですが、実際のところ「選挙制度」は当然和多志が生まれるずっと前から施行されてきた制度であり、そこに何一つ疑念を抱くことなく「選挙こそ正義、民主主義の根幹」のような印象操作にまんまと乗せられてきた半世紀以上の人生でした。はい、騙され続けてきました‥2020年まで。今、ようやく「選挙すれば自分たちで社会を変革できる」という考えは単なる一般大衆の蜃気楼や妄想に過ぎないことが明白に理解できています。
それは、和多志の半世紀以上の人生による世界観が「その証明」であり、まっとうと思しき人々が苦しみ続け、利用搾取され続け、格差社会は是正されず、戦にも駆り出される世の中が今もなお現存しているという「事実」に他なりません。50年以上変わらないこの歪な社会を「既存の選挙制度」でまだ変えられると信じている一般庶民がいるならば、どうぞご自由にとしか言えません。それも2025年の今はもう「狂った有様」としか思えない事象が起こり続けている中で‥?
既存の選挙制度は、一般大衆のためのガス抜きでしかありません。選挙報道の内容も如何様にも操作コントロールできますし(例:出口調査、投票率、開票速報など)、現に大手メディアによってこれまで綿々とされてきたと思います。信じ込まされていたのです。多分「裏のほんの一握りの上層部」を除いてほとんどが「選挙信仰」を拝み、あたかも自分たちで世の中を創り出していけると延々と思わせられてきたのです。お見事、あっぱれです、闇の支配層の方々。
数年に一度の選挙‥その時だけ「美辞麗句、庶民寄りの公約」を並べて有権者を騙し誑かし、当選後はしばらく「税金を好き勝手に采配し使い尽くし、先生と呼ばれる上級国民扱いを受け、既得権益なるものを楽してジャブジャブ享受し続ける生活〜天下り含め?」が保証されるわけで、これほど「闇に愛されるモノ(輩)にとって」美味しい家業が他にあるわけないじゃないですか。当の一般有権者達は「日常の生活維持」に必死でその忌まわしい企みに気づくことも許されず‥。
結局、社会を変える、国を変える、時代を変える‥ために必要なのは「選挙」ではなく、一人ひとりの「健全な意識」にかかっているのです。かのYoutuberさんが語っていたように「選挙は支配層が考え出したゲームに過ぎない」。まさにその通りで、そのゲームに参加し続ける限り「支配ー搾取」の一方的にもぎ取られる構造、立場から和多志たち一般大衆は抜けられないのです。よって「輩」から都合よく利用される愚かな立場から、和多志は意識的にもう降りました。
今はただ、心ある人々の「健全な意識」即ち「大いなる光」を生み出し繋いでいくことに貢献するための自身の生き方を真剣に模索中です。世の「陰謀論」や「選挙は正義」の風潮に決して意識的に加担することなく‥。
(以上はあくまでも私的自論であって、誰の思想も脅かしたりコントロールする意図はないことをここに明確に宣言しておきたいと思いま"す。みなさんの思想はみなさんそれぞれが保有する知的財産で決して和多志のものではありませんし、その逆も然り‥です。これまでもこれからも和多志のnoteは「個としての呟き(自己表現の一つ)」に過ぎませんことをご了承くだされば幸いです。)