引き寄せ実践歴5年以上。私の願いが、ここ数ヶ月で突然叶いはじめた理由
みなさんこんにちは、スピライター・Cocoです。今日は長年の実践経験を経て、ようやく最近、願望実現を次々と達成しはじめることができた筆者が、今だからこそわかる、現実創造のヒントをお届けしたいと思います。
波動の高さが決め手!?巷にあふれるさまざまな引き寄せメソッド
波動の高い状態、もっと身近な言葉で表せば、満たされた気分であったり、ほっとしていたり、エネルギッシュであったり。そんな状態にあるとき、ひとは自分と同じ波長のものを引き寄せたり、願いごとが叶いやすいゾーンに身をおいている。
そんな話は、スピリチュアルではよく目にする内容であるもの。筆者自身も、その分野の書籍やブログに目を通しては、自身の波動を高めるために、自分の気分を上げてくれそうなものを生活に取り入れてみようとしたり、欲しいと感じたものは、値段を気にせずに思い切って買ってみたり…とあらゆることをこれまで試してきました。
費やすこと5年。それでも変化を感じられなかった過去
そんな引き寄せの一実践者として、ノートに願い事を書いたり、アファメーションを日課にしたり、実にさまざまなことを試してきた筆者。そのキャリア、おそらく5年は優に超えるものだと思います。当時、お守りのようにブックマークしていた、とある方のブログもあり、日々、職場や家庭内で苦しい問題に直面しては、「自分の中の一体どんな観念や波動が、この現実を創造しているのだろう…」と夜な夜な考え込んでいたものです。
そういった日々も、今となっては、どこか心懐かしく感じられるようになった今日この頃。あの頃の努力や苦悩は決して無駄なものではなかったと思いますし、当時味わった、あの深くて出口のみえない真っ暗闇があったからこそ、今、ここ(Coco)に私は立っていられると心から思っていますが、それでもやっぱり、あの頃の自分には足りていないものがあったと、今ならわかるのです。
―そう、あんなにも長い間、時間と労力、精神的な負担を強いながら重ねてきた努力はむなしく、現実が動き出し、輝きをみせ、諦めていた願いたちが叶いはじめたのは、ついここ数ヶ月になってからのことなのです。
願いが叶いはじめた今。あの頃とちがうのは「視点」のもちかた
それでは、ここ数ヶ月の間に私が手にしたもの、そしてあの頃の私には絶対的に足りていなかったものとは、一体何であるのか。―その答えはただひとつ、「遠くを見据える視点のもちかた」であると筆者は考えます。
たとえば、以前の私であれば、幼いわが子のわがままに振り回されることが多く、娘の態度によって予定が決まり、自分の気持ちを優先することはほとんどありませんでした。当時は、そのことにストレスを感じつつも、「子どもが小さいうちは、仕方がない」「他の家庭だってこんなものだ」と自らに言い聞かせ、娘の気持ちを尊重するように行動していたのです。
もちろん、他者の気持ちを敬うような利他の精神は、とても美しいものともいえます。誰だって邪険に扱われたいと願わないでしょうし、子どもの立場からしても、自分の気持ちに耳を傾けてほしいと思うこともあるでしょう。でも、今の私からしてみれば、当時の私はいわば「視点がとても近い」、足元ばかり見ている感じがするのです。
願いごとは「遠く」にあるから、憧れる。叶えるなら、遠くを見据える必要がある
これを例えるなら、あなたが徒歩でどこか目的地を目指す際に、足元に転がるごみや、ちいさな虫たちをいちいち気にして、なかなか前へ進めないような状態ともいえるでしょう。ごみや虫が気になるのはわかります。それをひとつひとつ片付けてゆくのも人として褒められたことでしょう。
でも、あなたにとっての真の目的は、道路をキレイにすることでしょうか?目的地に到達することよりも、そのプロセスに重きをおきたいという方にとってはそれが正解とも言えるかもしれません。しかし、おそらく多くの方にとっては、「足元のごみがなければ、目的地へ一秒でも早く着きたい」それが本心だと思うのです。
そしてここで、例にあげたようなケースは、わたしたちが何か願いごとを思い描く際に、まったく同じようなことをしているように思えてならないのです。
当たり前のことを言いますが、願いごととは、今現在あなたにとって実現されていないからこそ願いごとであり、あなたの今立っている場所の近くにはないからこそ、憧れ、手に入れたいと願うもの。
だからこそ、わたしたちが真剣に願いを実現したいと考える場合には、今いる場所から大きな一歩を踏み出して、少しでも遠くへ移動するべきだと思うのです。
足元をみれば、ささやかな障害たちはいくらだって目に入るもの。先の例でいえば、娘のわがままだってそれらに含まれるといえるでしょう。
わたしたちは、自分の近くにあるものほど、対処法もわかりやすく、すぐに手を出したくなるのもの。だからこそ、当時の私も、「娘のわがままを聞いてあげる」という安易な手段をとったのです。でも手元の選択をとってばかりいては、自らが手を延ばせる範囲が広がることはありません。叶えたい願い、変えたい現実があるのであれば、「娘がわがままを言っている」という足元の現実よりも、「娘のわがままや機嫌に影響されないのであれば、自分はどうしたいのか?」というもう一歩遠くにある本心にアクセスする必要があるのです。
おわりにー自分の本心を見つめること。それは近くをみるようで、実は遠くへ目をむけることなのかもしれない
このように、わたしたちの本心とは、意外と自分から“遠く”にあるものなのかもしれません。私達は幼少期から、親をはじめ、さまざまな人、世間と交わりながら成長を遂げますが、その中で、さまざまな価値観にふれ、それが自分の本心であるかのように、自分の身の回りを固めていることがあるような気がするのです。
そうしたとき、「それじゃあ、結局あなたの本心は何なの?」「何も制限がなかったら、どんなことがしたい?」と尋ねられた場合に、憧れる対象、ワクワクする対象として、未実現のものを想起したものが、わたしたちにとっての「願いごと」であると、私は考えています。
そう、なんだか自分の本音という、自分の中にありそうなものが、実は少し自分の現在位置と乖離した場所にぽつんとある。そんな不思議な現象が、ときに私達に巻き起こっているような気がしてならないのです。
だからこそ、少し遠くに目を向けてみる。ーそんなことが、筆者自身にとっては人生を大きく好転させる決め手となりました。
毎度、長くなってしまいましたが、本日も最後までお付き合いをいただきあり誠にありがとうございます。今後も、私が日々大切にしていること、意識していることを少しずつお届けしたいと思いますので、次回もお楽しみに!