自分の人生を他人に語らせてなるものか
『悲劇のヒロイン面しやがって』と言われたことがあります。その事が自分の中で呪いになって、(あ、ネガティブなことを言ったらまた怒られる、馬鹿にされる、笑われる)と竦んでいました。9月1日に、もしその同級生に会うんだとしたら、自分はまた自分を押し殺すような気がします。でももう会わないから、だれかのためにならないとしても、少しだけ話します。
これは、『他人に自分の不幸が妬まれる人、喜ばれる人』のために書いた経験談です。不幸をだれかのエンタメにされないために、私が足掻いた日記と言いますか…。宜しければ。
私自身の性格の話をしますと、昔から悪いことが出来ない性格でした。正確には、すこしでもイタズラしようものならばすぐにバレ、天罰としか思えないアンラッキーに見舞われるためにそうなったのですが、結果として救われた面は多々あります。誰も傷つけないようになるべく顔色を見ていましたし、貶すことは自分にも他人にも良くないと思っているので、褒めることに注力していました。それは、今も。これはいい子ぶりっ子ともとれますし、多分私のことが気に食わない人はそういう風に噂してたんじゃないでしょうか。そんな性格だからついつい友達を選ぶことも出来ず、流されやすくなっていました。
体が弱く、いつもどこかしらに不調があります。それが酷くなったのが15歳くらいでしょうか。特に慢性的な頭痛に目も開けられず、泣きながらベッドに臥せっていました。1週間ほど休んで、焦った私が無理押しで学校に行った時、同級生に『(同じ時期に体調を崩していた)〇〇ちゃんは我慢して来ていたのに、それに比べて貴方は(意訳)』といったことを言われて、我慢して学校に来たことを後悔しました。彼女の中では、私の体調不良は我慢している他人を引き立てるストーリーにされていたのです。あ、このまま病に倒れて亡くなったらこの人はこの発言に苦しめられるのだろうか、と当時は思ったのですが、最近聞いたら『覚えていない』とのこと。きっと苦しまなかったんだと思って、あの時死ななくて本当に良かったと思います。
一時期どうしても公共交通機関が使えず、学校そのものに行けてもクラスに行けない時期がありました。辛くてただ保健室で寝たり、先生とお話しながら勉強をしたり。そうこうして1週間ほど、友人が同じ症状を訴え休むようになりました。毎日、私の方が酷いんだ、私は保健室登校しているダメで弱いやつなんだという話を隣で聞いていました。なんにも言えず、ただ聞いていました。もう数日したら別の友人も休み始めました。同じ理由でした。全員、そこそこ親しい方でした。私は、悪い意味というよりはエンタメ的に、『感染源』として学年でちょっとした話題になったようです。
当時の話を、健康で(それなりに悩みつつ)毎日学校に楽しく通っていた親友に聞いたことがあります。私は普段、本当に楽しそうに過ごしていたようです。身体が弱いことを除けば本当に楽しかったので、間違ってはいません。でもその楽しそうな私が、臥せったりクラスに来ないことが、一種のエンターテインメントになった、というのです。それが『悲劇のヒロイン像』でした。脅迫的なまでに人にいい顔をしたがる(ように見えた)、毎日色んな人とお喋りして楽しそうにしているのに、それが体の弱さでかなわないときがある、ほんの少し暗い(大したことは無いのですが)過去がある…等が、顔見知りの同級生たちの間で『悲劇のヒロイン像』になっていたようです。悪く捉える人の中では、そういった『演出』に見られたこともあるようです。
私がもつ『物語性』をみんながエンタメにし始めた。それに影響されたのかはたまた本当に偶然なのか、親しかった友人2人は具合を次々に崩しました。学校の情報網は狭いですから、次々にその話はネタになりました。「私(筆者)の真似をするやつ」として。もちろん本当に真似したかは全く知りませんし、真似で具合が悪くなるなら仮病はもっと精度が上がっていそうですから、多分ほんとうに具合は悪かったのだと私は思っています。けれども、たまたま時期が同じだったからおなじ話題の中で、ストーリーを作られてしまったのです。
不登校とか、体調不良とか、私と同じようにそれで顔が出せなかったり、そうでなくても何らかのことでクラスの人たちや学年の人達に話題にされると、大変顔をあわせづらくなりますよね。それがポジティブな話題でも恥ずかしかったりで会いたくない時すらあるのに、況や不幸な話題をや…。友人2人のように、ひとつのエンタメに無理やり組み込まれた例も、当人からしたら(聞いたことは無いのですが)嫌なことなのではないでしょうか。人の不幸は蜜の味と言いますが、本気で蜜の味にしたがる人達はいます。そういう人たちが怖いから、休み明けなんて大嫌い。
自分の不幸をエンターテインメントにされることは、このあともありました。私の経験を元にキャラクターをつくった友人もおりますし、同窓会で語り継がれているという噂も聞きます。どれをとってもさほどいい気分にはならないのですよね。不幸をエンターテインメントにされるというのは。
私が試したことは、まずは黙ることでした。嫌なことを口にしない、余程のことは言わない。そうきめて実行した1年、結果からすると失敗しました。自分の心身に良くないのはもちろん、知人から『自分頑張ってるんですよってアピールしてる?不幸なんて無いって顔しててムカつく』と言われました。その知人が悪いという説もあるのですが、とにかくそう言われると黙っているのは良い策には思えませんでした。その後も色々な策を試しているのですが、どうにも上手くいかない。これは私個人にも問題があると思うので割愛しますね。
不幸はストーリーを編まれ、エンターテインメントにされます。ニュースでもそうじゃないですか、不幸な事件ほど、背後の話やその後の話をストーリーにして、果てにはドキュメンタリーやドラマにされる。その方が教訓として心に残りやすいなどの良い点ももちろんあります。けれども、不幸がエンターテインメントにされているという点は個人がやっている事と変わらない。他人は、自分の幸運を自分のいいように伝え、他人の不幸は仰々しくストーリーにして味わい、エンターテインメントにしてしまうような気がします。自戒を込めて、これを常々感じる。
不幸を無責任な誰かの手に渡さないためには、生きて自分で処理するしかないんだなって思います。気が重いけれど、本当に気が重いけれど、こうするしか自分の不幸を守れない。自分が自分の人生の語り部にならないと、どこまでも勝手に改竄されてしまう。すごくネガティブな理由なんですが、私はこう思って8月31日を生き延びました。別に、積極的に「違う違ーう!!」って割って入らなくてもいいんですよ、ただ親しい人に「こうこうこれこれは本当?」って聞かれた時に答えられれば。でも、答えられるのは自分しかいない。自分の不幸をエンターテインメントとして食い物にされないために私は生きています。ラッキーなことに、幸運だってたまには見舞われますし。そんなちょっと低空飛行な生き方から始めてもいいんじゃないかな、と。
話を書くことが得意ではないのですが、完璧な回答はきっとないと思われる話題なので、私の経験も何かの一助になれればと思って筆をとりました。超嫌な体験をした人だけが8月31日を憂いているわけじゃないと思います。何となく嫌だな、何となく乗り越えられない人だって多い。けれどもこれは言えます。人生を他人に語らせるとろくでもないことになる、だからあなたの口から、あなたの言葉であなたの人生が聞きたいんです。いつか聞きに来る誰かのために、何となく生きてみませんか。私はそのつもりで頑張ります。
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