母の随筆 『八月十五日に思う』
この時期、決まって思い出すのはSさんの事です。私より二級上のおとなしく頭のよい少年だった。高等小学校を卒業して郵便局に勤めながら独学で専検(専門学校入学者試験検定)を目指していた。
父や兄が応召して働き手のなくなった農家では、どんなに行きたくても進学のできない者も居た。が、その頃は紙不足で参考書はもちろん、独学生にとってただ一つの教科書である講義録も配本が何ヶ月も遅れる有様であった。
戦争は日増しに激しくなり昭和十八年には学徒出陣という事態に至った。
そんな時局にあって働きながらとはいえ勉強を続けていくことに彼はずいぶん悩んだようであった。
灯火管制の暗い光に本を開きながら、直接戦力に役立たない自分を恥じていたに違いない。そんな時代であり教育であった。
結局、彼は海軍に志願した。予科練であった。数ヶ月の教育を受けて帰省した彼は見違えるようであった。一日、母校の小学校で彼の壮行会があった。それは特攻機に乗ることが分かっている彼の告別の会であった。
彼は壇上で挨拶を述べた。「自分は日本の将来の平和のために喜んで捨て石となる覚悟です。残る皆さん、どうかこの美しい国土を汚すことのな無いよう頼みます」
死を決意した人の言葉は静かで激しく、講堂に集まった人たちはしいんとなった。言葉通り彼は帰って来なかった。真に生命の尊さを知り、本当に学ぶ資格のある若人であった。
特攻機に乗らむとかの日聞きしゆゑ積乱雲はかなしかりけり
彼への挽歌である。彼だけではない。多くの人々が戦のために死んで行った。それぞれに私たちと同じように人生があったはずである。
その人たちの残してくれたものを今私たちはもっと大切にしなければいけないのではないだろうか。
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以前このマガジンで取り上げた『特攻機』という母の短歌には、このような背景があったそうです。この随筆は新聞に載ったものですが、Sさんの話は何度か直接母の口から聞いた事があります。自分の尊敬する聡明な先輩がこのような目に遭ったとしたらーー。あまりにリアルな母の話に戦慄したものです。
少し逸れますが、その時あまり他で聞いた事のない話もしてくれました。
何日かして母の住む山村に一機の飛行機が飛んで来たそうです。すわ、敵襲襲来ーー!と農作業の手を止めて隠れようとしたところ、翼を振って合図するそれは日本軍の機だったそうです。(過疎地の山村なので、まれに現れる敵機は遥か上空を通過するのみ)
コクピットには上官の厚意で挨拶に訪れたSさんが乗っており、皆で手を振り返し最後の別れをしたという話でした。
私は逼迫した件の戦争末期にそんな事が許される(あり得る)のか?!と驚いて聞き返したのですが、現代でもいろいろな上司がいるように、自分の裁量でそういう事を許す上官もいたのだという事でした。
村へ届いたSさんからの手紙にその内情が書いてあったそうです。
聞いた当時私は低空飛行するコクピットのSさんと互いに手を振り合ったのだと思っていたのですが、今母の話を思い返して書きながら正直その辺りがはっきりしません。もしかしたらあの飛行機乗りはSさんに違いないと皆が思って手を振り、後の手紙で確証が取れたのかもしれません。
母は島根県の津和野付近の山村にいたので、おそらく浜田市から飛んで来たのだろうと言っていましたが、機会があればもっと調べて明らかにしたい話の一つです。
戦時中は『御国のために命を投げ出せ』という風潮が全体的に横行して(建前も含め)いましたが、その中でも自身の信念を失わずに行動した方も少なくはなかったでしょう。
船が魚雷を受けて沈没し父島で終戦を迎えた母の実兄にも、極限状態の中で人間らしいというか、そのような話があったと聞いています。それについてはまたいつかここで書きたいと思います。
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とにかくやらないので、何でもいいから雑多に積んで行こうじゃないかと決めました。天赦日に。