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2人きりでのバーでの秘め事
エピソードゼロからの派生
忘年会の賑わいが遠ざかり、夜の街はしっとりとした静けさを取り戻していた。冬の冷たい空気が頬を撫でるたび、酔いがゆっくりと引いていく。
「話が尽きないですね」
私がそう言うと、隣を歩く上司がふっと笑った。
「じゃあ、もう一軒行くか」
思いがけず2人きりでの二次会。こんな機会は滅多にない。心の奥底で期待していたことを見透かされたようで、ほんの少し胸が騒ぐ。
行き着いたのは、静かなジャズが流れる落ち着いたバーだった。店内には他に2、3組の客がいるが、どこもひっそりと語らっている。私たちはカウンター席に並んで座り、それぞれウイスキーを頼んだ。
グラスを傾けながら、上司はゆっくりと琥珀色の液体を揺らした。温かな照明が彼の横顔を柔らかく照らし、スーツの襟元から覗く喉元に、一瞬、視線が吸い寄せられる。
どうしてだろう。普段はただの上司として見ているはずなのに、こうして向き合っていると、妙に意識してしまう。仕事への誠実さも、部下を信頼して任せてくれる包容力も、尊敬する気持ちは変わらないのに、それだけではない感情が静かに胸を締めつける。
「……こういうのも悪くない」
低く落ち着いた声が耳に届く。私のグラスの向こうで、彼は静かに微笑んでいた。
「そうですね」
そう言った瞬間、指先がふと触れた。
カウンターに置いたままの私の手に、彼の手の甲がかすめる。それは偶然にしては長すぎる一瞬だった。けれど、どちらも引こうとはしなかった。
この感覚を、何と呼べばいいのだろう。
不倫をしたいわけじゃない。でも、ただの信頼関係とも違う。この人に「特別」だと言ってほしい。そんな願望が、心の奥底で静かに渦巻いている。
「……部下として、信頼してるよ」
彼の言葉に、小さく息をのむ。
「はい、ありがとうございます…」
互いに仕事を語り合いながら、それでも今、このバーにいることは、信頼だけでは説明できない何かがある。彼の視線がゆっくりと私を捉える。熱を帯びたまなざしに、息が詰まる。
「そういえば…」
微かに揺らいだ声が途中で消えていく、静かな店内に溶ける。
「…どうかしましたか?」
「そんなふうにまっすぐに見られたら、余計なことを考えたくなる」
鼓動が跳ねる。けれど、それ以上の言葉はなく、ただ静寂が2人の間を包み込んだ。
ほんの少しだけ触れ合った手の温もりが、指先から心にまで染み込んでいく。バーに来てからどれくらい経ったのだろうか。
「そろそろ、帰りましょうか」
「……そうだな」
席を立つと、彼がふっと笑った。
「また、今度」
「……ぜひ」
その「また」がいつになるのかは分からない。それでも、今夜交わした言葉と触れ合った一瞬は、私だけの特別な記憶として残るだろう。
バーを出ると、夜風が火照った頬を冷やした。何気なく並んで歩きながら、先ほどの感触を指先でそっとなぞる。
これは恋ではない。けれど、それに似た、甘い余韻を引きずりながら、私は静かに夜道を歩き続けた。
この物語はフィクションです。