「わからなさ」を「いとおしさ」に変えてしまう不可思議について【星野源『不思議』】
ふと流れてきた星野源の『不思議』を聴いたら、もともと知っている曲だったのになぜだか聴こえ方が全く違って、驚くほど新鮮に感動した。この曲の何かが今私にとって大事なことを教えてくれている気がして、それから何度も聴き直した。
最近の私は、人はなぜ生きるのだろうとか、幸福とはなんなのだろうかとか、取り留めのない、考えても仕方のないことばかり考えていた。毎日のルーティーンはこなせるけど、基本的にずっと無気力。何かを熱心に観たり聴いたりして感動することもなく、以前は忙しなく動いていた心が鈍くなるのを実感する日々だった。
そんな私の心が突然、すでに知っていたはずのこの曲に反応した。改めて何度か聴いたら、聴くたびに泣きそうになった。なぜなのか。知りたくて歌詞を目で追って読んだ。(以下、引用はすべて星野源『不思議』より)
鮮やかだった。
「水の中で」→「(君と)手を繋いだら」→「息をしていた」
「彷徨う心で」→「口づけした」→「そっと笑った」
「檻の中で」→「恋がそこにある」→「貴方だった」
すべて、不確かだったり心許なかったりと閉塞感のある状態から、「君」「貴方」という実体のある存在によって、主体の状態が好転している。その変化を繰り返すことで、まるで音で韻を踏むように、そう、意味で韻を踏む、とでも言おうか、そうやってどこか仄暗いその世界からの脱出を印象付けている。
これをより効果的にしているのがメロディーや歌い方、アレンジだ。曲の導入は音数も少なく静かに、そして徐々に、先に書いた通り意味で韻を踏むような言葉の重なりが進むにつれ、リズムが入り音数が増え高揚感も増していく。その終わりが「ただ貴方だった」とひとつの答えになっているのもにくい構成だ。
息苦しさ、不安といったネガティブな空気を一変させる誰かの存在。それは自分とは「なにもかもが違う」「他人」であると言っている。「他人だけにあるもの」が、「側に居たい」と思わせる何かであると言っている。
「この地獄の中」⇔「きらきらはしゃぐ」
「躓いて」⇔「笑う」
「涙の」⇔「乾杯」
ここにいくつもあるように、この歌には、ままならない、嫌気がさすようなこの世界と、それでもそこに存在する美しさ、輝かしさの対比が詰め込まれている。
こうして見ていくとこの歌は、「わからなさ」を「いとおしさ」と捉えることについて歌われているような気がしてくる。「わからなさ(世界)」を「いとおしさ」に変えるものが、わからなさの代表である「他人」である「君」だと言っている。その不可思議さ(つまりタイトルの『不思議』)を「愛」としているのではないかと思った。
私たちが生きるこの世界は、何を信じたらいいかわからない、真実を掴み切れない、息の詰まる「檻」や「地獄」のようである。確かにあったはずのことも、過ぎ去ってしまえば実感は薄れていく。このかりそめ、まぼろしの中で、それでも目の前の「君」「貴方」には触れる、実体がある。
「彷徨う心」も「好き」という気持ちも目には見えないあやふやなもの。でも「仕様のない身体」も「歩き出す」「二人」も今ここにある。
取り留めのない、説明なんてできないものを、否応のない実体、つまり目の前の「貴方」という存在が、有無を言わせずただそこに在ることで呆気なく証明してしまう。「君」や「僕」、そして「二人」が、それを「愛」と名付けて「歩き出す」。そういう歌なのだと思った。
この歌が今改めて自分に響いたのはきっと、世界にも自分にも嫌気がさし、苦しみにばかりフォーカスしていたからだ。生きていたって苦しみばかりじゃないか。がんばったってがんばらなくたって、結局苦しみからは逃れられないじゃないか。そんな考えが頭をもたげて、毎日無気力に過ごしている私に、きっと必要な歌だった。
理屈を超えた先にある「不思議」を「愛」と呼ぶ。
そういう美しさがきっと存在することを、思い出させてくれる歌だった。