芸術ってつまり何なのかね、の涙 読書じゃない日記2024.11.9(土)
土曜日で、今日は小学校の音楽会なのだった。
娘は合唱と合奏を披露するらしい。やりたかったウッドブロックには選ばれなかったと、落選当日は残念そうではあったが、その後はうきうきと練習して、楽しみにしていた。もちろん私も楽しみだった。
会場の体育館に入ればすでに保護者は満席に近く、後方の席に座るとまっくろくろすけのようにボコボコわじゃわじゃした大人の頭しか見えない。頸椎伸びろ、とにゅんと背筋を伸ばしてみてもステージの様子は儚く覗ける程度だ。まあ、仕方がないなと、諦めて腰を落ちつけた。
最初は吹奏楽クラブの演奏から始まった。次に五年生、そして娘のいる二年生。
音楽会は芸術を鑑賞するものではない、子どもたちの日頃の練習の成果を寿ぎ、体も大きくなって、なんだか堂々として誇らしげに見える子供の成長を喜んで。がんばったねって褒めて。それが音楽会の目的だと思っていた。
でも私は、音程の外れたトランペットの音を聴き、タイミングの揃わないピアニカの音を聴き、全然聞こえてこない鉄琴の音を頑張ってキャッチしようとし、そして泣いた。
もちろん、娘の頑張りにも感動したし、自分の子供だけでなく、見知った友達の成長を見て喜ばしく思った。でもその、「子どもの成長に目を細めて愛しむ」とはまったく別の次元で普通に感動してしまったのだった。
芸術ってなんでしょうね。演奏技術の高さ、歌のうまさ、声量、表現力。そのどれもが一流な方々が人の心を動かすプロになるのはわかっている。その芸術は人の心に刺さる。感動させる。それが芸術。
じゃあ、私が今、泣いちゃっているのは芸術の力とは別なのかな。やっぱり子供たちの成長、っていうバックグラウンドがあるから感動しちゃうのかな。頑張ったんだろうなーって想像するからいじらしく感じるのかな。
それもあるだろう。あるに決まっている。だって子供たち、頑張ってたもん。でもそれだけじゃないんだよ。
私は最近、「言葉」を信用し過ぎてはいけない、と思ってる。「言語化」の万能性に酔いしれちゃいけないって思う。書く能力は大事だし、効果も生むし、思考の助けにもなることは間違いないのだけど、驕ってはいけないんだって、すごく思う。小説を書くようになって、言葉を大事にし始めたら逆説的で皮肉的だけど、より、そう思うようになった。
言葉以外の思考方法もあるし、言葉では届かないところに、違ったアプローチで届こうとするのが、身体なんだ、広義の「言語」と言い換えるならそれでもいい。
まだ、手持ちの語彙が少ない七歳やら十歳の彼らは、しかし手持ちの感情も少ないわけじゃない。体験していない思考の方法はあるかもしれないけど、だからって子供の思考が浅いわけじゃない。大人と子供で悩みや思考の総量が違うわけ、ない。言葉にならないものを表現する、発散する、思考する、そのアプローチが芸術のひとつの側面なのだ捉えるとしたら、じゃあ、言語化という「スマート」ですっきりとした、、、賢し気な表現方法が追い付かないなら、身体的言語でおしゃべりするのがうまいに決まってるじゃないか。
言葉で片づけることが上手になった分、身体言語に頼らなくなって済むようになった私は、だから子供より芸術ができていないんじゃないかと思った。仲良しや個性を賛歌する歌詞にスウィングする子供たちを見ながら、そう思ったのだった。
ここで、じゃあアンタは言葉を馬鹿にしてんのか、って言われたらまったくそうではないし、むしろひれ伏す。五体投地!
言葉を使って、ひとつの物語で、すこしの散文で、それまで見えていなかった世界や感情を立ち上がらさせる人は、私がスウィングを見ながら考えた程度のことはとうに追い越して、言葉の奢りフェーズなんて、きっとはるか昔にクリアしてる。言葉に真摯に向き合って、丁寧に取り扱っている。
子どもたちの演奏は、歌は、芸術だった。
私が、なまっちょろい語彙とフォーマライズされた表現力を手にした道で、ぽろぽろこぼしてきたものをまだ抱えて歌う姿は芸術だった。