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すばる文学賞4次選考まで進んでいた話

 おこんにちは。
 私は小説を書いています。
 ほんとーーーーにしょうもない駄文なんですが、書きたいから書いています。

 書くことが好きな方、物語を作ることが好きな方に、ちょっと、自分のこと話してもいいですかね?と前置きしてからおしゃべりするような気持ちでこの文章を書いています。

 私のこと話したから、次はあなたのことも読みにいきますね。

書き始めた理由

 ちびちびと小説を書くようになってから、2年半が経ちます。
 書き始めたのは、母を亡くした1月後でした。

 コロナでしばらく会えずにいた母に、今年はそろそろ帰省したっていいだろうと会いに行った2022年の正月、母はとても痩せていて、そしてとてもつらそうだった。父も母も何も言わなかったけど、私は、もしかして、と感じていたのでした。

「久しぶりに過ごす年越しで言いたくなくて」と、私が東北にある実家から関東の自宅に戻った頃、母から連絡があった。「気が滅入る話で悪いけど」と、どこまでも私を気遣うような前置きをしてから、母は自分の置かれた状況を、まるで「醤油買ってきて」みたいなメモ程度の文面で簡単に送ってきたのでした。「胃がんのステージⅣです」だって。

 その正月明けのメッセージから、その時まではあっという間だった。小説だったら、さっと1ページで終わるくらいの呆気なさだった。呆気なさと反比例して、私は思うことも考えることもたくさんあって、しかし考えるだけでどこにも到達できずにその日を迎えて、呆気なさの先にある悲しみさえ持て余して、どうしようもなさの渦に溺れて苦しかった。

 人が一人いなくなることに関わる慣習的事務的あれこれにも追いかけられたし、根の深い家族の問題もあった。ぜんぜん違う表層では「この度は…」というセリフは貰うものの、仕事量は減らないし、母がいなくなってすぐに娘は5歳になり、待ったなしの育児は続いた。溺れる気持ちと通常運転の何事もなさが小刻みのスパンで意識を分断した。自転車を漕ぎながら「私、今なにしてるんだろう」と思考が止まることもあった。コンクリートに接地するタイヤの面積を考えながらペダルを漕いだりしていた。

 そして、ある日、私は「書かなければ生きられないな」と思ったのでした。

 これが天才ならば、村上春樹が球場で得た天啓のように語ることもできるのでしょうが、私はモブ中のモブなのでただの必要に駆られた欲求だったとしかいえません。
 本を読むことは大好きでした。読むことは喜びであり快楽であり救いであり、ときにあえてネガティブを取り込むことすらも支えになって、たった46文字の音の組み合わせをせっせと摂取することで私はこれまで病まずにいられたのだと思います。

 でも、今は、もう、書くことでしか治癒できないと、はっきりとわかった。

 そこから私は2か月間で2万字の物語を書きました。朝早く起きて書き、昼休みに職場のデスクでこそこそとメモを書き、子どもの習い事の待ち時間、冷えるローソンのイートインスペースでダウンコートを着て書いた。喪失感と、言葉でまとめることができない感情を、なんとか46字の組み合わせでできた2万文字で表すように、書いた。

 完成した物語は笑えるほどチンケでしょぼくて、下手くそだったけど、治癒効果は抜群で、書き終えたときには明らかに私は晴れやかな気持ちになっていました。溺れるようにして書いた私の2万文字は、私自身を救済したのでした。

 このときの、そしてこれ以降の私に限って言えばだが、「読む」ことだけよりも「書く」ことのほうが、明らかに強く私をエンパワメントする行為となりました。そしてその衝撃的な治癒効果と自分自身への働きかけの強さから、私は物語を書くことに取りつかれることになってゆくのです。

書く効用

 保坂和志さんだったか、高橋源一郎さんだったか、元ネタを忘れているから本来ここに書く資格なんかないのですが、まあ独り言なので許してくれよと思って書きますと、確か「自分のために小説を書くな」ということをおっしゃっておられました、どちらかの方が。
 小説は自分を救うために書くものではない、と。その意味からすれば私の行為は完全にルール違反で文学的にアウトなものでした。だけど、教えに従って文学の本質に辿り着いてみたいという欲求は全然なくて、どこまでも自己治癒的な発生で私は物語を書き続けた。思えば、箱庭療法のテキスト版みたいなものだったのかもしれない。

 2~3か月をかけて1作を書き、書き終えて出し切ってスカスカになった状態で1、2か月間は書かずにひたすら本を読み、そしてまた新しい物語を書く。2年半これを繰り返してきた。書いた物語は2万字から、多いときは10万字程度でした。

 書くことを繰り返すことで、次第に私は自己治癒以上のものを得るようになっていきました。拙いものを書き連ねることで、私たちに物語を与えてくれる小説家たちのすばらしさや巧さ、物語の強度を思い知った。書くことで読むことがうまくなった。自分なりの解釈の奥行が出て、より一層物語を楽しめるようになった。 
 自分の至らなさを確かめるように、駄文を書いてから本物の小説に触れるというマゾヒスティックな文学的変態遊戯もオツなものだった。それから、目に見えているものも、目に見えていないものも、「書くこと」を通したらどう表現できるだろうと、五感以外で「あること」を捉えることの意味を考えるようにもなった。見えないものを見ようとして、私は文章を書くようになったのでした。天体観測の歌詞の意味ってもしかしてこれ…と思うなどした。

 そして、私は昨年2023年の第48回すばる文学賞への応募を試みたのです。

すばる文学賞への応募

 文学賞の傾向などを分析する頭脳派ではないので、あくまでざっとの体感だが、すばる文学賞はフレッシュで爽やかで、かつ、あまり前衛的すぎない純文学の賞、だと思っていました。??違うだろうか??
 よく「みずみずしい筆致で描く青春文学」とか紹介されているものがすばる文学賞出身のような気がしているんですが。あくまで「気」だけど。

 何度か物語を書いているうちに、私はどうやらエンタメ主軸のものは書けないタイプなのだろうと気付きました。「読む」方面ではエンタメだーいすきで、ミステリは大好物だし、はらはらしたり、最後まで目の離せない展開も超好き好き!である。しかし、書けないのだ。物語を書くもともとの源泉が自己治癒にあるのだから、読み手を喜ばせるサービス精神が絶対必要なエンタメが書けないのは当然といえば当然だ。独りよがりで、自己満足的で、大きな声では言えないけど、あるときは自慰行為みたいな、あるときは排泄物みたいな、そんなもん書いて人を喜ばせることができるのはド天才だけである。

 あたしゃ、自分の救済と回復のために書いていて、じゃあこれをせっかくだから何かに応募してみましょうかとなったとき、受け入れてくれるのは懐の深い純文学系の賞ではないかと。パンチのない退屈でぬるい展開と文章がエンタメ系に迎えられるわきゃないし、創造力も貧相だからファンタジーも書けないし、緻密な構成も取材も下調べも苦手だから社会派とか絶対に無理だし、そうかといって、時代に穴をあけるような尖った才能もないから純文学のトンガリ系も(群像とか??)もお呼びじゃないでしょう。

 繰り返しますが、あくまで体感です。そして、もしかして私の書くものと温度感が似てるかもしれない…という恐れ知らず&身の程知らずのセンサーで「すばる文学賞」を選んで応募することにしたのです。

 そもそもなんで自己治癒的な書き物をしていながら、賞に応募することになったかというと、理由は一つ、締め切りが欲しかったからだ。自分のために自分との約束を守って書くことも楽しいけれど、無理やりにでもピリオドを打って手からもぎ取らないと、いつまでもだらだらと書いて、だらしなく続いていく。ビジネスの世界では「完全主義より完了主義」「done is better than perfect」とはよくいったもので、始める→完成させる→振り返る、のサイクルを回さないと絶対に成長しない。小さなところでぐるぐるしないで、なにがなんでも一旦締め切りで終わらせて、そして大反省をしてから次に行く、それを文学でもやりたかったのだ。
 ということで、2024年3月末の締め切りに向かって書き始めることにした。応募を決めたのは前年の12月だったと思う。

小説の書き方~元公務員の私の場合~


 人によって小説の作り方はまちまちで、書く人の数だけ物語へのアプローチ方法があるのだと思います。私は執筆作法を習ったことはなく、創作の課題が出るような教育も受けたことがない、ズブズブの素人だ。
 プロットの作り方も知らず、どんな方法が私に合っているのかもわからず、そもそも小説ってどうやって書くのかもぜんぜんわからないところから手探りで始まった。 
 よく初稿の最初っから頭からガンガン思いつくまま書いていくとか、プロットを練りに練って、文章はそれをなぞるだけとか、登場人物が勝手に動くとか、いろいろ聞くけどそんなん私はどれも当てはまらない。
 ただ、私は「創作物」ではないが、過去の仕事でものすごい量の文章を書いてきた経験だけはあった。それは、創作物でないどころか、WEB上で重宝されるライティング技術でもないし、人を引き付ける記事の書き方とも違っていました。私が長年書いてきたのは、お堅い行政文書でした。
 長年公務員をしていたアナログの世界では文章が何より大事だった。特に私が携わってきた業務は「意見書」というものを書くことが多く、これはある申請に対して許可か不許可かを判断し、自分の意見を決めて決裁をあげるというものでした。

 特に意識したわけではありませんでしたが、私はきっと、この行政決裁文書の書き方を小説に転用していたのだと思います。行政の文章では、論の展開がキモでした。Aという証拠や事実、Bという証拠や事実、そこから導かれるCという蓋然性の高い推認、よってDという結論、、と展開して意見をまとめる必要がありました。申請内容によっては証拠や事実がABCDEFGHとたくさんあって、それらの相互関係や、証拠の重要度の違いなどをパズルのように整理してくっつけたり、あえて削ったり、順番を入れ替えたりして、誤認を犯さず、最終的に整合性の取れた説得力のある結論にもっていく…その文章スキルが鍛えられていたのだと思う。

 これを小説に転用すると、まず、頭の中のモヤモヤ、気になること、テーマにしたいこと、書きたいシーン、などの断片がバラバラに頭の中に浮遊するので、それをなんとかキャッチして、紙にランダムに、単語でもセンテンスでもいいので書きまくります。とにかくひたすら、頭の中に浮かぶ無数の点を掴んで引きずり出して、文字にする感じ。このときはマインドマップとか0秒思考のように、瞬発的に言葉にするメソッドを使って、ガンガン書く。これが、行政文書でいうABCDEFGという事象をあぶりだすことに当たりそうです。

 そしてその後、たくさんのABCDEFG…の要素を組み立てる。パズルのようにくっつけたり、削ったり、順番を入れ替えたり、です。そうしてラストの結論まで持って行く。

 これで大枠ができたら、あとは自分の言葉で繋いだり整えたりして、文章が物語になるように整えていきます。ここがまたしんどいのですが、だいたいでいえば、こうやって私は作って書いていました。

応募作について

 すばる文学賞に出した物語は、私の中で絶対に書きたいテーマがあって、それは私自身の治癒や救済であると同時に、はじめてどこかの誰かにとっての治癒や救済でもあって欲しいと思えるものでした。でも、絶対に書きたいはずのテーマは「○○○」です、とズバリと示すことができないもので、それでいてはっきりと私の中にあって、じゃあそれは何なのかを探りながら書いていくことになりました。この作業は刺激的でスリリングだった。

 3か月間で書き上げる、という目標にしましたが、おそらくはしっかり作り上げるためには全然時間が足りないはずでした。創作にしっかり取り組んでらっしゃる方はもっと時間をかけていると思います。そのくせ、その3か月間の前半は全然書けず、事象すら掴むことができなくて腐っていました。

 このままではまずいぞ、と思ったのは締め切りまで1月半を切った頃だったと思います。その頃私は仕事で業務過多と人間関係に追い詰められ、子育てに悩み、全方位うまくいかない!と爆発しそうでした。書きたいものがあるはずなのに、その曖昧模糊なものを物語にするためのラッピング方法も掴めなくてイライラもしていました。

 全部行き止まりに思えたときに突破口は見つかるのだ、とは良く言われることですが、このときの私もそう実感することになります。職場の悩みの種であった人間関係を物語内の駒にしてみようと思い立ち、悩みとその中心人物をエンコードして、小説にデコードしてみました。そうしたらするすると物語が進んで、まとまり始めたのです。

 走り始めた文章でしたが、エンジンがかかるのが遅かったために、その後の使える一人時間をすべて投下しても時間が足りませんでした。朝の出勤前、仕事の昼休み、習い事の待ち時間という手持ちの時間をすべて使いました。でも本当にギリギリだった。
 締め切り直前の3月最後の週末は家族旅行も予定していました。夫にも子供にも私が執筆していることは隠していたので、「追い込み期で~」とか説明することはできなかった。夫はなんというか、私がちょっと個性的なことをするとからかってくるというファニーでめんどくさい人なので(ヒュー!作家作家ァ~!とか言ってくる)恥ずかしくて絶対に秘密。普段の週末も「書き物したいから2時間カフェ行っていい?」とか言えたらよかったのですが…何食わぬ顔で日常を過ごし、水面下で隠れて書いていました。
 旅行から帰ってくる日が締め切り日だったため、なんとしても出発前に隠れて完成させなくては、と心中めちゃくちゃ焦っていました。

 しかしうまくいかないもので、締め切り1週間前ほどに子供が体調不良。インフル検査は時間が早かったためか陰性でしたが不調は数日続き、その後、娘は完全復活するも続いて夫が発熱。夫は体調不良のため旅行をキャンセルとなりましたが、せっかくなので私と娘と、代打の義母の3人で松本旅行へと向かいました。夫は数日後検査したらインフルエンザだったらしいので、子どももそうだったのでしょう。私はピンピンしてましたが、子どもとシニアをアテンドしての旅行はかなり神経も使い、疲労。。。
 旅行にはPCと、プリントした原稿を持って行きました。行きのあずさや、宿泊先のホテルで子供と義母が寝てから原稿をチェックし、赤を入れる。そして、帰りのあずさでは二人が寝たのを見てから修正をPCに打ち込みまくりました。そして帰宅し、その日の締め切り時間ギリギリに原稿を送信しました。本当にギリギリでした。

 本来なら、送信した内容の原稿を2週間くらい寝かせて、さらに推敲を重ねたかったところです。今回の応募は見送って、もっと練ってからタイミングのよい応募先に出すというのも方法だったかもしれません。こんな状態で出せない、とも一瞬思いました。
 でも、こんな状態では完成とは言えないな、を脱するのはいつなのだろう、自分が妥協せずに納得する状態ってどこなのだろう。そんなのいつやってくるんだろう。次の締め切りを決めたら、その時もまた、まだまだって思うんじゃないの。時間かければいいのがかける、ってそもそも自分の能力過信してるんじゃないの、ウケる。

  …私はここで、自分への罵倒をやめて、とりあえずでもいいから一旦完了して、出してしまうことにしました。全然推敲が足りていない!寝かせ時間も足りない!なんなら背景の勉強も足りていないし。本当は誰かに読んでもらってチェックしてもらいたかった。てか、本当は1か月前に誰かに読んでもらって意見もらうはずだったんじゃないのか?

 後悔と反省に頭がいっぱいになったけど、送信ボタンを押した。タイトルも決めていなかったので、送信直前に急いで決めました。ペンネームをつけるほどの身分ではないですが、本名が恥ずかしくて、旧姓フルネームの頭とお尻を削ったペンネームにしました。

 送信したあとは、すっきりとして、すぐに応募したことを忘れました。渾身の自信作だったら、その後の選考も気になったかもしれませんが、本当に間に合わせてなんとか書いたもので、荒いことはわかっていました。
 でも。私がどうしても書きたかったテーマは、書くことで近づけたという手応えがあった。それだけで嬉しかったし、すこしは「アレ」に届いた、と思えました。「アレ」とは、私にとっての文学の核というか、手に取って確かめることはできないけど、絶対に身近にあるはずの、私なりの「ほんとう」のことです。
 「アレ」の解像度を上げたい、見たい、その一心で私は書いているのかもしれないです。私が見たい「アレ」は、私ではない誰かも見たがっているものだろうか、提示されたら喜ばしいものだろうか。その自信はなかったけど、剥き身の「アレ」に触れられそう、書きながらそう思えました。それだけの実感がうれしくて、だから、結果なんてもうどうでもよかったのです。


選考結果

 それから5か月が経ちました。その間も私は読み、また違う物語を考え考え、書いていました。納得いくものが書けなくて、歯ぎしりをしたり、不貞腐れたり、逃げようとしたり、でもまた書いたりしていました。そして、8月に入る頃、あれ、私って何か応募してた気がするなーと急に思い出したのでした。

 本当に、応募したのかすらも記憶になくてあやふやで、手帳を見返す。そうだ、私、すばるに応募したんだった。夏の暑い暑い日に思い出して、調べてみると、数日後に発売される「すばる」で一次選考通過作品が発表されるらしい。

 思い出してしまうと気になるもので、発売日に書店へ。そして、一次通過作品の一覧を確認。見開きページをすーーーーっと目で追っても、私のペンネームは見つかりませんでした。当然だよね。そう思って、次に先頭から通過作品のタイトルを読む…

 どの作品も内容が気になるタイトルで、ペンネームにもセンスが感じられる。この中のだれかが賞を取るのだな、楽しみだな、と思いながらひとつひとつ読む。そして、後半に、見覚えのある名前を見つけました。私でした。


!!!

このときまで、私は自分の応募した小説のタイトルすら忘れていた。ああ!私こんなタイトルつけてたっけ!最初見逃したのも当然ですよ。タイトル忘れてるんだから。

 見つけた後は震えました。嘘、信じられない…。あの、あずさで急いで書いたガタガタの文章が、ひとまずは小説の体をなしていると評価されている!!!驚きと感謝で震えながら、「すばる」をセルフレジにて購入。。

 一次選考を通ったとなると欲が出てくるもので、この先どうなるのかな、と気になり始める。それまでの無頓着が嘘のように、意識し始めた。

 結果からいうと、すばる10月号で一気に発表された二次及び三次通過作品の発表で、私の応募作は三次を通過した10作のなかに入っていたことが判明しました。
 雑誌発行時点で受賞作は決定しており、おそらく最終選考に残った方はなんらかの連絡を受けているはずなので、私はその先には進めなかったということはすぐにわかりました。

 でも、応募作1132作のうち10作には入れました。

 わかっています、落ちたらただのゼロです。結果なし、と同じことです。でも私は、自分の書いた、自己救済のために始めた駄文が、一応の小説の形になっていると評価され、そして、もしかしたら、きっと、いや願わくばですが、私の下手くそで、拙くて、未熟で、才能もないだろう46音の組み合わせで書いた「アレ」をキャッチしてくれた方が、いるのかもしれない。そう思うと、涙が出るほどうれしかったです。

 ひっ捕らえて、現実の目に見える場所に引きずり出したい「アレ」は、しかし本来ひっそりと見逃されるべきもので、言葉にしたらあっという間に泡になってしまうかもしれないのですが、それでも、書くことでその輪郭をなんとか捉えて、「これ、知りませんか?考えたことありませんか?もしかしたら、今、必要じゃありませんか?」と誰かと共有したかった。私の駄文では共有できるほどわかりやすいものにできなかったと思います。この感覚は今のところ現実の世界で誰かにわかってもらえたことがありません。私の表現が下手だし、そもそもそんなものないのかもしれない。
 でも、ひょっとしたら、私の書くものでぼんやりとでも「アレ」の正体を見る人がいるかもしれない、どこかの誰か一人に提示できるかもしれない。

 そんな希望が持てたのでした。

その後

 それから時間が経ちました。私はおもしろいものも、つまらないものも読み、怠惰にYouTubeを見たり、仕事をしたり、子育てに疲れたり、そして引き続き物語を書いたりしています。でも、すばるの原稿を書いていたときに近付けそうだった感覚は、悲しいことにするりと逃げていってしまいました。よそ見をして、違うものを見ようとうつつを抜かしているうちに、手ごたえは夢のように消えました。

 私は、またアレを捕まえに書きたい、と今、思っています。

 今、昨年と同じ12月です。正直、また捕まえるところから初めて、積み上げて、思考に潜って海女さんが貝をとるように何かを手にして浮上する、その行為を繰り返す体力があるのか不安です。

 でも、私は書くと思います。また、何かの賞を自分を追い立てるための〆切に使うかもしれません。今のところ、これに応募するぞ、と決めているものはありません。しかし、きっと私は書くんでしょう。
 私は自分がおかしくなってしまわないように、世界とチューニングを合わせるための方法として書くことを選びましたが、その作業を進めるにしたがって欲が出て、書くことを通して捕まえてやりたい、暴いてやりたい、それをもし、よかったら誰かに、できれば見たいと思う人に見せてあげたいと僭越ながら、おこがましいけれど、思うようになりました。欲深いものです。

 才能はなく、知識もなく、それを補うだけの努力もできない私ですが、それ以外の方法でも書くことができて、幸せです。見えないものを見るためのやり方が見つかって、とっても幸せです。

 読むことと書くことが、苦しさを含めたもっと広義の大きな幸せだと感じている方がいるのだと、noteを読んでいて勝手に思っています。そういう指向の方が少なからずいらっしゃる世界を私は嬉しいと思うし、なにもかもの進歩が速いこの時代にあって、無駄な足踏みをして自分の足元をほじってほじって何かを見つけよう、何かに当たろう、と一歩も進まぬ努力をして、文章に向かう、どこかにいるあなたを仲間のように感じています。

 どうかどうか、病まず倦まず、いや、病みも倦みも足元を掘る道具にして、小さな世界の拡張と収縮をこの手で拵えて、見つけたものを「どうですか?」と見せ合える優しさで、生きていきましょうね。

 誰かに届きますように。



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