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最期は

祖父の17回忌がありました。

そして法事の最中、
「どうせ死ぬんだったら、最後くらいは穏やかでありたい」と思いました。

母方の祖父は、小学生の頃に亡くなりました。
一人娘の待望の孫だったのもあったのか、ずいぶんと可愛がってもらいました(今以上に我儘で、はちゃめちゃな孫だった自覚はある)。

祖父は、我が家が父の仕事の都合で海外在住になった時に亡くなりました。
海外生活で葬儀には出れなかったからか、正直大好きだった祖父が亡くなったというのが、当時の私にはよくわかりませんでした。
2年ほどの海外生活を終え、再び日本に戻ってきた時にはこの世にいないというのが、当時はわかっているようで理解できなかったんだと思います。

ただ、かつて母が子供の時に家族で住んでいた一戸建ての家に今は祖母だけが暮らしていることを考えると、たまに孫の自分がたまに遊びに来る時ですら祖母の家が寂しく感じることがあります。
一人暮らしで利用していたアパートの部屋ですら寂しく感じたことがあったのは、祖父の死から来た経験だと思っています。
こうやって人は孤独になるんだな、と。

三回忌の時には大勢集まっていた親戚も、今回はかなり人数が少なかった。
よくも悪くも時代の変化を感じた日でもありました。

常日頃からサブカル的に死を考える癖が身につくと、どうも死に方ばかりを考えて、死ぬまでどうするか、死んだ後どうするかは大体何も決めてません。
もし亡くなったらいつかは誰かに見つけられるから、そこからまあなんとかしてくれるだろう、という。
若さ故の愚かな思考と言われればそれまでですが、それでも今が辛いんだから長生きをする前に死んでしまいたい。
頭でそういうことを考える割に、実行できない自分の弱さによく嘆いています。

そんな思考が頭に染み付いて久しいなか、おりんの音とお経を聞きながらふと祖父の遺影を眺めて、一番上の思考に至ったわけです。
…常日頃から希死念慮を垂れ流している奴が何を言ってるんじゃ、という話なんですがね。

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