響けアジアどころか世界に
コブ山田です。
ようこそいらっしゃいました。
今回は、キウム・ヒーローズの李政厚(イ・ジョンフ)選手について、記します。
1998年、愛知県名古屋市で生まれた李は、野球を始めます。韓国の徽文高等学校を卒業後、2016年にネクセン・ヒーローズに入団します。
プロデビュー後04年連続3割を打つ好打者。早くからこの好成績。背番号51の左打者ですし、さながら京田選手…いえ、イチロー選手を彷彿とさせます。
そんな彼に関する記事がありました。韓国語なので、翻訳してあるまとめが載ったのもとけさんのツイートも引用して補足します。
最初は、もし韓国国外でプレーできるなら、NPBの中日ドラゴンズがいいと思っていたとのこと!
しかし、現在の夢はMLB。メジャーリーグでプレーしてみたいというのです。
MLBはわかりますが、なぜNPBのしかも中日なのか。
それは、実父の李鍾範(イ・ジョンボム NPB登録はリー・ジョンボム)が、20年以上前に中日でプレーしていたからです。
1997年、中日の本拠地はナゴヤドームに移ります。しかし、ナゴヤ球場と違い、広くなり外野フェンスも高くなったことで得点力は減り、加えて守備の弱さも出てしまったことで最下位に沈みます。
この最下位と言うのは、私としてはとてもショックでした。当時、私は小学生。
弱いプロ野球チームを応援しているとからかわれます。
しかし、当時の星野仙一監督はすぐに打開策をとります。
新外国人を獲得します。長年中日ドラゴンズのライトを守っていたアロンゾ・パウエルと契約しない代わりに、獲ったのがKBOヘテタイガースの李鍾範だったのです。
1998年の中日は前半戦好調ですし、中日は強くなった!とわくわくしていました。
ところが…。
06月23日(火)に、アクシデントが待っていました。
阪神の川尻哲郎からデッドボールを受けます。それがよりによって右肘で、結果として右肘頭骨折となり、離脱を余儀なくされます。
リハビリを経て戦線復帰はしますが、好調横浜ベイスターズには及ばず、2位となりました。
1999年も李は開幕スタメンではあるものの、ショートはルーキー福留孝介・移籍02年目久慈照嘉に譲り、外野の起用が多くなります。
何より、プレースタイルもどうにもアグレッシブさが薄くなった印象でした。無理のないことで、本当に嘆かわしい話です。
そうして1998年当初のような活躍はできないまま、2001年シーズン途中で中日を退団。韓国に戻ったのでした。
デッドボールは完全に事故であるため、誰が悪いというものではありません。ただ、それ以降持っていた実力を出し切れたとは言えないのが、中日ドラゴンズでの李鍾範でした。そして、その姿を間近で見ていたのが息子の李政厚だったのです。
父と同じように野球を始めましたが、自身の父が苦しみながらも異国で奮闘する姿が脳裏にあり、その無念を晴らしたい思いがあったのだと推察します。その分自分が、ということです。
この李政厚の中日への思いを聞くと、ひとつのツイートがリンクします。
POSIWILLの原田晃帆さんのものです。
ネガティブ体験…。
まさに、李政厚のネガティブ体験ではないでしょうか。韓国球界のスーパースターだった父が、上のレベルに挑戦したくて日本へ。
50試合ほどは期待にたがわぬ活躍だったのが、試合中のケガが原因でかつてのような輝きがなかなか出ず、加えて父や自身に対してさまざまな声も聞いていたものと思います。幼き頃に、父親がそのようなことになり、うれしがる子供はいません。
そうして、自分はもっと活躍するんだ!という思いと才能が掛け合わさり、韓国代表レベルの実力もつきました。
すると、立つ高さが変わったことで見える景色が変わってきました。
中日でプレーしてみたいと思っていたのが、メジャーリーグ挑戦も現実的になり、かつ本人の夢にもなったのです。
こういったネガティブ体験を自分から望んでしに行く人はほとんどおらず、結果として自身に降りかかるパターンがほとんどです。
その結果嫌な思い出ができ、距離を置いて違う方向を見るのもひとつの選択です。一方、自分がその無念を晴らす!と立ち向かうのもひとつの選択です。
これも、どちらが絶対的に正解と言うものではありません。
ただ、李政厚はネガティブ体験をプラスに変えました。そして、自身の価値を高め、自由を手に入れようとしています。
結果的になればいいものですが、ひとつの輝かしい例だと思います。
中日の選手になってくれれば願ってもないことですし、そうでなくても大きい舞台で躍動してください!
ありがとうございました。