高橋周平からハッピーオーラを感じ取りたい
コブ山田です。
ようこそいらっしゃいました。
今回は、後悔してほしくないこと、および私が他者に夢見たいことについて、記します。
1998年。プロ野球セ・リーグは前年から基盤ができていた横浜ベイスターズが攻守ともに充実した戦力が機能し優勝を決めます。加えて、日本シリーズでは西武に勝ち越して日本一になります。
強い横浜。同年のドラフト会議にて、5位で住友金属の金城龍彦を指名します。
金城はピッチャーをしていましたがプロでは野手で勝負することを決めます。社会人野球は指名打者制でありバッターボックスに立つ機会は少ない状態であり、苦戦する見立てもあったはずですが、金城は努力と実力でその懸念を吹き飛ばしました。
02年目に1軍で代打の機会を得て結果を出し、その後サードの進藤達哉が故障したこともありサードでスタメン出場する機会が増えます。その後ヒットの勢いが衰えず、08月には規定打席に到達し一気に首位打者の座に躍り出ます。そのまま打率トップから落ちることなくシーズン終了。
02年目の選手でしたが新人王としては納得の成績でした。背番号も37から2に変更になります。
2001年以降外野コンバート、背番号の2もさらに1に変更といったこともありました。長きにわたり横浜の中心選手として活躍します。
問題は、1998年以降、横浜が徐々に弱いチームとなってしまっていたことです。
1998年の日本一前後には絶対的守護神大魔神佐々木主浩が仁王立ちしていました。しかし、1999年オフにより高いレベルでのプレーを目指しMLBシアトル・マリナーズに移籍します。
加えて、その佐々木たちの球を受けていた谷繁元信もFA宣言し中日に移籍しました。
結果、横浜投手陣の安定感は減り、1997年~2001年は連続Aクラスでしたが2002年に最下位に転落します。
その後、2005年には3位になりAクラスに返り咲きます。金城は同年191安打を記録。が、その後勝てない日々に戻ります。
2011年オフにTBSがDeNAに経営権を譲渡し、チーム名が横浜DeNAベイスターズに変更になってもすぐに大きく変わるわけではありません。
その間に他のチームメイトのFA移籍もありましたが金城は横浜DeNAに所属し、奮闘し続けます。
その後38歳となっていた2014年、金城に転機が訪れます。長年所属した横浜(・DeNA)からFA宣言したのです。
これは、球団フロントと本人の考え方の違いによるものです。プロ野球、他にも例がある話です。
同一リーグの巨人が金城を獲得し、40歳が見えてきた年齢で大きな挑戦として巨人へ移籍しました。
以前私がnoteに書いた、西武の辻発彦がヤクルトに移籍したケースと似ており、同様と言ってもいいと考えています。
巨人は金城を獲得する直前の2014年シーズン、セ・リーグ優勝を果たしています。金城は再び強い状態のチームでプレーすることとなりました。
ところが、同年36試合の出場に留まり現役引退。さらに巨人も優勝するかと思いきや東京ヤクルトに王者の座を奪われました。
そう、金城の出場試合数は1,892、安打数は1,648とプロ野球選手の中でも上位と言っていいほどの個人成績を残すことはできたのですが、優勝を経験することなく現役引退したのでした。
さらにはクライマックスシリーズは最終年の巨人で可能ではありましたが出場できず、いわゆるポストシーズンには縁がなかったのです。
横浜時代から応援するファンからすれば気の毒に思うのが自然です。長年頑張っていたのに歓喜の瞬間を端から見るしかなかった。
できれば横浜(・DeNA)で優勝したかったとも思うものと推察します。
入団直後には日本一の余韻があり、その後の連続優勝を期待し胸をときめかせますが、結果本人は優勝の経験ができなかった金城。
その一方で、移籍は間違いとは到底思えないストーリーもあります。
前述の1998年、セ・リーグは横浜が日本一になる一方でパ・リーグは3位にオリックスと福岡ダイエーが並び立つ展開となりました。
そのオリックスはスタープレイヤーイチローが中心となりその02年前の1996年にパ・リーグ連覇。さらには日本一にもなります。
同年のドラフト会議にて、2位で三菱自動車岡崎の谷佳知を指名します。
もともとオリックスの外野は田口壮、本西厚博、イチローがレギュラークラスでありそれだけでも堅い守備を誇っていました。
1997年に本西が阪神に移籍し、その座を引き継ぐ形で1998年以降外野のレギュラーの一角に定着。
2001年にシーズン最多二塁打記録(52本)を記録し、2003年には189安打を記録し最多安打のタイトルを獲得します。同年の打率も.350と、同時に首位打者のタイトルを獲得してもおかしくはなかった成績でした。
オリックスの中心選手として活躍していましたが、そのオリックスも徐々に弱いチームとなってしまっていました。2000年代前半はセ・リーグは横浜、パ・リーグはオリックスがシンクロするかのように負けを積み重ねていっていました。
原因も横浜と似ており、2000年オフにイチローがMLBのシアトル・マリナーズ、2001年オフに田口がこれもMLBのセントルイス・カージナルスに移籍した点が大きいです。
イチローと田口が退団したオリックスも、攻守両面で戦力ダウンを強いられます。
そんな中で谷はオリックス・ブルーウェーブの中軸を守り続けるも、2004年に出場したアテネオリンピックにて負傷します。これがあとあと響き、2006年にかけて出場機会を減らします。
大阪近鉄との合併によりオリックスのチーム名がバファローズになっていた2006年オフ、谷はオリックスでの優勝を経験できないままトレード通告を受け移籍することとなりました。
35歳のシーズンの新天地は、セ・リーグの巨人です。その巨人は2002年以降優勝できていなかった状態であり、かつ前年は中日と阪神が激しい優勝争いを繰り広げている状態でした。
オリックスよりは勝ちが期待できるチームでしたが、そもそも出場できないと意味半減ですし、果たしてどうなるか…。
巨人の原辰徳監督は谷をスタメンで起用します。最も多かったパターンは2番レフトです。すると141試合出場の打率.318と、成績が上向きます。
そして、チームは中日と阪神を制し優勝。日本シリーズには出場できませんでしたが、オリックスはBクラスのままでしたし、谷は初めて優勝を経験したのでした。
巨人は2008年、2009年もセ・リーグ優勝。特に2009年はクライマックスシリーズ以降ほとんどの試合で6番スタメンでありそのうえで日本一にもなっています。
2006年限りで小久保裕紀が退団(福岡ソフトバンクホークスに復帰)しますが、一方でその入れ替わりの形になるパ・リーグ育ちの新戦力として北海道日本ハムの古城茂幸、小笠原道大、そしてオリックスの谷が巨人に新しい風を吹かせてくれたとチームメイトの高橋由伸と阿部慎之助は発言しています(厳密には古城は前年入団)。
チームからも谷の存在はありがたがられましたし、一方で谷個人としてもオリックスから移籍しなかったら経験できなかった優勝の当事者になることができました。
逃げ切らないといけないプレッシャー、追いかけて勝ち取る緊張感。価値があるものだと考えます。
本人もいい思い出と認識しているようです。
そんな谷ですが、2009年のドラフトで長野久義が入団して以降は出場機会を減らしていきます。100試合以上出場したのは2009年が最後です。
2013年は13試合の出場に留まり、出場機会を求めて古巣のオリックスに復帰します。
2014年はエステバン・ヘルマン、平野恵一、糸井嘉男、ウィリー・モー・ペーニャ、谷という他球団在籍経験者がずらりと並ぶ上位打線を構成したことがあり、異色を放っていました。個人的には好意的に捉えていました。
ただ、1軍戦力として活躍することはできず、2015年、オリックスの谷として引退したのでした。
同年、中日の和田一浩が安打数を2,050の数字に積み上げて引退しましたが、実は和田と谷は同学年。
ふたりとも大卒社会人の同じタイミングでのプロ入りであり、ほとんどの期間で西武とオリックス、そして中日と巨人で戦っています。ひとつの時代が終わりました。
優勝直後に入団し、でき始めているチームの黄金時代を確固たるものにしていくんだという意気込みで横浜とオリックスに入団した、金城と谷。
個人成績は悪いものではなく、チームの主力と言っていいものなのにチームは勝てず沈んでいく。本人は頑張っているのに暗黒の象徴という表現を使う人もいる。
そして、成績が停滞してきたタイミングで巨人に移籍した金城と谷。移籍するも優勝を経験できないまま引退した金城と、移籍の結果日本一を決めた試合でスタメン出場していた谷。巡り合わせがあります。
この記事を書いている2023年11月現在、オリックスは2021年~2023年にパ・リーグ優勝を成し遂げ、さらには2022年には日本一になりました。
一方で、横浜DeNAは2017年に日本シリーズ出場を果たしてはいますが、最近の優勝は1998年の状態です。
理想中の理想は長年主力選手としてチームの顔となっていた横浜とオリックスで優勝することだったと私は考えます。一般的な考え方だと思います。
でも、所属チームの状態がひとりの頑張りではどうにもならず、優勝に貢献する経験をできるなら移籍してよかったという捉え方もできる。
そのことを考えてしまうきっかけは、2023年07月に起こりました。
2019年にセ・リーグのサードのポジションで、ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した選手の名は高橋周平。
2011年に中日は球団史上初の連覇を成し遂げます。日本一にはなれませんでしたが、強いチームと言っていい状態でした。
同年のドラフト会議にて、1位で東海大甲府高校の高橋周平を指名します。抽選になりましたが当たりくじを引き、入団が実現します。
2013年後半から1軍に定着し、阪神甲子園球場や東京ドームでホームランを打つなど日に日に期待が高まります。ちょうど選手のタイプは森野将彦と重なりますし、その森野以上の打撃成績を残してくれると思いたくなります。
ただ、順調かと思いきや2014年~2017年の間は足踏み状態。背番号3を着用し始めた2016年に右手有鉤骨を骨折してしまうアクシデントもありました。
2018年にセカンド起用が始まると11本のホームランを放ちます。2019年はサードに再コンバートされるも05月に猛打賞を08回記録し、交流戦の時期には打率.330を超えている状態でした。
サードのレギュラーと認識し、キャプテンの役割を授けた与田剛監督とも好相性だったと考えています。
短縮シーズンとなった2020年は5番に定着し打率.305を記録して前年に続きゴールデングラブ賞を受賞。
チームの08年ぶりAクラス入りに貢献したのは間違いありません。ただし、短縮シーズンだったこともあり、同年はクライマックスシリーズはありませんでした。
その後、曇り空となっていきます。
2021年には137試合に出場するも打率は.257と大きく落とします。さらには2022年に監督が立浪和義に代わり、サードのポジションは石川昂弥が優先起用されるようになります。中長期的なリターンを考えたら石川昂弥の方が大きいと判断したと考えています。
2023年になり、高橋周平は開幕戦に3番サードでスタメン出場。勝ち越しタイムリーツーベースヒットを放ち東京ドームでヒーローインタビューを受けました。
ちょうど私も3塁側内野スタンドにて聞いていました。簡単に石川昂弥にスタメン渡してたまるかという意地を感じ、ぜひそれをこのまま強く見せてほしいとも思っていました。
ところが、シーズンが始まると、スタメンの機会が増えたのは石川昂弥や福永裕基。高橋周平は守備固めの起用が多い現象が起こっています。
2020年にAクラスになった象徴と言える4番ファーストダヤン・ビシエドと5番サード高橋周平が揃って鈍ってしまっている。
また、プロ入り時は競合ドラフト1位と世代最高評価を得ていたのに、昨年には同学年の北海道日本ハム近藤健介とオリックス吉田正尚が自分の意思で他球団に移籍し、高額契約を結ぶことができた事実も厳しいものです。私はもどかしい気持ちで日々過ごしていました。
その後、07月の試合にて、高橋周平の名前が大きくクローズアップされる機会がありました。
バンテリンドームナゴヤでの横浜DeNA戦。09回裏をビハインドで迎えましたが、長打が出れば一気に逆転サヨナラも見えてくる2アウト満塁の場面を作りました。
代打で登場したのは溝脇隼人。
結果、溝脇は凡退し追いつけず試合終了となりました。
この時にベンチに鵜飼航丞も高橋周平も残っていたのに、そのふたりより長打を期待しにくい溝脇を選択した立浪監督の采配には疑問符がついたファンが多かったというものです。
特に解説を務めていた権藤博さんが、この件についてこう言及していました。
「こんな大チャンスで…高橋周平を出さないって事はドラゴンズにとっても要らないってことなんですよ」
それを受けて同調するコメントを多数見ました。サードスタメンの座も石川昂弥と福永に奪われがちになっている。セカンドスタメンなどで試合に出場していないわけではありませんが、本来望んだ姿と遠いものが現実として表れています。
そして、それなら中日より評価してもらえる環境に移るアクションをとるべきだともいうコメントもありました。
決して否定できないことです。私自身も企業間移籍経験がありますし、プロ野球の中日ドラゴンズでは細川成也が環境変化の結果大活躍を果たしています。
それだけに、私は加えて金城と谷のことを思い出してしまったというわけです。
高橋周平の名前を挙げましたが、同年ドラフト3位指名の田島慎二にも言えることです。田島も不調期や故障はありましたが、中日の中継ぎで長年頑張ってきています。
金城はお気の毒でした。そんな目に遭う選手は少しでも減らしてほしいと思う気持ち。
谷は移籍先で優勝できてよかったものの、キャリアスタートの球団が沈みゆく中で主力選手として奮闘していたのだからやはりそのチームで優勝できる経験ができたらなおのことよかったと思う気持ち。
2015年から高橋周平に向けて演奏開始した応援歌に、
「竜の未来を担え」
という一節があり(もう若手ではなく主力だと判断されたか2020年以降は歌詞変更)、あの時から大声で歌い続ける人たちの気持ちは高橋周平の大活躍で中日ドラゴンズが優勝することのはずです。
先週2023年11月21日(火)、中日球団は高橋周平と契約更改しました。2024年も中日ドラゴンズの選手として戦うこととなりました。
年俸現状維持と言っても、2023年に放ったホームランの数は0です。
追い風どころか上り坂を駆け上がっていかないといけない、過酷な状況ではあります。
ただ、それでも、中日ドラゴンズ田島慎二、そして高橋周平の状態で優勝を経験できること。最高のできごとだと考えます。
最下位に沈む中日ドラゴンズというチームとしても、レギュラーとは言えない状態になってしまった高橋周平選手個人としても、その両面から簡単に実現することではないというのは重々承知です。変わらなければいけない、は否定できない言葉です。
その一方で、見る夢としては魅力を増したという見方もできます。そして、その見る夢は叶う形をとれると信じて過ごしていきたいです。
ありがとうございました。