井端弘和のキャリアの転換点だった2003年秋

コブ山田です。
ようこそいらっしゃいました。

今回は、プロ野球、元中日ドラゴンズ井端弘和選手について、記します。

伊賀泰代さんが、2016年11月に『生産性』という著書を出版しました。

この第4章『トップパフォーマーの潜在力を引き出す』は、当時アラサー会社員の私も表情を変えずに読んでいました。
私の脳内から消えることのない概念です。

その記憶が残ったままの2024年10月、私はYouTubeでこの動画を視聴しました。すぐに『生産性』と結びついたのでした。

『弱いチームに猛練習は必要なのか?改めて落合ノックを考える』

CBCラジオの若狭敬一アナウンサーが話している動画なのですが、低迷する中日ドラゴンズには猛練習が必要なのかというテーマであり、この中に井端弘和のエピソードが含まれていました。

1997年ドラフト5位で中日に入団した井端は、1998年のルーキーイヤーから1軍出場を経験するも、1999年は出場なしに終わります。
ショートのポジションは福留孝介に優先的に与えられ、その守備固めも久慈照嘉が多く、井端は優勝には貢献したとは言えない形で終わりました。

2000年になると外野からではありましたが出場機会が発生し始め、2001年以降ショートのレギュラーと言える状況になってきます。

出場試合数と打率は、

2001年 140試合 打率.262
2002年 135試合 打率.290
2003年 105試合 打率.267

でありいずれも規定打席に到達しています。
2004年に開催されたアテネオリンピックの予選も兼ねてアジア野球選手権2003が開催され、日本代表チーム(当時は侍ジャパンという名称はなかったため日本代表という表記にします)が結成され、井端もメンバーに招集されたのでした。

ここまで書くと、井端は『生産性』に記載があるトップパフォーマーに該当します。中日にてショートのレギュラーの座を固めていました。
井端は中日で複数年にわたりショート守ってきたわけだし、日本代表でもそうなりたい、と意気揚々と乗り込みます。

結果、井端は台湾戦、韓国戦にスタメンで試合に出場することができました。中国戦も代走ではありましたが出場し、全試合出場は果たしました。
しかし、その出場の形は井端は思い描いていたものと異なりました。

7番指名打者だったのです。
守備につくことができたのは、同じセ・リーグでは01歳下の二岡智宏。同年打率.300をマークした二岡でさえ、サードでの出場でした。

一方で、同じセ・リーグでより高度な守備を見せるヤクルト宮本慎也はセカンドでの出場でした。慎也のショートは日本一、と歌いたいところですが、長嶋茂雄監督は勝利のために異なる選択をしたのでした。

では、井端が望んでいたショートの守備位置につく猛者は誰だったのか。
西武松井稼頭央です。MLBニューヨーク・メッツ移籍も決まっていたスーパースター。ショートのポジションで出場という夢は、井端は跳ね返されてしまったのでした。

何より大きなポイントは、松井稼頭央も井端も1975年度生まれの同学年だということです。二岡でさえ、松井稼頭央を追いのけてショートで出場できなかったのです。そして自分もダメだった。

「(日本代表ではショートで出場できない)この思いをしたことが、アジア予選での一番の収穫です。名古屋では認められていましたが上には上がいる、こんなんじゃダメだと思いました」

と井端自身がコメントしています。

自分も中日でショートのレギュラーつかめるぐらいの実力はついた。ただ、松井稼頭央は同学年なのに、プロ野球選手としてのレベルが違う。
これこそ、トップパフォーマーが直面する、社外の卓越したトップパフォーマーの例だと私は考えます。圧倒的なライバルの姿という表現には異論の余地がありません。実例と言っていいと思います。

2003年秋、井端弘和28歳。松井稼頭央と一緒にプレーしたことにより、目を開かされたのでした。
そんなギラギラした井端にとって、その2003年秋は本当に運がよかったと言えます。
求めた成長機会は、見事に降って与えられたのです。

井端はもともとはアジア予選後は名古屋に戻り、休養してから沖縄県で行われている秋季キャンプに合流する予定でした。
日本代表チームで戦うわけです。得たものも大きいでしょうが気が張っており、息抜きしたくて当然です。
しかし井端はまさに興奮冷めやらぬ状態。ショート松井稼頭央を目の当たりにし、少しでも追いつきたい、特に守備の練習をしたいと思い、予定を変更して直接、新千歳→那覇に飛行機移動したのでした。

沖縄県中頭郡北谷町の中日キャンプ地に到着した井端は、このふたりの人物から大きな影響を受けます。

ひとりが川相昌弘です。2003年オフの読売ジャイアンツ球団内のゴタゴタから移籍しての現役続行を決断し、ベテランとして中日にやってきました。
川相もショートを長年守っていたことから、井端は川相の守備を見て盗もうと目を凝らします。

川相は派手なプレーとは対極のスタイルで、捕球が容易な打球を丁寧に処理する練習をしていました。

井端の守備といえば荒木雅博にトスして華麗にアウトにするシーンがクローズアップされがちですが、一般的なゴロを弾かずに送球してアウトにする基本ができていないとショートレギュラーの前提条件が成立しません。

巨人のショートを長年守ってきた川相。井端はまさに生きた教材から学びを得たのでした。

もうひとりがそう、落合博満です。
守備の成長機会に飢えていた井端に、ちょうど監督の落合がノックを打っての守備練習を行うことができたのです。

落合のノックは打球に激しさはなくも、定位置から少々離れたところに打つことが多く、足を使わないといけないことが多かったとのこと。疲れてきたら追いかけて捕るのが面倒になりそうです。

ところが松井稼頭央に現実を突きつけられた井端はそんなこと言っていられません。限界まで食らいつかないと日本代表でショートは守れません。

落合は後年、自分がノックを打って耐え抜いたと言えるのは荒木雅博、森野将彦、そして井端弘和だけだったと語っています。

そうして成長カーブが上向いた井端弘和ですが、2004年は以下の成績でした。

2004年 138試合 打率.302

そして、初のゴールデングラブ賞も受賞。攻守両面で成績を上げ、チームはセ・リーグ優勝と素晴らしいシーズンとなりました。
最終的に安打数も2,000の手前まで積み重ね、そしてその2003年の20年後には侍ジャパンの監督に就任できるほどですから、球史に残るプロ野球選手になることができたと断言できます。

社外の卓越したトップパフォーマーの姿を目の当たりにし、自身を高めたいと思えた直後に用意された成長カリキュラムにがむしゃらに取り組んだ井端弘和。熱い物語です。

『生産性』を読んだことがある方でプロ野球の知識もお持ちなら、この井端の例がよくお分かりいただけると思います。

最後に

実は私も、井端と同列に語れるものではありませんが、似た経験はしています。
そのため、井端に共感はできます。

2020年。32歳になった私は、何か新しいことをしないといけないと思い立ち、意図的に遠ざけていた公開型SNSのアカウントをいくつも作成しました。このnoteもそのひとつです。

そうすると、社外で出身校も違う同学年(1988年度生まれ)の人と接点ができ、会話することになりました。
そうしてその同学年の人の職歴が判明していくにつれ、その輝かしさに、腰を抜かしてしまいました。
社外にすごい人がいる。一方で、自分は何やっていたんだ。危機感に近い性格を持つ、猛烈なエネルギーが芽生えたのです。

私は優秀な業績を収めていたわけではありませんが、普段仕事をしているときにそういった感情にはならず、淡々と自分のやれること、やりたいをやるというスタンスでした。
しかし、これが社外の人となると変わります。隣の芝は青く見える面もありますが、それを差し引いても自身のモチベーション向上には十分すぎる燃料となりました。

会話するときも、自分が出す知識は多めにしました。学ばされる立場でありながら、少しでも実のある会話にしたかったからです。

少しでも近づきたい。
自分が進みたい先へ、自律的に進むんだ。ここは悔いなく戦い、つかみ取りにいくタイミングだ。
それももう30歳過ぎている。できるだけ早くだ!!

結果、私は同年に中途採用内定を獲得し、他企業へ移籍しました。生活エリアも変わりました。人生の分岐点となったのです。
36歳になる現在も職業空白期間はないことから、これら一連の行動は間違っていなかったと堂々と言えます。

もちろん、松井稼頭央のような社外の卓越したトップパフォーマーを見ても、私には次元が違う、関係ない話で片づけるのも否定はしません。無理して自分自身に危機感を煽れとは言いません。
結果、本人が後悔しては本末転倒。個人の価値観の違いは存在します。

そんな中でも、松井稼頭央を見て目を見開いた井端の話から、みなさまが前向きになれることがあれば、私もうれしいです。

ありがとうございました。

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コブ山田(Cob  Yamada)
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