常識を疑うと楽になる。
一般的に「常識を疑え」というのは世の中のあらゆることに自分なりの考えを持て、自分で考える癖をつけろ、日常にビジネスの種がある、と言った文脈で使われる。
それはそれとして、今回わたしは人間関係を円滑にするために「常識を疑う」ことを提案したい。
仕事上の付き合いに限らず、自分と考えと異なる人と交流する機会がある。「考えが異なる」くらいであれば自分の世界を広げるいい機会になり得るが、「考えが理解できない」レベルになるとその人との交流はストレスでしかない。
この「考えが理解できない」ときにぜひ思い出して欲しいのが、「常識を疑う」ことだ。
わたしが最近に遭遇した「考えが理解できな」かったのは謝らない人。
仕事上でのやりとりだったが、非があるか微妙なケースではなく明らかにその人に非があるケース。
とはいえ別に大きな問題ではないのでめくじら立てるものでもないのだが、すみませんの一言さえないことが衝撃でさえあった。
わたしは良くも悪くも人間関係の摩擦を避けたいタイプなので、わたしに非があるときはもちろん、別に非があるわけでもないが謝ってもおかしくない場合はすぐに謝る。状況にもよるが、仰々しい言い方ではなくカジュアルにいうことも含めると割とすぐ謝る方だと思う。
だから余計に、明らかに先方に非があるケースで一言も謝罪がないことに驚いた。「謝ったら負け」という教育でも受けてるのかと。
でもそこで気づいたのが「非があるときに謝るべき、と考えるのはわたしが勝手に持ってる常識に過ぎない」ということ。
感覚的には絶対に謝らない人に比べると謝る人が多いとは思うが、それは統計であり、謝ることはルールでもなんでもない。まぁ謝ったほうが人間関係が円滑にいくことは多いとは思うが。
しかも、わたしはその自分勝手な常識を相手に押し付けてしまっている。自分がそう思うからと言って相手がそうしないといけない義理は何もない。
別の言い方をするなら「相手に期待してしまっている」のだが、相手からしたら知ったこっちゃないだろう。
謝ったほうがいいけど謝るのは悔しいから謝らないでおこう、と考えている可能性もある。同時に「1ミリも謝るという発想がない」可能性もある。
それは相手しかわからない。
この状況で、わたしはどうすべきだろうか。
なんで謝らないんだ、と腹を立てるべきだろうか。
それは違うと思う。
適切な対応は「また同じことが起きないためにできることを考える」だ。
それは相手に注意喚起することかもしれないし、同じことが起きないようなシステム(環境)を準備することかもしれない。
少なくとも謝らないことに感情的になることではない。
自分が常識だと思っていることが、常識ではない場合があることを受け入れ、現実的に必要な対応をすべきである。
他人が期待通りに動かないとき、イラッとしがちだ。
でもそのイラつきは、自分が勝手に決めた常識が原因かもしれない。
自分が思うほど常識は誰しも共通でないと思っておくと、途端にイライラが減るのでぜひお試しあれ。