わたしの瞑想
「俺のフレンチ」ならぬ「わたしの瞑想」について書いておこうと思う。というのも、最近やっと自分なりの瞑想との付き合い方がわかってきたから。
わたしの瞑想ヒストリー(?)はざっくりこんな感じだ。
1.きっかけ(2014年冬)
ヨガのクラスに行ったことがある人はわかるかもしれないけれど、多くのヨガのクラスで、最後にマットの上で仰向けになってじっとする時間がある。これを、シャバーサナ(屍のポーズ)という。おどろおどろしいネーミングではあるけれど、これはとても気持ちがいい。
そしてこのシャバーサナの時間は、インストラクターのもっていき方によっては、最高の瞑想時間になる。
当時通っていたゴールドジム銀座のヴィンヤサヨガクラスで、はげしい太陽礼拝をたくさんした後に、ヘトヘトになってシャバーサナをした。
真っ暗なスタジオに、神秘的な音楽が流れる中、ふとインストラクターが「今体にながれている感覚、頭をよぎるイメージ、絶え間ない呼吸、そこにゆっくり意識を向けていきます」とささやいたとき、なぜだか涙が止まらなくなってしまった。
瞑想の素晴らしさを肌で体感したのは、これが初めて。
ヨガとか瞑想とかってすごいぞと確信した私は、とりあえず年末にインドにヨガ旅行し、さらにヨガのインストラクターコースに通うことに決めた(実は全米ヨガアライアンスRYT200認定講師なのである)。
2.やりまくる(2015春〜2016年夏)
とにかく無我夢中でいろんな瞑想をやりまくる。瞑想に関する本を読みまくる。
2015年から通いだしたヨガのインストラクター養成学校には、講師も生徒も、いろんな人が集まっていて、とにかく楽しかった。今までの大学、会社というある意味レールでつながった世界とは全く違っていたこと、そして基本的には女性ばかりであることがとっても新鮮だった。
NHK朝ドラにでてたような女優さん、世界中に撮影旅行しているアートモデル、美人すぎる消防士、自然食マニアのカリスマ主婦、統合医療に詳しいOL、占い師になりたい有閑マダム、夫と世界1周旅行をする前のスポーツインストラクター、振付師&ダンサー、心理技術に詳しい理学療法士、ものすごい下ネタを知っている女子大生、世界中を回ってきたジャーナリスト、大金持ちのパパのいるヨガの先生、哲学の研究をしている大学講師・・・あげればきりないや笑。
あのゴールドジムでの深い瞑想体験をもう一度味わいたくて、ヨガのインストラクター養成学校にまできたけど、瞑想を深めるという当初の目的を忘れ、とにかくヨガのポーズを楽しみ、ヨガを通じた出逢いが楽しんでいた。
「あれ、わたしなんでヨガやってんだっけ?」
「楽しくヨガして、からだは柔らかくなってるけど・・これをやりたかったわけではない!!」
ということで、ヨガはほどほどに、改めて瞑想を深めることを決意。
瞑想通にすすめられるがままに、ヴィパッサナー瞑想というものに参加することにした。宗教的な勧誘もなく、参加費が寄付制という志高い瞑想団体で、かなり徹底した瞑想を安全に体験できるところらしい。けれど、参加する前は兄や先輩たちにかなり心配されることになる。
身近な人々をふりほどき参加してみたヴィパッサナーは瞑想。
これは、11泊12日間のあいだ、自然豊かな山奥にあるリトリート施設に泊まり込み、団体で瞑想をするもの。その内の10日間、菜食、読み書きインターネット禁止、会話禁止、外部との連絡禁止というかなりストイックな内容である。生活に必要な寝食意外は、基本ずっと瞑想。そして、誰ともコンタクトとれない。
<ヴィパッサナー瞑想の1日のスケジュール>
午前4時: 起床
午前4時30分~6時30分: ホールまたは自分の部屋で瞑想
午前6時30分~8時: 朝食と休憩
午前8時~9時: ホールにてグループ瞑想
午前9時~11時: ホールまたは自分の部屋で瞑想
午前11時~12時*: 昼食
午後12時~1時: 休憩および指導者への質問
午後1時~2時30分: ホールまたは自分の部屋で瞑想
午後2時30分~3時30分: ホールにてグループ瞑想
午後3時30分~5時: ホールまたは自分の部屋で瞑想
午後5時~6時: ティータイム
午後6時~7時: ホールにてグループ瞑想
午後7時~8時15分: 講話
午後8時15分~9時: ホールまたは自分の部屋で瞑想
午後9時~9時30分: ホールにて質問
午後9時30分: 就寝
(まず年末年始に12日間連続の有給休暇をとるまでがすごく大変だったな・・しみじみ)
この猛烈なヴィパッサナー瞑想合宿、実は世界中で行われていて、「人生変わった!」「仕事で成功できたのはこれのおかげ!」「グルになれた(ほんまかいな)」みたいな感想が相次ぐ、知る人ぞ知るイベントなのである。
かなり期待して参加し、でてきた感想は・・・
「一体なにやってんだ、わたし・・座ってる間になんか色々したいぞ」
「わたし、まだ悟らんでいいから、俗世に戻してくれ。」
「しょうもないことで、わーきゃー言ってる方が自分らしい?」
という元も子もない開き直りで、瞑想をあまり好きになれないまま帰ってきた。
こうやってヴィパッサナー瞑想の恩恵をあまり感じ取れないまま俗世にもどったものの、やはり瞑想は続けていた。まだ何かが起こる気がしていたから。そして、瞑想するくらいしか熱中できるものが他になかったから。
たとえば、科学的変化に注目したくて、MUSEという瞑想アプリで脳波をはかりながら瞑想してみたり・・・(2週間でかなり脳波おちついたでしょ?)
自己啓発業界での流行語「引き寄せ」の元となったエイブラハム・ヒックスの瞑想CDで毎朝or毎晩45分間の瞑想をしたり・・・
その他様々な瞑想リトリートみたいなものに参加したり・・・
それでもわかりやすい変化は感じられない。
「このまま瞑想していて何が変わるんだろうか」
「あのゴールドジムでの感動をもう一度体験するためだけに、時間やお金さきすぎじゃない?」
「瞑想を通じて、なにが欲しいんだろう。ってか瞑想すればするほど欲求がなくなってきたけど、わたしどこに行っちゃうんだろう」
心友がタヒチのビーチで眩しいビキニ姿を披露していたり、同僚がNY出張で現地のパートナーとグローバルなカンファレンスしていたり、仲良い先輩がせっせとパーティで婚活していたりする中、なぜ自分は目的も不明確なまま瞑想にあけくれているんだろう・・・
このまま続けていると、心身ともに出家しそうなので、ストイックに瞑想するのをやめることにした。1週間に1回くらい、気が向いたときにやってみるくらいにした。
3.気づいてしまった(2016年秋)
2016年9月に事件は起きた。
退職して、東京の家を払ったその日に、そのまま滋賀の朽木村というところに向かい、カンボというブラジル原住民の民間療法を体験してみた。ヴィパッサナー瞑想を通じて知りあった、脳科学の研究者に勧められて、よく調べもせずに行ってきた次第である。
カンボとは、すごーくざっくり説明すると、アマゾンにいる毒カエルの粘膜を採取し、それを人間の表皮にぬりつける。血管にそのまま取り込まれると死んでしまうから、表皮だけ焼いて、そのカエルの毒を塗る感じ。すると、身体がショック状態になって、上からも下からも嘔吐状態がつづき(汚くてごめんなさい)、ものすごい強引なデトックスが行われるのである。この一連の儀式を、カンボセレモニーと呼び、これを通じて難病や精神疾患が治癒したり、精神性を深めたりすることができるらしい。
実は体験する前も今も、このカンボという儀式についてはちゃんと理解していないけど、ちゃんとしたインストラクターのもとでやらないと死人がでることもあるらしいので、皆さん参加される場合は信頼できる人の紹介のもとどうぞよろしく(そもそも良い子は真似しないでね)。
事件がおきたのは、このカンボ体験の後半に差し掛かる頃。
カンボ中、たいてい激しい腹痛や嘔吐をもよおし、参加者は目の前に用意されたバケツに 1時間くらいかけて2Lくらいリバースしてすぐに倒れてしまうのだけど(書いてて改めてやばいな笑)、私はさくっと15分くらいでリバースを終えてしまった。
周りでのたうちまわっている人に対して、「もっとはきなさい!!」という号令が飛び交う。指を突っ込んで、水を飲んででも、とにかくはきなさい。そしたら楽になるからって。
「あれ、一気にだしちゃって(きたないね)、わたし大丈夫かしら?」
と思った矢先、怒涛の涙がでてくる。シクシク・・・止まらない、涙が止まらない、止めたくない、もっともっと吐かなきゃだめかもしれないのに、泣いている場合なのだろうか。
するとカンボセレモニーを司るシャーマン(インストラクターみらいなもの)がやってくる。なにかしきりに英語かポルトガル語で話してるが、それどころでなくて、全く聴き取れない。
「I have to reverse something inside mouse more...I know(わたしもっと吐くべきよね)」
(ちなみに正しい英語でいうと、「I have to eject some contents of the stomach through the mouth more」「 Should I vomit more? 」とかだったんだろうけど、とっさにでてきたのはテニサー用語のリバースであった)
そこでシャーマンがわたしのアウトプットが入ったバケツを確認しながら(ほんときたないね)、「How do you feel? sick?(どんな感じ?気持ち悪い?)」とNHKの初心者英語なみのわかりやすい英語でゆっくり問いかけてくれる。いいぞ、それが今の私にぴったりの英語だ。
目からリバースしながら答える。「never.....I feel... just comfortable...deep comfortable. But I can't stop my tear. I don't know why so. (全然...ただ心地いい感じ...深い心地よさ。でも涙が止まらないの、なんでかわからへんけど)」。とにかく私が気になるのは、さらに口からリバースすべきか否かなのである。
するとシャーマンと一緒にいた通訳の日本人女性が、松岡修造ばりの勢いで、何か言ってくる。
「涙があなたのデトックスなの!すべてだして!感情も涙も!!」
よかった!もうはかなくていいのだ!口からは!!
とにかく促されるままに、体内の水分がカラカラになるまで、シクシクと泣く。修造の応援もあってか、ものすごい量の涙がでる。こんなに長時間泣き続けることって、なかなかない・・・映画「蛍の墓」を観たとき以来?
口からも目からも、すべてだしきった。文字通り、わたしの心身は「空(くう)」だったと思う。
すると突然、体がふわふわと軽くあたたかくなってきた。なんだかとてもやわらかいエネルギーに包まれた感じがした。とてつもない心地よさだ。そして、今この瞬間、猛烈に瞑想したい。
というわけで坐禅を組んでみた。周りはゲロゲロしてたり、腹痛で転げ回ってたり、頭痛でうなっていたり、ぶっ倒れていたりする中、背筋をのばして、呼吸を整えてみた。不思議と、周りの(悲惨な)光景、音、においは全く気にならず、ただただ心地よさに包まれていた。
ここからの体験はなかなか言葉で表現できないのだけど(そして改めてまた書いてみようと思うのだけど)、今思うと至福体験みたいなものをしたのだと思う。とにかく心地よくて、感謝にあふれて、このままで完璧〜というセロトニン大放出な状態になったのである。
テントをうつ雨の音、閉じたままのまぶたの先にみえる抽象的なヴィジョン、肌にふれる空気の流れ、すーっとひきつつある身体の熱・・すべてに手を合わせてしまう。今度は感謝と感動で、またツーっと涙が溢れ出る。
ゴールドジム銀座で体験した心地よさとは次元の違う至福感。今この瞬間、不完全なわたしで、完璧なんだーって心の底からわきあがってくる感覚。
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書けば書くほどやばい感じだけど、この体験を通じて、幸せについて新たなアイディアを得た。
幸せって、手に入れる対象ではない。今この瞬間感じるか感じないか選べる一つの状態なんだってことを体感した。
幸せな恋愛・結婚、仕事での功績、ありあまる富の先になんとなくあるもの・・それが幸せと思っていたけれど、多分ちがう。(そのときはそのときなりのしがらみがきっとあるんだろうな。それに今この瞬間だって、10年前の私からしたらとても眩しいのかもしれないしね)
幸せって、いかに獲得するかじゃなくって、どんな状況であれ今この瞬間感じようと思えば感じられるものなんだと思う。
瞑想をやりまくった結果、そんな体験知が私にきざまれた。
(そしてもう二度とカンボセレモニーには参加しないと決意した)
4.変化してる(2016年冬〜2017年春)
その後、ブラジルのシャーマンと話したり、オーストラリアでヒッピーと戯れたり、精神に関わる職業家(医師、臨床心理士、カウンセラー、グル、その他活動家、研究者)に会ったりしながら考えていた。
幸せって意外とカンタンだ。
でも難しくしようとしたら、いくらでもできる。
そして幸せが案外カンタンなことは、求められない限り積極的には発信しないでおこう。難しくしたい人にとっては面白くない事実だし、カンタンであることを知りたい人にどう表現すればいいかまだわかっていないから。
そして、カンボ体験で感じた強烈な至福感(幸せな感じ)に似た感覚は、日常のふとした瞬間に、意識的に体験できることに気付いた。
このことに気付いてから、坐禅をくんで瞑想することが減った。というのも、坐禅をくまなくても、瞑想状態になれるのである。散歩しているとき、誰かと話しているとき、ご飯をたべているとき、お風呂でホッとしているとき・・・瞑想を通じて感じられる平静さや幸せは、いつだって意識次第で感じられる。
というわけで、(坐禅を組んで行うような)瞑想に、平静さや幸福感を求めなくなってきた。坐禅を組まなくたって感じられるのだから。
そして、そもそも、平静さや幸福感を、あえては求めなくなってきた。人生の一番の目的にするものでもない気がしている。だってそれはあまりにカンタンに手に入るし、本当にそれを追求するなら出家するのが一番だもん。それはなんか違うんだよね。
つまり、わたしの人生の目的は、今のところ安らぎ(平静さや幸せ)ではない。わたしの人生の目的は、熱狂的になって大満足しながら、意図的に日々を創造をしていくことなんだと思う。
というわけで、最近は1日15分と上限をきめて、(坐禅を組んだ)瞑想をしている。今までのように、飛び散る思考を落ち着かせて、無条件の幸福感をえる効果はもちろん、最近はインスピレーションを得るために、こういった瞑想をしている。
わたしにとっての瞑想のあり方は常に変化していて、さらに瞑想を通じて得られるものも日々少しずつ変化している。あえて「瞑想とは〜〜なものだ!!」と先入観をもたずに、「わたしの瞑想」の変化を楽しんでいこうと思う。