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シとセイ
「なぜ死んではいけないの?」
こう問われたとき、わたしはなんて返すのだろうか。
冬に入った頃くらいから、こんなことをたびたび考えていた。
きっと精神科の授業が始まったからかな?
人の心はその時代の文化と密接に関わっている。
だから、もし自分が「死にたい」と感じたとき、その死にたい気持ちは、純粋に自分の脳やホルモンが作り出しただけではないのかもしれない。
「鬱病になると、自分をどこまでも責めてしまう」
と、精神科の先生は授業の中でなにかを回想するようにいっていた。
「自分がすることなすこと、自分が感じる考えること、そもそも自分自身という存在があること...それを否定されてる気がするし、なにより自分自身が否定している」
そんなようなことを、ある小説にでてくる思春期の少女もいってたっけ。
わたしも、先生の講義を聴きながら、なんとなく回想をしていた。
「日本は自殺が多い。それはなぜか?」
先生は自身の仮説として、侍文化と死刑制度の話をした。
昔日本にいた侍達は、恥ずかしい生き方をするくらいなら、自ら腹を切った(らしい)。切腹ってやつだ。
誰かから罰せられるときも、腹ではなくて首だけど、同じように死んでお詫びをする流れだったよね。打ち首だ〜って言われながら。
「この二つは微妙に形を変えながら、今もあると思うんです」
日本にはまだ死刑制度がある。先進国では珍しいことらしい。
とてつもなく悪いことをしてしまったら、「死」んで詫び、「死」をもって償うのである。逆にいうと、罪を償う究極的方法が「死」だというのかな?
こういった文化が無意識に刻まれてるからこそ、
自分のことを責めて、自分の存在を否定して、そんなとき自分を罰して、また何かに詫びたいと思ったとき...究極的には自らを死に陥れるのではないか。
こんなことを、先生はお話していた。
自殺者がおおいことと、死刑制度に表れる日本的「死」が、どこまで関係があるのか、わたしにはまだわからない。
だけれども、誰しも「死」を内包してる。
自分にとっての「死」を内に抱えている。
誰かが「死」を望むとき、その人にとっての「死」とはなんなのか?
死とは、償い?解放?昇華?供養?一体化?帰還?ケジメ?自己表現?混沌?旅?刺激?試験?
その人の「死」というものを形作るイデオロギー、思想、あるいは信念みたいなもの、それを知らずしてその人の「死」について取り扱うことなんてできないんじゃないだろうか。
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「死んでもいいよっていわれて救われた」
安楽死を遂げるまで(by宮下洋一)という本を読んだ友人から、こんなメッセージが送られてきた。
覚えている限り、生まれてきてからこのかたずっと、うっすらと死にたいと感じてきたとも。
彼女は、精神病院にいったり、芸術に没頭したり、未知の世界に飛び込んでみたり、自分なりにそのうっすらと影のように付き纏う感覚と対峙してきたのかもしれない。
「その死にたいという感覚それ自体も、病気の一症状であるとしたら?」
たとえば双極性障害(躁鬱病)を公言している坂口恭平さんのエッセイなどわかりやすい。彼の話をきいていると、鬱が希死念慮をおこしているように感じられる。
「症状ですって言われても、病院いってもまだ辛いのは事実だし、物心ついてからずっとそうだから。病気って言われても脳の仕組みとかみんな違うし。ただ、医学が進んで、合う薬がでてくるかもしれないことを思うと、実際に死のうって感じにはなってないかな。」
たしかに、薬や生活習慣の見直しで、死にたい気持ちは消える。あるいは、なにか新たな信仰をもったり、思想がアップデートされて、すっかり希死念慮が遠ざかる人もいる。
この話をしてくれた彼女は、自らの魂を揺さぶるような刺激を求めか、世界中を駆け回り、人を助けたり、表現をしたりしている。
そして日本の平凡で平和な日常にもどると「生きてる感覚がしない」とよく不満を漏らしている。
ずっと死にたいと感じているという彼女は、わたしからみると誰よりも「生」を感じていたいようにも見える。
彼女にとっての「死」とはなんだろう。
多分だけれど、そこにはきっと彼女の「生」と関わる何かがある。
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