あべ祭りにて
一週間前、この街に引っ越してきた僕は、まだこの新しい場所のことについてよく知らなかった。
そんな時だった。
今にも崩れ落ちそうな、小さな駅に、そのポスターは貼ってあった。
「あべ祭り ~日本中の安倍に捧げよ~ 午後24:00~」
「なんだこれ」
よくわからなかったが、善は急げでとにかく行ってみることにした。
だが、時間が時間だ。
その日、僕は昼ごろから夜の11時くらいまで眠り、それから起き出した。
会場までの道のりは、僕の引っ越してきたボロアパートから案外短く、僕は薄手の羽織に懐中電灯を持って、サンダルで出かけた。
歩いていくと、ぽつぽつ提灯が灯り出し、子供の笑い声や、話し声が聞こえるようになってきて、それからもう少し歩くと、会場に到着したようだった。
「これが、あべ祭り・・・」
目の前に広がる光景は、異様なものだった。
皆が、「安倍」と書かれたワッペンやゼッケンを、どこかしら服に貼り、頭には奇妙な色のはちまきをしていた。
そして、全員にマジックペンが配られ、それでお互いのはちまきに「安倍」と書き合っている。
その雰囲気に気圧されながら歩いていくと、屋台が並び始めた。
その店々の看板には、「安倍焼き 100円」「安倍サイダー 350円」「安倍うちわ 150円」などと書かれていた。
「安倍踊り、始まるよ!」
気づくと、まだ小学生くらいの男の子が僕の服を引っ張っていた。
「ああ、わかったよ」
阿波踊り、ではなく?という言葉は飲み込んでおくことにする。
男の子は手をパッと離すと、やぐらへ走って行ってしまった。
僕が一歩足を踏み出そうとすると、後ろから、前から、横から、すごい数の人の渦に飲み込まれそうになった。
皆、やぐらへと向かっているようだ。
太鼓の音が聞こえてきた。
拍子木のような音もする。
「ああ~やぐら囲んで~おどりゃんせ、安倍踊り~」
誰かの年季の入った声が、そう唄い出す。
「安倍」
「カンッ」
「安倍」
「カンッ」
「安倍ぇ~え~」
「ドンッ」
そんな掛け合いが続いたと思ったら、急に音楽が止まり、あたりが静かになった。
「おい皆、誰か安倍ではない者がいる!」
誰かが大声で言った。
周りから、悲鳴が聞こえる。
「探せ!」
もはや祭りではなくなってしまった会場で、またもや人の渦に飲み込まれそうになる。
いや、もしかすると、これは僕のことを指しているのか。
そう気づいた僕は、急に怖くなって、何か逃げ道はないかとあたりを見回す。
だが、人混みに飲まれて、僕は転んでしまった。
一人目立った僕に、皆の視線が降り注ぐ。
「おい、こいつ・・」
ぎらついた目の視線に取り囲まれる。
僕は焦って、ただぎこちなく笑うことしかできなかった。
そんな時、誰かに、マジックで手に書かれる感触があった。
「調べろ!」
男の声で、皆は一斉に僕に飛びかかった。
「こいつ、はちまきしてないぞ、ワッペンも!」
皆は僕の服を身包みはごうと近づいてくる。
もう駄目かと目を瞑った時。
「ん?手に何か・・」
「安倍印だ!」
その声に目を開けると、僕の手をまじまじとみている男二人が目に入った。
「なあんだ、安倍じゃんか。勘違いしちまった。許してくれ」
男はそういうと、にかっと笑顔を見せて、行ってしまった。
他の者たちも、ほっとしたような表情を浮かべて、散らばっていく。
一人残された僕は、何が起こったのか理解できなかった。
ふと自分の手を見ると、そこには「安倍」という文字があった。
マジックで書かれたようなそれは、子供の文字に見えた。
はっと顔をあげると、人混みの中に、マジックペンを持った男の子の姿が見えた。
風が吹き抜ける。
次の瞬間、その男の子の姿は消えていた。
どことなく、さっき僕を踊りに誘った男の子に似ていた、と僕は思った。
「・・・この街は、不思議で変だけど、いい奴もいるんだな」
僕は少しだけ、この街が好きになった。