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しいちゃんって一体ナニモノなん? 幼少期編

【 はじめに 】

こんにちは🙌

株式会社ACTION-L
代表取締役
藤永 知弓 (ふじなが ちゆみ)
あだ名は
【 しいちゃん 】です_(:3」∠)_

このノートを見てくれているあなたは、きっと誰かに紹介されて見に来てくれたのでしょう。

そんな、このノートにたどり着いてくれたあなたに、私のことをもっと知ってもらいたくて、このノート書き綴ります。

暇な時にでも読み進めてね✊🏻 ̖́-‬

【 幼少期 】

私は1989年11月22日岩手県一関市(旧東磐井郡)で生まれました。
山に囲まれたものすごい田舎で、フィリピン系の顔をした純日本人の父と、スペイン系の顔をした純日本人の母の間にできた子供です。

私は少し変わった子供で、赤ちゃんの頃から可愛くないと言われていました。

私は保育器の中でも愛想が悪く、他の赤ちゃんが泣きじゃくっても影響されて泣くこともせず、むしろ「なんだこいつらは?うるせぇぞ」と言わんばかりの形相で周りを睨みつけるような赤ちゃんだったそうです。

また、生まれたそばから好き嫌いが激しく、哺乳瓶を口につけようとすると、ぺっ、ぺっと吐き出すような素振りを見せ、哺乳瓶では一切ミルクを飲もうとしませんでした。

赤ちゃんなのでオムツをするのが普通ですが、おむつが汚れる度に親をジロリと見つめ、怪訝そうな顔をして「ホラ、汚れたから変えてよ」と言っているような合図をするだけで、泣くことはありませんでした。

1歳になる頃にはペラペラと日本語を喋っており、食べ物は白い色の物しか食べないという変なこだわりをもったワガママ娘になりました。(今は改善されています)

そんな私は、1歳までお姫様のように育てられた後、父方の祖父母がいる兵庫県姫路市に引っ越すことになりました。

 【 悪魔の子・天使の子 】

兵庫県に引っ越した時、私には人生で初めての友達ができました。
隣の家に住む 【いよちゃん】です。

彼女は私よりも2ヶ月後に産まれた、同い年の女の子。

この時、私は悪魔の子と呼ばれており、いよちゃんは天使の子と呼ばれていました。

天使のいよちゃんは、いつも「あそぼー!」と誘いに来てくれ、玄関から外に出るときには靴を履かせてくれるような子いい子でした。

私がコケると、どこからともなく走ってきて、「しいちゃん大丈夫?」と言って私を立たせた後、靴を履かせて、服の汚れを払ってくれたりもしました。

私はいつも、いよちゃんが持っているものを横から欲しがり、そんな私に対して彼女は全く嫌がる素振りを見せず、快くおもちゃを私に貸し与えてくれるような子でした。

ある時、私が近所の花壇に咲いた綺麗な花をむしりとっている時、いよちゃんもそこにやってきました。

丁度その時、家の人がそれに気づいて怒って出てきたので、私はいよちゃんを置いて先に走って逃げました

取り残されたいよちゃんは、1人たいそう怒られたそうです。(何もしてないのに…)

そんなこんなで、いよちゃんと共に双子のように成長してきた私でしたが、4歳の頃に突然の別れがやってきます。

隣の街に引っ越すことになってしまったいよちゃんとの別れは、幼いながらも悲しく、辛い経験でした。

これは後日談なのですが、いよちゃんが引っ越した後、私といつも遊んでいたような遊び方をしていると、引っ越し先でとんでもない悪ガキがやってきた!悪魔の子と呼ばれるようになってしまったというのは、また別の話…

※天使の子【いよちゃん】は、その後異名の通り看護師になり、現在は素敵な旦那様と結婚して子供も産まれ、幸せに暮らしています。

【 波乱の小学生時代 】

ちょうどその頃から、母親の教育ママが発動し、私は習い事をさせられるようになりました。

手始めに、踊る方のバレエ、水泳、英会話に通わされます。

この時まだ3歳から5歳くらいだったと思います。

そこから私の習い事漬けの人生が始まりました。

小学生になる頃には、バレエと水泳をやめ、英会話、ピアノを習っていましたが、更にどんどん習い事が増えていき、

  • 英会話

  • ピアノ

  • 絵画

  • 茶道(時々華道も)

  • 料理教室

これらの教室に通っており、学校から帰ると毎日習い事に通い、曜日ごとに決まったスケジュールを送るようになっていました。

この時、学校では長い間同級生からいじめにあっており、嫌がらせや、物を捨てられたり、悪口を言われたりすることが多々ありました。

親に泣きついたこともありましたが、男兄弟に囲まれゴリラのように育った母からは「やられたら、やり返してこい!倍返しだ!」のような事を言われた上、家から追い出されるため、「やべぇ…もう言わないようにしよ」と思い、自分の中で解決するようになりました。

思い返せば当時は辛かったのかもしれませんが、だんだん思考が偏るようになり、「かわいそうな愚民たち。この子達は幸せじゃないから、こんな姑息なことしかできないのね。かわいそう。私とコイツらは生きている世界が違うんだ。こんな卑しい下々の民とは関わらないようにしよう」などという厨二思考やお姫様思考になることで、心の中で人を見下し、バカにするようになり、自分の精神を保つようになりました。

ただ、この頃から今に繋がる「引き寄せ」を無意識に習慣化しており、「この子達の誰よりも私は幸せになってやる!成功してやる!」と、いじめっ子達に対しての反骨精神を抱き、毎日学校の行き帰りや寝る前に「幸せな妄想をする」というのを自然とやるようになっていました。

この頃は、周りからも親からも「ブス」と言われていたのですが、自分だけは鏡を毎日見ながら「私は世界一かわいいんだ」と思うようになっており、周りが嫌がらせをしたり罵倒してくるたびに、それに反発するように「思い込みの力」悪く言えば「勘違い」が強くなるという、謎の特技を持っていました。

今思えば最強のポジティブ(勘違い)です。

そんな小学生時代、最強のポジティブ思考を持ちながらも一番つらかったのは、何よりも母親からの過剰な教育でした。

母は一人っ子の私に対して過剰に期待するところがあり、塾に通わせ始めた時から、順位や点数にこだわるようになりました。

その甲斐あって、小学生の頃塾で全国や県内の模試などが行われたときに、国語、英語、理科は全国でも1位争いができるくらいまで勉強ができるようになりました。

ただ、その順位が少しでも下がろうものなら、母親から数時間にわたる説教や、体罰、罵倒があったことを今でも思い出します。

そんな中でも自分は割と冷静で、「こんな無駄な時間を過ごさせるくらいなら、この時間使って勉強させた方が効率いいのに…この人要領悪いな」なんて考えるような、偏屈な子供でした。

そんな荒んだ小学生時代を送っていた私にも、たった1人だけ、信頼出来る友人がいました。

彼女は大人しいオタク女子でしたが、毎日学校帰りにAの家に寄り道しては、2人で漫画を書いたりアニメをみるのが日課で、これが私の唯一の楽しみでした。

思い返すと彼女のおかげで私は寂しくなく、彼女のおかげで乗り越えられたのかもしれません。

そんな、教室のすみでイジメに耐えながら、ひっそりとAと共にオタクライフを満喫していた小学生時代から、ある事件をきっかけにして、更に波乱の中学時代がスタートすることになります。

それはまた次のノートで…५✍🏻



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