人は誰でも、心の底から安心して、自分の話を聴いてもらえる機会を求めている
わたしの転機
人は誰でも、心の底から安心して、自分の話を聴いてもらえる機会を求めていると思います。なぜそう思うのか、少し私が経験したことをお聞きください。
自分の言葉で話すことへの恐怖心
2011年(30歳の頃)に新商品を企画する部署に移り、すごく打ちのめされました。周りの人が当たり前に使っている用語が分からないし、思考の方法も分からない。やり取りする相手も各部署の部長や海外現地法人の社長になり、威圧感がそれまでやり取りしていた人から半端なく上がり、「お前は何を言ってるのか訳わからん」など言われたりしていました。
自分に自信がなくて、自分の意見を言うのが恐かったです。
そこから論理的思考やマーケティングを勉強して、少しは自分の考えを話せるようになっていきました。少しずつ自信をつけていきました。
その後、メンタルダウンで3ヶ月ほど休職しましたが(この話はまだどこかで)、周りの方の支えがあって復帰でき、運良く新しい事業の立ち上げを経験することができました。
自分で判断し、決断し、実行し、形にしていくという経験をさせていただきました。これはすごく自信になりました。「オレもできるじゃん!」と思えるようになっていきました。
しかし、このときも自分の言葉で話せないことがありました。
「中村さんって論理的な話し方をしますよね」
そういうことをよく言われるんですが、そういう話し方しかできないんですね。客観的な言い方しかできないというか。ほめ言葉として言われてるんですが、コンプレックスでもありました。
「オレはこれをやりたいんだ!」って堂々と周りに話してる人を見ると、すごくうらやましかったです。自分の胸の内から出てくる想いを、自分の言葉で、堂々と言えるっていいなって。私はまったくできませんでした。
自分の胸の内にあるものって、本当の自分自身に近いものだから、それをさらけ出すのが恐かったんだと思います。論理的に考えたことを話す自信はついたけど、自分の想いを話す自信はなかったんですね。
「どうにか自分のことを変えたいな」「もっと自信を持ちたいな」って強く思ったのが2017年の12月。会社の忘年会があって、「中村の来年の抱負は?」って聞かれたんですが、すごく平々凡々なことしか答えられなかったんですね。自分がなんて答えたのか覚えていないのですが、「まじめやなぁ」と言われたのは覚えています。
「自分のやりたいことを自分の言葉で言うこともできないのか」「情けないなぁ」そんなことを思い、みじめな気持ちになりました。
“自分に自信をつけたい”
そう思って年末年始、調べていくうちに出会ったのが『コーチング』でした。『コーチング』が何なのかまったく知りませんでしたが、「これだ!」って感じました。即、学べるところを調べて、自分に合っていそうだと思ったコーチングのクラス【コーチ・エィ アカデミア】を申し込みました。
多額の投資でしたが、この決断をしてよかったと、当時も今も思います。
コーチングを学び始めたきっかけは、自分自身がコーチングスキルを身に着け、マネジメントやコミュニケーションに使いたいという動機からでした。話すより聞く方が好きだから、コーチングを学ぶと自分の強みを生かせるんじゃないかと思いました。
コーチングを学んだ成果は大きくて、部下との関わり方が変わったし、上司や他部門との調整で感じるストレスも極端に減りました。
しかし、最も私に肯定的なインパクトを与えたのは、『コーチングを受ける』体験でした。
私にとっては“おまけ”のような感じでついてた『コーチングを受ける』体験。これが私の人生を変える、重大な体験となりました。
はじめてのコーチング体験
「電話の音声のみで、1回30分を2週間に一度」
これが私が受けた、はじめてのコーチングでした。
コーチの顔は、Webページのプロフィール写真からの想像しかありません。音声環境のいいところで受けたいと思い、よく車の中から電話していました。夜だと外は暗くて、車の中は静かで、深夜のラジオ番組を部屋で一人静かに聞いたときのような、あたたかい気持ちになりました。
今でも印象に残っているコーチングセッションは、コーチングを受け始めて3回目か4回目のときです。「中村さんが本当にやりたいことってなんですか?」って聞いていただいたんですね。
その問いに対して、私は、ぼつぼつと言葉をつなぎながら、途中、長い沈黙もありながら、はじめてこの世界に自分のやりたいことを表明したんです。
この日も車の中から話していましたが、胸の周りを覆っている、すごく硬い甲羅を破って、言葉を出していった感覚を覚えています。
そのとき話した「やりたいこと」は、当時の仕事内容と全くつながりのないことだったので、奥さんにも仲の良い友人にも話せなかったし、自分ひとりで声に出すのもはばかられるような気持ちでした。
それをコーチに向かって、はじめて話したとき(口に出したとき)、世界は何も変わってないけど、自分の中に変化が起きたのを感じました。
はじめて自分の胸の内にあるものを外の世界に出したことで、他の場面でも自分の言葉で、自分の考えや想いを話せるようになっていきました。言葉は行動に影響を与え、自分の意志を持って動けるように変わっていきました。
「口に出す」という小さな「はじめの一歩」が、心を覆っていたバリアを外してくれたのかもしれません。そして、「はじめの一歩」を踏み出せたのは、「何を話しても大丈夫」というその場の安心感が背中を押してくれたと思っています。
その後の変化は、自己評価ながら目覚ましいものがありました。ストレスが強かった上司や苦手なタイプの人とのやり取りもそれほど負担に感じなくなり、行動も積極的になっていきました。
「最近、あなた変わったね。前はできない理由を言ってたのに、最近はなんでも軽く、いいんじゃないって言うようになったね」って親しい友人は言ってくれました。
コーチングの時間はたった30分でしたし、「本当にやりたいことって何ですか?」はその中の一言でしたが、その一言への答えを口にしたことが、その後の自分を変える転機になりました。
人生って、人との出会いでつくられていくと言いますが、もっと限定的にいうと「この人の、あの時の、この一言」でつくられていくんだと思います。
話を聴いてもらうことの意味
大人になるまでに身につけておくべき力は、たった2つしかない。
それは「自尊心」と「ソーシャルスキル」だ
これは多くの小児科医から尊敬を集める、あるベテラン小児科医の先生の言葉です。
「自尊心」とは、自分の得意なことや好きなこと、反対に苦手なことを適切に評価し、自分自身を認め、大切にできる力といえます。自尊心があることで、他の人のことも大切にできるようになると思います。
「ソーシャルスキル」とは、自分の好きなことや大切にしたいこと、また嫌なことや苦手なことを、わかってほしいと思う人に伝えることができる力といえます(それも相手のことを尊重しながら)。
どちらも一番土台にあるのは「できることもある、できないこともある自分自身を認め、受け入れられること」で、その一歩目になるのが、「本当にやりたいこと」を口に出してみることだと私は思います。
なんでも安心して話のできる環境があることで、まったく鎧をまとわない自分自信を世界に表現し、本当の自分と世界がつながり、自分の軸を作ってくれるのだと思います。そして、その軸ができると、人に振り回されたり、人が決めたものさしの中だけで自己表現することがなくなり、過去への後悔や不満、未来への心配がなくなり、今この瞬間に喜びを持って生きられるようになるんだと思います。
コーチングは目標達成を支援するための関わり合い、のような定義をされることがありますが、私の考えるコーチングは、目標はあってもいいし、なくてもいいと思っています。
今を輝かせる目標を持つことはとてもいいことだと思いますが、目標を持つことで今が苦しくなるのであれば、そんな目標は捨ててしまっていいと思います。今に喜びを感じ、今をより良く生きる。それが大切だと思います。
あなたの胸の中にある本当の想いを聴き、その想いをこの世に出す。そして、あなたが、あなたとあなたの周りにいる人を大切にし、愛していけるようになるよう関わる。それが、私のコーチングです。あなたの物語を聴かせてください。
プロフィール
誕生〜学生時代
1981年1月生まれ、大阪市出身。大阪市立大学に通い、1年浪人して入ってきた後輩と誕生日が1日違いで「山羊座のO型は根暗!笑」と言って歌っていました。
大阪の江戸堀という、難波にも梅田にも自転車でいけるところで育ちました。当時はそこしか知らなかったので当たり前と思っていましたが、今思うととんでもなく中心街ですね。小学校区に土佐堀川があったり、肥後橋がすぐ隣の学区だったり、住友倉庫があったり、江戸から明治にかけての賑わいを想起させる地名がたくさんあります。
今はオフィス街になったようですが、私が小学生の頃は下町風情が残ってて、同級生には酒屋、ネジ屋、寿司屋、畳屋など個人商店を営んでいるお家がたくさんありました。祖母や親戚3家族も同じ町内に住んでいて、魚屋をしている親戚がいたので、学校の帰りに七輪で焼いたフグを食べさせてもらったり、年末は数の子の箱詰めを手伝ったりしていました。
「学はつけとかなあかん」という親の考えで、中学受験をさせてもらい、私立の大阪明星学園の中学校・高等学校へ通わせていただきました。学費けっこう高かっただろうなって思います。明星高校は私より20歳ほど上の人にとっては野球の強い高校というイメージがあって、1963年に甲子園で優勝しています。「タッチ」という双子の上杉兄弟と南ちゃんの恋愛野球漫画がありますが、学校名が明青学園で明星高校がモデルになったのでは、と勝手に想像しています。
私は中学1年からソフトテニス部に入りました。中学に入ったのが1993年でJリーグ開幕年。日本中がサッカー熱一色になっていて、サッカー部に入る人が多かったですが、当時から主張の強そうな人がいそうなところに入るのに気が引けて、少し地味そうなソフトテニス部を選びました。
しかし、練習はめちゃくちゃ厳しくて、中学卒業を機に辞めようと思いましたが、辞めきる勇気がなく、高校卒業まで6年間つづけました。高校に入ってからは、年間365日ぐらい練習をする部活で、毎年1月1日の元旦に集まり、OBから現役生が練習をつけてもらう初打ちが伝統として残っています。
校舎建て替えの影響で、私が高校生の間は近くの公園にあるテニスコートを借りていたのですが、その公園の名前は「真田山公園」でした。あの「真田丸」で有名になった場所ですね。当時はまったく何も思わなかったのですが、戦国時代ファン垂涎の場所ですね。今、Google Mapを見て知ったのですが、明星学園の敷地と隣接したところに、真田丸跡がありますね。
なんとなく入り、辞める勇気がなく6年間続けたソフトテニス部ですが、「人生で最も純粋な光で、輝いていた時期だ」と振り返って思います。「白球にかける!」とか言いますが、純粋にボールを追って、練習していました。それまで明星ソフトテニス部をつくってこられた先輩方がいて、その伝統の上に自分たちが在籍している時間があり、決して自分たちの学年だけではつくれない環境の中で高校時代を過ごさせてもらえたと思っています。
18歳のとき、親が奈良市へ引っ越し、親元から通えるところと思って、大阪市立大学へ入学しました。大阪市立大学もけっこう入るのが難しいところなので、高校3年の部活引退後はけっこう勉強しました。
大学は工学部へ。しかし、まったく勉強についていけず、テストの度にその場しのぎで、ぎりぎり乗り切っていました。理数系の勉強が得意でもなければ、好きでもないのに、まだ社会に出たくないと思って大学院へ。ここでも親に多額の学費を負担していただきました。ありがとうございます。
工学系の研究室だったので、そこから行ける会社で、関西圏の会社へということで、ヤンマーに入社できました。これも運が良かったと思います。大学の1つ上の先輩がヤンマーに入社し、その方からの勧めでヤンマーを受けたのですが、「いいやつがいる」とうまく売り込んでいただいたんだと思います。一応、理系枠での採用でしたが、入社後聞くと「キャラ採用」という枠だったようです。
会社員時代 前半
「キャラ採用」という採用枠の通りなのか、入社一年目はトラクターの開発試験を行う部署に配属されましたが、二年目はアフターサービス用の補修部品をオペレーションする部署に移り、その後も、品質保証部やサービス営業部といった顧客対応の部署を経験します。
振り返ると、やる気の感じられない若手社員だったと思います。まじめではあるんですが、どこかイヤイヤ感、やらされ感を持ったまま仕事をしていました。イヤイヤ感が伝わったのだと思いますが、毎年のように少しずつ部署も変わりました。顧客対応という点では同じなのですが、仕事内容が変わるので専門性も身につかず、入社4年目ぐらいまで「自分って何も専門性が身についてないなぁ」と自信がありませんでした。
入社4年目にサービス営業部に配属されたのですが、ここでの仕事は田んぼに出かけたり、農業機械を実際に触ったり、新商品の技術的な特徴を人に説明したりが面白くて、ようやく自分から仕事に取りかかるようになりました。現場を肌で感じる仕事をしたかったんですね。事務所の中で情報だけで仕事をするのが苦手だったんですね。
大失敗もしました。
年に二度、全国の販売会社の幹部800名ほどが集まっての新商品発表会を開催するのですが、私は田植機の商品紹介を担当しました。2008年だったと思いますが、当時のヤンマー田植機は市場クレームの嵐で、販売会社からの非難の声もめっちゃ強かったんですね。そんな環境下で、私は少し笑いを入れた発表をしようとしたのですが、空気を読めていず、とてつもない反感を買うことになりました。当時の事業本部長(めっちゃ恐かった方です)から、めっちゃ怖い顔で叱責された映像がまだ頭に残っています…
「一生懸命やったのに、なんでこんな避難されなあかんねん」と思っていましたが、落ち着いて考えると「真剣にやる」という一本筋が通ったところがなかったんだと思います。良いところでもあり、悪いところでもある「まぁまぁ、どちらでもいいじゃん」という性格が、軟弱体質となって出てしまいました。
それにも関わらず、翌年も新商品発表を任せていただけました。翌年は6年振りぐらいのフルモデルチェンジで、市場クレームに泣いていた販売会社が待ちに待っていた田植機の紹介です。
これは超緊張しました。
「これを失敗したら絶対どこかに飛ばされる」夜、眼を閉じるとこの言葉が頻繁に頭の中を流れてきました。崖っぷちで臨みましたが、そうなると力がでるもの。開発の方、本社営業の方と一致団結して、「どうぞ、この田植機を販売してきてください!」という新商品発表ができました。大切なことは伝え手の熱量なんだと思います。この時は、本社も販売会社も一体となって、なんとか挽回する田植機を出すぞという熱量があり、そのほんの少しの部分が新商品発表の場に形として表れたんだと思います。
新商品発表後、前年に叱責をいただいた事業本部長から「今日の発表良かったよ」と笑顔で一言いただきました。めっちゃ怖かった顔と同様、この時の表情も記憶に残っています。二度目のチャンスを与えていただいたことに感謝です。
翌年も別シリーズのフルモデルチェンジ田植機を担当させていただき、こちらも高評価の新商品発表を行うことができました。
そして、花形部署の商品企画部へ異動します。
会社員時代 後半
(途中まで記載)
プロフィールをかっこよく書くと
大阪市立大学大学院 工学研究科 修士課程修了。
2005年ヤンマー入社。農業機械の商品開発・企画・ユーザーへの技術支援・ベトナム現地農業の研究・マーケティング拠点の開設など、理系脳をベースに、社内多部門の人や、社外の多数の人が関わるプロジェクトを担当。
2013年、メンタルダウンをきっかけに働き方をチェンジ。
2014年、障がいのある人の雇用を中心的に行うグループ会社を設立。機械から人相手の仕事にシフト。自身の人間関係で感じたストレスをなくしたいと思い、コーチングを学び始め、新規開設した滋賀・岡山の2拠点で、コーチング型マネジメントを導入。
2019年、同じような悩みを持つマネージャーや現場リーダーをサポートしたいと思い、コーチングサービス事業をスタート。
2021年、新型感染症の影響で人と人のつながりが断たれる環境を変えたいと思い、NPO法人こうのさとを設立。地域のみんなで農薬・化学肥料を使わず野菜を育て、同じ地域の妊婦さんにプレゼントすることで、新しい命の誕生を地域のみんなで祝福するまちづくりを行う。
妻・⻑女・⻑男の4人家族。
大切にしている価値観は、『感謝・貢献・家族・愛・受容』
私が持っている力を発揮するために必要なニーズは、『自由、自然、静寂、楽しむ、役に立つ』
ストレングス・ファインダーで現れた強みは、『最上思考・調和・共感性・成長促進・適応性』
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?