メンドクサイおじさんになってしまった僕とそれでもいいかとおもう僕の話。
昨日,先生ってメンドクサイおっさんだよね,と女子生徒から言われて,やれやれと応えつつも「なるほど」と思ったことがあったので書きます。
聞かれたことに対して,聞かれたことだけ応えるのか,本質的なところまでしっかりと伝えようと思うのかは,意見がわかれるところなのかなと思います。
聞かれたことだけ応えれば,メンドクサイことにはならないし,僕のようにいろいろ大切なことを伝えたいと思って,当人が今必要としていること以上に話をしようとしてしまうと,押しつけがましかったり,その関連性がわからなければ単に時間の無駄とか,説教みたいに感じたりしてしまうことはあるのかなぁと思います。
僕の場合は,そう考えながらも「言葉が足らなくて齟齬が起きるよりはマシじゃないかな」とどうしても思ってしまうので,結果,冗長でメンドクサイことになってしまうクセがあって,反省しきりです。
答えだけを教えることはそんな難しくないんです。
でも答えと解法を伝えるだけでは,カタチが変わるとまた質問することになるんです。
お腹を空かせた熊に魚を与えるのか,魚の釣り方を教えるのか,あるいは「魚以外の食べ物のこと」や「釣り以外の魚の捕り方」を自分で知る方法,探す方法,考える方法を教えるのか。
一方では,とりあえず魚が食べたい生徒もいることは知っています。
でもやっぱり魚を与えるのは嫌です。
双方にマイナスだと思うからです。
一度魚を与えてしまえば,次も魚が食べたいというでしょう。いつまでも魚を与え続けることはできませんし,その度に僕の大切な時間をその生徒ひとりにかけることは僕にとっても負担です。
そして生涯をそうして誰かに依存し続けることは,本人にとって最大の不利益だと考えています。
だから僕はそれでも魚を与えることはしたくないと思ってしまっています。メンドクサがられようが,説教ジイサンといわれよう(説教ジイサンとはまだ言われてないな)が,今この瞬間は必要としていなくても,今この瞬間,聞いてもまったく理解できず,響かないとしても,いつか急に頭の中の回路がリンクすることを知っているからです。
ただし言い方は気をつけなくちゃいけないので,あくまで提案どまりですね。こういうのもあるよとか,専門の先生がこんな風に言っているよとか,どうもこういうものらしいよとか,いうカンジで選択する余地は残しています。一方的に押しつけるのはタブーです。
ジリツこそが活きていくために必要なチカラだと思っています。それも可能な限り早くジリツすることが望ましいと思っていますが,さらにそれに優先される原則があります。
僕らは喉が渇いた馬を水飲み場まで連れて行くことはできても,水を飲ませることはやっぱりできません。
そこで水を飲むかどうかは本人の意志です。
…いやまぁそれで,
メンドクサイおっさんだと思うんなら,もう話しかけてこなければいいのに,推しがー,友だちがー,イケメンがー,アイプチがー,学校の先生がー,お母さんがー,って。
あーめんどくさ。
サポートいただけると燃えます。サポートしすぎると燃え尽きてしまうので,ほどほどにしてください。