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なぜ僕たちは学ぶのか。子どもたちに向けた,ひとりのオトナの考え。

はじめに

書きたいことを思うがままに書いていたら長くなってしまいました。もう少しコンパクトにまとめようとしばらく考えたのですが,せっかく書いたんだし…と思ったらもうかわいそうで削除できません。

短くまとめる技量がないのは痛感しております。先に謝っておきます。すみません。読んでくれる人がもしいたら本当に感謝です。

本稿の前半は,僕が運営しているコーチング型学習塾ミライデザインラボの公式ブログで数ヶ月前に書いた記事に,今回手を入れて再投稿するものです。

小学生にたずねられた
分数っていつ使うの?使うときなんてないんじゃないの?

という素朴な疑問にどう応えたものかと思案したあげく,そのとき出した一応の結論を綴ったものなのですが,いやホント子どもの質問ってド直球でごまかしきかなくて難しいなぁと感じたものです。

記事の後半は有料記事です。
もう少し広い範囲の学びについての話になっています。
『7つの習慣』や『アドラー心理学』に大きく影響を受けた僕の頭の中が,子どもたちの疑問難問に常にさらされているオトナのみなさんの参考になればいいなと思って書いたものです。

子どもたちが満足してくれるような,的をドンピシャで射貫いているような回答ではないかもしれません。あるいは,この応え方は誠実ではないと感じる方もいるかもしれません。

けれども,決して,わかりやすい実益が見つからないから煙に巻いておこうとか,あるいはオトナっぽさを表現するために斜め上から回答することにしたとか,そういういい加減(テクニカルな?)な気持ちで書いたものではありません。割と本気,いえ超本気で考えました。

なので,一生懸命おっさんが考えて書いたものだということと,こんなふうに考えるひともいるんだということを踏まえて,みなさんが子どもたちにどう応えるのかを考えるための参考にしてもらえたらうれしいです。

小学生に「分数っていつ使うの?」と聞かれたオトナが,どう応えるか考えた。

先日,子どもたちと小学生の算数をやっていたら「分数っていつ使うの?」という素朴な疑問を受けました。

小学生あるあるですが,案外コタエはありません。
実のところ分数の掛け算は実益があるのですが,分数の足し算って大人になると実利を見つけられないのです。

結論から言えば,僕はこういう問いについては,コーチングのような関わりでその問いのコタエを自分自身でなんとなく探してもらう方が良いと考えています。

その理由を少し丁寧に考えてみましょう。

■「分数っていつ使うの?」という問いは,どんな気持ちが姿を変えたものか。

子どもたちが疑問に感じるのも無理はありません。ちょっと普段の生活を思い起こしてみても,分数同士を厳密に足すことってないですよね?まして通分してまで足し算なんてしませんよね…。

たとえば「全体の30%のうちの25%」なんて計算は普段の生活の中でも,事務仕事としても必要です。また,確率統計は社会全体を見渡すためにも,厳密な確率統計学を学ばないとしても”感覚的”に必要ですから分数できたらいいですよね。

ただ,この時でも分数同士を足したり引いたりするのに通分するぐらいなら少数やパーセンテージで計算するか,あるいは感覚的な(アバウトな)理解でことは足ります。

1/3のピザと2/5のピザを合わせるといくつになるのか,なんてことを現実で考えるケースはないと思います。たぶん。
(ピザ屋さんならあるのか!?)

いやそれどころか実物ピザは正確に1/3にはできませんしね。

しかしながら,大人の考える実益を説明したところで,「分数いつ使うの?」という純朴な質問の本質に触れた感じはまったくありません。算数で言えば四則演算の必要性なら実質的な用途が見えやすく,わかりやすい説明もできるのでしょうが,質問の意義はたぶんそういうことじゃあないのだろうなぁと思うのです。

かと言って彼らに対して「コタエは君の中にある。君はそのコタエを探し続ける必要があるんだよ。」とか

「たとえば数学は世界の真理の一部だ。真理を探究し解き明かし,社会全体の発展,ひいては,ヒトという種の発展に寄与することが我々の使命だとすれば,現存する知見を学び,それを礎として新たな概念を創出するために考え続けなくてはいけないのだよ。」と言ったとしても,

それはすなわちなんにも説明していないのとほぼ同義です。

まぁそれもそのはずで,彼らが提示した問題の本質は実はこういうところにはなく,「分数っていつ使うの?」という質問が,真に何を問おうとしているのか?を突き止めることが本質にたどり着くために大事なことです。

(この考え方がメタ認知につながるわけで,コーチングやカウンセリングの屋台骨でもあります。)

たいていの場合,子どもたちが放つこの手の質問は,

我々オトナにとっては,問われた瞬間ほぼ自動的に

「分数の計算」は将来具体にどんな場面で,どんなふうに役に立つのか。特に想定される用途がない,すなわち役に立たないのであれば,なぜ小学生の今,これを習い,身に付けなくてはならないのか。

という意味の質問に脳内変換されてしまいますが

同時に,回答をつくるにあたってその裏目的として

なんとかこれを実利があるカタチで説明して,分数に前向きになってもらえるようにしなくては!

という考えが成立してしまいます。
(オトナの悲しい性というか,これとても親として子どものために何かできることはないだろうかという高尚な意識の表れでもありますが。)

なので,前提として「分数は大事」があって,それに疑いを持つことはないのですが,しかし具体に説明が難しい。

だからと言って「しなくていんじゃね?」と言ってしまっては親の立つ瀬がないというか,すすんでやらなくていいよと言いたくない,というちょっとよくわからないジレンマに陥るのです。

(正直言うと「やんなくていんじゃね?」は行きすぎとしても,「なんでだろうね。オトナになったらあんまり分数の足し算しないんだよね。」ぐらいに共感してあげるのはマストだと思っていますが。)

しかし,実際には彼らの問いはそもそも「我々はなぜ学ばなければならないのか」という哲学的な問いではなく,今この瞬間,目の前にある難問から逃れる理由を探していることの方が多いのではないでしょうか。

要するに彼らの問いは,将来「役に立つかどうか」をたずね,その具体例が出てこないことを期待している公算が高い!
つまり,

将来役に立つか?→ 使うタイミングがない? → じゃ役に立たない → なら勉強しなくてもよい →であればこの宿題やんなくていい!

というわかりやすい論理展開を期待しているのだろうと考えます。

けれども,将来役立たないから勉強しなくてもよい,ということになるのかどうかも本当のところよくわかりません。私にとっては役に立たないものが,みんなにとって役に立たないかどうかもわかりません。

一見すると役に立たないように見えるものが,本当に役に立っていないかどうかを決定づけることはとっても難しいのです。

■分数を勉強する理由を具体的に考えよう。

さて,そうは言っても子どもたちのためにも具体例をとりあえず正攻法で調べてみましょう。

教育基本法第2条第1号では,教育の目的として「幅広い知識と教養を身に付け,真理を求める態度を養」うことを規定し,学校教育法第30条第2項は,小学校教育の実施に当たって,「生涯にわたり学習する基盤が培われるよう,基礎的な知識及び技能を習得させるとともに,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくみ,主体的に学習に取り組む態度を養うことに,特に意を用いなければならない」と規定している。

学習指導要領解説‐総則編

平成29年度告示の学習指導要領を解説したものを参照してみました。
教育基本法では幅広い知識と教養及び真理を求める態度(とここには書いてませんが情操教育と心身の健康)で,学教法では基礎的な知識と技能の習得(こっちは従来の詰め込み型と同義とみていいと思います。つまりインプットですね)はもちろん,これらを活用して課題を解決する力(こっちがいわゆる生きる力であり,アウトプットを指します)の涵養を教育の目的としていると書いてあります。

よくわからないので,もうちょっと具体に「分数」に関する記述を探すと,学習指導要領には,目標として「分数の加法及び減法に関わる数学的活動を通して,次の事項を身に付けることができるよう指導する」みたいな書きぶりがされていて,分数計算ができるようになることの目的ではなくて,達成目標,ゴール設定として出現します。

教育基本法には,教育の目的が書いてあります。

(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法

難しくて曖昧で,ふわふわしていますね。
(そもそも法律ってこういうものなのです。こういう夢をどう具現化させるか,についてこれに属する下位法規やその他もろもろに落とし込んでいくのです。)

なので,まぁこれ子どもたちに説明しても,理解は得られないでしょうね(理解を得ようと思ってつくられたものでもないでしょうし)。

これらはすなわち国力をあげるために,ひとりひとりの水準を上げようというものなのでしょうから,その視点に立てば,国の力と自分という,簡単には結び付かないことが彼らひとりひとりには響かないのはあたりまえです。それどころかこの説明では僕のハートも1㎜も動きませんし。

同じ理屈で,自分が通う高校や中学が県で1位の成績をとれるようにみんなでがんばりましょう!とか,1位になるためにみんなで10点ずつ点数をあげよう!わかるひとは,わからないひとに教えてあげて全国1位を目指そう!みたいなことは個人には響きにくいです。
学校の評価と自分の評価は別物ですから。

これをやるには組織への従属感とか愛着とか,チームの一員であるという一体感みたいなものの醸成が先なので,まずはチームのみんなが力を合わせるための条件をそろえる必要があります。

そもそも彼らの疑問は「勉強したくない → やらなくてもいい理由探し」から派生していると直観するので,もっとわかりやすいストレートでリニアな理由を提示してやらなくてはなりません。

否応なく勉強に向かわざるを得ない理由です。

強制性はモチベーションとマイナス比例する原則に照らせば,学問の探求にワクワクドキドキするのがいちばん効果が高いところですが,できなかった分数計算があるときできるようになってすごく算数を勉強するのが楽しくなった!というような感想を持つ子どもは一握りです(一握りですが確実にいます)。

したがって,ドキドキワクワクしないまでもなんとなく腹落ちするような何かが必要なのですが…。

■分数を知ると,世界が広がる?

いったん具体例はあきらめて,ドキドキワクワクしそうな抽象的な理由も含めて考えてみましょう。

  • 大人になればわかる。

  • 将来の選択肢を増やすため。

  • ひとは元来,学ぶ生き物なのだ。

  • 社会や世界の真理を探究することは大切なことだ。

  • 新たな概念を創出するには,現在の知見を学ぶ必要がある。

  • 学びを通じて,社会を理解し,ひとを理解し,自己を理解する。

  • 思考力や表現力,豊かな創造性や芸術性を身につけるための基礎になる。

あるいは単純に「事務処理能力をあげるための基礎だよ」というのはどうでしょうか。
「将来,高等教育を受けるための基本だよ」とか,「ミライの選択肢を拡げるためにも基礎学力は重要なんだよ」とか。

まぁどれもややこしいうえに,抽象的か押しつけがましいか,とにかく響きません。
というか,子どもたちがこれで納得するなら,もうたぶん解決済みの問題になってますね。

「良い成績とりたいなら分数やれ。」

は,良い成績とりたくないならやらなくて良いことになりますし,

「中学や高校へ進学することを考えれば分数やんなくちゃいけない。」

は,高校進学しなければもうやらなくて良い。ことになります。

事務処理能力あげるための基礎とか,選択肢を拡げるというのは,たぶんそのとおりなのでしょうけれど,「だからどうなの?」感がひどくて子どもたちが「そっかー」となるはずもありません。

そもそも将来のことを見据えて,今,学びチカラを蓄えよう!と思える子どもたちは,分数にそんな否定的でなくてそれなりにやっちゃえますし,やっちゃいます。

蛇足のオトナ向けコラム
目の前の利よりも,その後のもっと大きな利益を優先させられる子どもは,そうでない子どもたちよりも学力が高く,人間関係を良好に保つことができる,という実験結果もあります。

これは70年代のスタンフォード大学の心理学実験で,大人が4歳の子どもの前にマシュマロを置き「食べてもよいけど,私が戻ってくるまでの15分の間食べるのを我慢してたら,マシュマロをもうひとつあげるよ。私がいない間にそれを食べたらふたつ目はなしだよ。」と言って部屋を出ていく,という実験がありました。
15分我慢すれば,マシュマロは2つ食べられるけれど,我慢できずすぐに食べてしまえばひとつだけ,というちょっと考えれば15分我慢した方がいいよねとわかる一方で,今この瞬間食べたいと思う気持ちとどっちが重要か?みたいな実験です。

そして約20年後にこの実験の追跡調査が行われました。マシュマロを食べなかった子どもたちのグループは,食べたグループに比べて学力が高く,周囲からより優秀と評価され,人間関係も良好だったそうです。2011年にはさらに追跡調査が行われ,この傾向が生涯ずっと後まで継続していることが明らかにされています。

これに照らせば,小さい頃から今この瞬間の短期的な利よりも,中長期的に物事を見通して期待値が高い行動をおこせる子どもの方が,学力や人間関係を良好に構築する能力に長けており,望ましい結果を手に入れられる確率が高まることがわかります。

今この瞬間に,ちょっとめんどくさいけどがんばって勉強できる子と,とりあえず遊んでしまう子との差もこれと同じかもしれないですね。

これはもしや「得手不得手」とか「適材適所」とかと似ていて,分数なんでやんなくちゃいけないの?と思う子どもたちには,もういっそ「やんなくていい!」と言ってあげたほうが良いような気もします。

もしも将来困るなら,困ったときに学び直せば良いのですし,そのときにもしも手遅れなら本人の自己責任には違いないですから。自分の人生に責任を持てることを前提に「分数放棄説」はアリかもしれません。

まぁいずれにしても学校での分数放棄は難しいでしょうから,本人が放棄したとしても完全にゼロにはできませんしね(いや放棄はダメだろ)。

■学歴形成のため

将来就きたい職業という観点で考えると,条件として学歴が求められるものはあります。

医師などはその代表で,医師国家試験を受けるためには日本の大学の医学部医学科を卒業することが第1条件であり(外国の医学課程修了者には別のルートがあります),その医学部に入る条件として入試科目(国語数学理科社会英語)を水準以上の成績をとる必要がある以上,分数を避けて通ることはできません。

あと算数の先生になるには分数マストです。
(”先生”になるだけなら案外マストじゃないかもです。)

また,高等数学でなくとも,中学校や高校までの教育課程で数学をとるには分数の計算はもちろん必須ですし,なにかしらコンピュータやプログラミングに関わるとすれば数学はこれまた避けられません。分野としてはAIや統計解析,画像処理など,ある程度限られますがそうでないとしてもまったく数学要素ゼロというわけにはいきません。

でもやっぱりこういうことじゃないんでしょうね。

いずれにしても,子どもたちが求めているのは,分数の真の有用性は何か?のコタエではなく,何かしら「やらなくて済む方法を探す」という論理である以上,それを外から変えることは難しいということになります。

子どもに限らず,一定の回答を自分で持っていて,それを確認するために他者へ問うとき(とりわけこの場合は,分数なんて無駄と思っている子どもたちが,分数を解かせようとするオトナに対して),いかなる助言や回答も,そもそも受け入れるための受容体ができていないことが多く,すでに「分数=無駄」と完結(≒思考停止)してしまっている可能性が高いです。

みなさんにも心当たりがあると思います。

誰かに何か自分の価値観が脅かされているとき,その価値観がまちがっていないことを確かめたくて,他の誰かに相談したとします。

そのとき,相談を受けたご友人たちが「いやそれは君が間違っているよ。」といって,いかに論理的で合理的な説明や助言をくれたとしても簡単には受け入れがたいということありますよね。

それどころか,あえて自分の理屈が正しいと帰結するような理由をあちらこちらでこさえて,なんとか論理的に自分の思ったとおりの結論に落ちるように筋道を立てていったりしませんか。

そうです。
ひとは,見たい物しか見えませんし,聞きたいことしか聞けないようにできているのです。

だからこそ,コーチングのような関わりがここでは大事なのだと僕は考えています。

彼らの内側への問いで,彼ら自身に自分の考えを内観してもらいます。他者からの回答でなく,自身による回答,回答とまでは言えなくても思考するプロセスを自分で吟味できるなら,これは他者からの回答よりもずっと飲み込みやすく,受容しやすいものなのです。

したがって,この問題に対して,子どもたちにどう応えるのかと考えるのであれば,ストレートになにかしらの回答を示すよりも,コーチング的に自分で考えることを誘導してあげるのが最も効果があがる方法ではないかと考えています。

■結論,コーチングで導こう。

で,結論。
コーチング的な対話を念頭に置くとこんな感じになります。

生徒「分数っていつ使うの?使いときないよね。」
コーチ「分数って使い道なくね?って感じてるんだね。」
生徒「今まで使ったことないし,使いそうにないから。」
コーチ「あーなるほど。普段の生活で使いそうにないよね。」
生徒「使わないならやらなくてもいいんじゃないの。」
コーチ「そっかー。分数やりたくないんだね。やらないとどうなるのかな。」
生徒「……。テストで0点になる。」
コーチ「ああ。確かに。テストでわかんなくて困るね。他には?」
生徒「……。宿題ができない。」
コーチ「おお,そうだね。それはそうだね。宿題できなくて,テストも0点になっちゃうかもしれないね。じゃぁ分数を勉強した君はどんなことができると思う?」
生徒「……。算数が得意になるかも。」
コーチ「そっか。算数得意になるんだ。そのことをどう感じる?」
生徒「うーん。算数好きだからもっと得意になったらうれしい。」
コーチ「おお!算数好きで,算数超得意になって,算数チャンピオンになったらかっこいいよね!」
生徒「うん!かっこいい!!」

実際の対話ではこうもうまくはすすまないでしょうけれど。
大事なことは,彼らに考えてもらうことなので,君はどう考えるのか?と聞いてあげれば十分です。

質問には直接答えていませんし,論旨をズラして誤魔化している,すなわち誠実でないようにも感じるかもしれませんが,もともと本質的に正しい解答を求めているものではないと思うので,小学生の段階ではこれでよいと僕は考えています。

分数なんて必要なさそうだからやりたくない。

という固定化した想いを

もうちょっと複雑でフワフワしていて,明確に何かはよくわからないけれど,でもやらないと当面困るよね。やりたくないけど,やったほうがいいのかな?やらなくってもいいんじゃないかな。
まぁでも宿題だしもうちょっとだけやってやるかー。

みたいなふうにモヤモヤ考えて続けて,「僕は無駄だって思うけれど,僕だけが正しいわけではないから試しにやってみたらいいかも」とか「わかんないんだけど,わかんないからこそ,とりあえずやってみたらわかるかも」ということに気が付いてもらえればよいのかなと思っています。

いつもコタエはわかりやすいところに,わかりやすく期待したとおりに落ちているとは限りません。

明快なコタエがなくとも,納得できない想いを心のどこかに留保しつつ,でも当面は目の前の問題に取り組むことで,ジレンマを上手にやりくりするスキル(こういうのをネガティブケイパビリティといいます)が身に付くかもしれないですね。

学びについて考えること

さて,それではいったん分数の話(お子さんに対してどのように対応するのか)は結論したとして,いよいよ本題とも言える「なぜ僕たちは学ぶのか。」という話を考えてみたいと思います。

■注意

後半は勇気を出して有料記事です。
長いので無料でも読んでもらえないかも…と思っていたんですが,どうせ読んでもらえないなら試しに有料にしてみようと思ってしまいました。

本記事は子どもたち(対象は中学生から高校生ぐらいのつもりです。小学生には難しいかもです。)に向けて話をしているつもりで書いたものなので,お子さんに読んでもらってください。あるいは,お子さんになったつもりで読んで下さい。

コーチング的な対応がいちばんいいかなーと思う反面,正攻法的にこういう話をしてみたら,子どもたちはどう反応するんだろうかという興味もあるので,子どもたちに向けて話をしている体で書いてみました。

なので,本稿の結論は最後になってしまいますが,長いわりに大した結論じゃねぁな感満載で残念な気持ちにさせてしまうのは申し訳ないですし,結論から先に言えと昔上司に散々言われたクチですので,フェア精神とセオリーに則ってここで簡単に言っておきますと,後半部分は

・学力,能力の向上や学歴形成のため,現実場面で使う機会があり実利がある,といったわかりやすい理由は表面的,技術的であり,言わば個性主義(『7つの習慣』/スティーブン・R・コヴィー)的な側面である。こういった回答についてはすでにインターネットで多くのひとが考察してくださっているとおりであり,容易に調べられるためここでは深く言及しない。
・この問いは,先に「分数」のくだりで記述したとおり,学校の勉強すなわち「子どもたちがやりたくない狭義の”学び”」に関することであって,これに対して何らか「教訓」めいたことを与えても,子どもたちにとっては「自身を否定」されているように感じ,反応的な対応しか得られない。したがってこの論考では狭義の学びを拒絶する考えを受容したうえで,教訓めいたなにかではあるが,もう少し広い意味で,自分,家族,ひいては人類社会の役に立つためという結論を導く。
・その一例たる”個がコミュニティに対して,ここに居ても良いのだと思えるために必要な「貢献感」を満たす条件”を考察し,具体な実行可能タスクの一つとして,いわゆる「学習」を挙げている。これをもって結語とする。
・また,学びは生きている限りほとんどオートマチックに行われている。学びの質は教える者,育てる者の方針によって大きく異なるが,多かれ少なかれ行動,経験の中で自動的に学びは起こる。もちろん義務教育の中で狭義の学びも網羅されていることを含め,好むと好まざるとにかかわらず学んでいる事実を改めて提示する。

という感じです。抽象性が低いとは言えず,具体的な「何か」を即答できるオプションとして持っておきたいという方には向かない結論になっています。
(実利が目の前に転がっているとは限らないのが現実ですからね。だったら努力なんて止めちゃおうかというのは,いかにも目の前のマシュマロに手を伸ばすこととほとんど同義なのです。)

子どもたちは,自身が社会に直結しており,その役に立つということを,果たしてどう受け止めるのか,未成熟ゆえ,社会との接点を意識することは難しい,あるいは叶わない可能性が高いと思いますが,オトナは絶えずそのことを子どもたちに意識させ,成長とともに理解を深めていってくれることを温かく見守っていただきたいと思っています。

念のため,あくまで一般的なひとりのオトナの結論なので,学術的な価値はありませんし,子どもたちが読んで「なるほどー」と思うかどうかはわかりません。

むしろ「分数の話」に照らせば,きっと納得なんてしないと思います。

しかしながら,それでもなお僕たちオトナは子どもたちに対してだけではなくて,僕ら自身に対しても「なぜ学ぶのか。」という大事な問いについて何かしらのコタエを出しておいてやった方がいいと思うのです。

もちろん「僕はこう思うけれど,それが正解かどうかはわからない」というスタンスが必要だと思います。

漠然とやった方が良いだろうなということはみんなわかっているので,それを腹落ちさせるためにいろんな考え方を知ってもらって,自分の考えをまとめる一助にしてもらえればいいなというスタンスです。

僕たちオトナにとってもこういうことを考えることはプラスになるでしょう。

子どもたちからの問いはある日突然やってきますし,そのときになって始めて考え始めるよりも,日頃から「なんで勉強しなくちゃいけないんだろうなぁ」と考えておく方が,コタエが出ないとしても,なんとなくその考察過程は伝えてあげられる方が良いような気がしませんか。

なので
子どもたちが読んでくれる場合には,これから「なぜ学ばなくてはいけないか」を自分自身で考えていくにあたって,こんな考え方のひともいるんだ,そんなふうに考えればいいんだ,なんて興味を感じてくれたらうれしいです。

オトナのみなさんには,それぞれの考えと照らし合わせながら読んでもらって引き出しの一つとして「へーそんなふうに考えるんだねー」ぐらいに感じてもらえれば最高です。


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