ひとは基本的に自由だと考えています。
自由って,でもルールとか義務とか,そういうものと引き換えのもののようによく言われるのですが,そんなことはなくて,本当にそのままの意味で自由なのだと考えています。
ルールに従うのも,義務を果たすのも,自由。
しかし責任は違います。
自由は唯一責任のうえになりたつのだと考えています。
いえ,責任は意識しても,しなくても
従わなくてはならない自然の結末だと思います。
責任とりたくなくて責任転嫁をしたとしても
その責任から逃げ続けようとしたとしても
否応なく責任はのしかかります。
受け入れるか,受け入れないか,の違いはありますが
いずれにしても責任は自由の対価として
すべてのひとに与えられるものです。
しかし必ずしも罰とイコールではありません。
悪いことしたら罰を受けるのは論理的な結末ですが,刑法によって裁かれるとか先生に拳骨を喰らうとかそういうのは本質的な義務でも,自然の結末でもなくて,これらを避ける方法はたくさんあるでしょう。
ルールを破ったのなら
その結果科せられる罰は受けてもらったほうが良いと思いますが,そうでなくてはならない,ということはないという意味です。罰から逃れることにどれほどの意義があるのかはわかりませんが,力の限り逃げるという選択肢があることは否定できません。
逃げるもまた自由です。
しかし自由だからといって全ての法則から逃れることはできません。
逃れることのできない宇宙の法則。それが原則です。
僕らは行動を選択できますが,その結果は原則によるのです。
泥棒を働いたのなら,しっかりと捕まってしっかりと罪を償って欲しいと思いますし,ルールに従って罰を受けることが論理的な結末ですから,たとえそうしないことを選ぶこともできたとしても選んで欲しくないとは思います。罰を受けることを避けた結果もっと強い罰があるかもしれませんし,避けることにかけるエネルギーは相当なものだと思います。
なにより罪を償うチャンスを棒に振るのは未来を捨てていることとほとんど同義だと思うのです。
少なくとも人生をかけてすることではないと思います。
そして,自分を偽ることはそれ自体が悪い結果を生みます。罰から逃げ続けることでいろんなものを失うでしょう。悪いことをすれば,信頼を失い,自分への自信も失い,友人や家族を失い,幸せを見失うでしょう。
これは原理原則に従うもので,それを人間が覆すことはできません。
悪いことしたら,悪い結果を招くのは当たり前です。
警察に捕まって,牢屋に閉じ込められることを言っているのではなく,人生において悪い結果を生むという意味です。
そんないろいろを考えてとる自分の行動。
どんな行動をとってもそれは自由です。誰に言われるでもなく,あらゆる行動をとることができるでしょう。その自由は責任を伴うものですから,いかにして責任をとるのか,あるいは目を背けて受け入れることを拒否するのか。
時にひとはその自由を手放します。
自由を手放し,誰かの脚本を生きようとします。
その方が楽だからです。
考えずにすむからです。
責任をとらずに済むと考えるからです。
上司の指示でやりました。
お母さんがやれと言ったので。
私は反対だったのですが,友だちがやろうと言うので。
けれども責任からは逃れられません。
逃れられると思うのは錯覚です。
何かの責任にしたいと願ったとしても,その選択をしたのは他ならぬ自分です。たとえどのような状況だったとしても,いかなる選択肢も自由に選択することができたはずですから,自分が選んだのだと考えることは,とても辛いことや苦しいことはあるでしょうけれど,やはり選択したと考えるべきでしょう。
主体的でありたいと願うなら。
主体的である,ということはすなわち自身の大切な価値観や原則に照らして選択をすることです。
自分の自由と責任を自覚し,あらゆる選択肢の中から良心(原則や大切な価値観)に従って決断する。そしてその決断を強い意志をもって実行する。
主体性をもって人生をおくることができたら,それはまさしく「自分の人生」に他ならないでしょう。
そういう人生にしたいですね。
サポートいただけると燃えます。サポートしすぎると燃え尽きてしまうので,ほどほどにしてください。