Breath story 5
「なんかやっぱりこのマンションやだ・・・」
「何かあったの?」
違うけど、違うくもない、なんて娘の実有は呟いた。
ここは、職場からも近くて立地もいいのに破格だった。
事故物件じゃないかと思うくらい、低所得の私たちにでも賃貸として入居できるくらいだった。女の子一人育てるにはある程度のセキュリティも必要だったし、即決した。実際住んでみてわかったことは、暮らしに余裕のある人たち、いわゆる富裕層に当たる人が多いこと、1LDKと言っても十分に広いので二人で住んでいるのは私たち家族くらいだ。
「何か嫌なこととかあったらちゃんと教えてね、ほら物騒なとこには住みたくないし、それにこんなご時世だし」
高校生になる実有は多感な時期だ。恐らく原因はあの人だろうと思う。周りが芸能人だと騒ぎ立てるなか、本人も少なからず興味がないわけではない。だけれど実際にそういう人が近くにいるとなるとあまり気持ちが穏やかにはならないのかもしれない。私に接触があった、ということも原因の一つ、だろう。
「ママはずっと私のそばにいてくれるよね?」
女で一つでというと格好はいいけれども、毎日が必死で本当に大変な日々だ。だけれど、娘という存在が私の頑張りに繋がることも事実。この子を一人にするつもりなど毛頭ない。いつか私の元を幸せに巣立つその時まで、全身全霊で守ると決めたのだから。
「ずっと一緒だよ」
よかった、とホッとした表情を見せてくれた。そしておかしなことに、あの芸能人とどうにかなるんじゃないかというものだから、笑えてしまった。あんなに歳の離れた人、息子でもおかしくないじゃない、と自虐気味なことをいう自分にも笑えた。
✴︎✴︎✴︎
で、どうすっかなぁ、なんてボタンをそのままポケットに仕舞い込んだ。
本人に返す、これはもっともなこと。
だけれど、そっとしておいてください、という言葉が引っかかったままだった。
いつかの仕事帰りに、行き交う人がマスクで表情が全くわかんないな、あ、僕もだなんて思いながら大通りの車の音が少しうるさい道へでた。
お洒落なカフェが並んでいても、人は少なく、距離を保ちながら外を楽しむことがまだ気軽にできないということだ。
そんな中、向かい合わせで座る姿を見つけた。
あ・・・・
俯きっぱなしで、相手の目をあわせない、異質な感じ。
スーツ姿の向かいの男性は遠くからしかわからなかった。
あの人だ、と確信して少しずつその場所と僕の位置が近くなる。
手に握られたハンカチは、膝の上でギュッと潰されるくらい力が入っていて、向かいの男性は表情を変えることなく何かを話している。遠くからでもわかるくらい二人が対等に話しているなんて言えない。
とっさに、カフェの外窓をノックして、頭を下げた。
マスク越しだったけれど、僕をみて、ハッとし、また正面を見た。
つまり、僕が立ち入ってはいけない領域だと。
軽く会釈して、人違いだったかな的な小芝居を売りその場を立ち去ろうとすると男性が近寄ってきて僕に放った言葉は辛辣だった。
"キミ、誰?何、こんな若い男ひっかけたわけ?通りで住んでる場所とか言わないわけだ。へぇ”
舐め回すように僕をみて、放たれた言葉にカチンときたけれど、ここで何かをいうことは得策ではないと思って、あ、すみません、人違いでした、ちょっと似てたもんですから、なんて。
”人違い?”
「はい、すみませんでした」
”本当に?”
「えっと、このカフェ、って、ここですよね?この近くで親戚と待ち合わせしてて・・・」
スマホを取り出して位置確認を装って見せた。
なんだ、と言い男は立ち去り、あの人を置き去りにして店をでた。
間も無くして、あの人も席を立ち、僕を見ることもせずに慌てて外に出た。
その後ろを、同じ処に帰るのだから離れて歩く。
背中から、話しかけないで、というサインが見えた。
だから絶対に話しかけないでいようと思いながら、ただ無事に家までたどり着けるようにと見守った。
あと数歩のところで、立ち止まり、肩を震わせて。
泣いている・・・
僕は彼女を追い越すように歩き、すれ違い様に呟いた。
「泣いていいんだと思います」
と。
そこに置き去りにすることがとても心苦しかった。
特別な夏はもう終わろうとしていた。