産qレース 第七話
泣いている信子をどうするか…
やすこは、一旦見て見ぬふりをして、仕事をしようと自分の席に着くが、信子はずっとしくしく泣いている声が聞こえ、気になって仕事が手につかない。
『面倒くさいが、仕方ない。』とやすこは自分自身を鼓舞して、再び席を立ち、信子の隣の席に移った。
「何かあったの?」とやすこが尋ねると、信子は声を上げて泣き始めた。
リハビリ室まで響き渡りそうな勢いのため、「一旦、場所を変えよう」と信子をなだめながら、立ち上がらせて、人目のない院庭のベンチへ誘導した。
『まるで、自分が何かした感じになっちゃった。みんな、みてたよなぁ、、』
ベンチへ信子を座らせてから、やすこは売店で気分転換できるよう、アイスを購入してきた。
やすこが戻ってくると、泣き腫らした信子が呆けながら、さっきと同じようにベンチに座っていた。アイスを渡すと、「ありがとうございます」と信子はお礼をいい、食べながら話すことにした。
信子によると、以前も担当して、車いすに乗り移る際に、転倒させた患者さんを再び転倒させてしまったとのことだった。その上、ベッドの端に頭をぶつけてしまい、検査の結果待ちをしていた。
「患者さんから、『この下手くそ、もう二度とさわるな』と怒鳴られたんです。」と声を詰まらせながら、信子は話した。
最新の車椅子であれば、移乗は介助量も少ないかもしれないが、病院の機材は古いものが多い。また日本人の標準体型を基本としており、それから外れてしまうような身長や大柄の人には合わない場合がある。新しい病院であっても、機材は古いままであったり、多機能や最新の機材はより重症者にあてられる。また、介護保険でのレンタル品は入院中は自費でのレンタルに切り替わる事が多いため、自費購入している患者さん以外は病院の合わないものを使わざるおえないのが現状だ。
背が小柄で下半身の体重が重い方は、足が浮いてしまい、筋力も弱いことも多いため、全体重を持ち上げる状態になり、介助者側の支えが不十分だと転倒につながりやすい。
その患者さんは、やすこも何度か担当したことがある。小柄の女性ながら、下半身が太っており、移乗にコツがいるタイプではある。その上、運動性失語症があり、ほとんど話せなかったはずだ。かなり怒っていたようだ。
「メインの担当は斎藤さんだったよね?なにか申し送りされた?」とやすこは優しく尋ねた。
「いいえ、なにも。斎藤さんは、いつも申し送りとかないですし、どうも聞きにくい雰囲気で、ほとんどはなしかけられなくて。」
斎藤帰蝶は、やすこより一年下の入職で、中堅のスタッフだ。仕事はきっちりするし、患者さんと上司への対応は良好なものの、後輩や他部門への対応では評判がいまいちだ。本人は、人見知りと話していたが、どうもSNSでは充実したプライベートをアップしているらしく、趣味の卓球はプロ並みで大会にも出て、職場では見たことのない笑顔の写真を載せているらしい。しかし、やすこにとってはどうでもいいことで全く興味はない。
「ひとまず、スタッフルームに戻ったら、患者さんの状態を確認してみよう。そして、平家さんに今後の対応を聞いてみて。たぶん、事故報告書を書くことになると思うよ。あと、転倒させてしまった患者さんは、もう担当しないほうがいいから、それも平家さんと斎藤さんにお願いしましょう。あとは、明智さんも練習が必要だから、若手のスタッフと一緒に空き時間を見つけて特訓しましょう。できるだけ付き合うよ。」とやすこは伝えた。
信子は、目を潤ませながら、「今川さんは、本当に尊敬できる、素敵な先輩です。本当にありがとうございます。」とやすこの手を握った。
やすこは、こんなことを言われるのも、こんな風に手を握られて感謝されるのも、女性にどきどきしたのも初めての経験だった。そして、改めて美人は得だと、実感した。