「感情的になっている人の話は信用できない」と言う思い込み
私は今日、トーン・ポリシングという言葉を知った。
トーン・ポリシング (英語: tone policing) とは、発生論の誤謬に基づいて人身攻撃を行ったり議論を拒否したりする行為である。発言の内容ではなく、それが発せられた口調や論調を非難することによって、発言の妥当性を損なう目的で行われる。
例えば、感情を表面に出して何かを訴えている人に対して、「冷静に話してくれないと話にならない」などと言い、話し合いを拒否するのがこれにあたる。感情的になった人を見ると「ヒステリー」と切り捨て、話を聞く気にもならないと思ってしまう人は少なくないのではないだろうか。実際私もこの言葉を知るまで、感情的になっては話し合うことはできないと思っていた。知らぬ間に私もトーン・ポリシングを行っていたことになる。
事実私自身も、泣いたり怒ったり、感情的になりながら主張をしてしまうことがよくある。言いたことの主旨がどうしても伝わらない時、そうなる。
でも私は、経験的に冷静に話さないと相手は話を聞いてくれないと思っている。「泣けばいいと思ってるんでしょ」と言われて悔しい思いをした時も、原因は私にあるから仕方ないと思った。
つまり私の根底には、「感情的になっている人の話は信用できない」と言う考え方があると言うことになるだろう。
だからこそこの言葉を知って衝撃だった。論点のすり替え手段として使われていると言う発想に思い至っていなかったからだ。
今考えてみれば、確かに少し理不尽に思う。怒ったり泣いたりしているからと言って、発言自体を否定するのはお門違いじゃないだろうか。例えば、自分の子供が危険な目に遭ってしまったら、冷静にはいられないだろう。取り乱してしまうかもしれない。だからと言って発言が間違っているとか、論理的ではないとか、そうやって切り捨ててしまえるものではない。
泣けば許してもらえると思って戦略的に感情的な自分を装っている人もいるのだろう。でも、主張したいことを伝える時、どうしても感情的になってしまうこともあるはずだ。
まず、相手が何に悲しんだり、怒ったりしているのか、考えたいと思った。それなしに「冷静に話さないと聞いてもらえないですよ」と言う態度を取るのは、思考停止していることと同義だと思う。思考停止どころか、何も考えていないと言えるかもしれない。
今日、トーン・ポリシングと言う言葉を知ったことで、また一つ固定観念が溶けた気がした。
「これはこう言うものだ」と思い込んでいるけど、よく考えてみたら理不尽なこと。まだまだたくさんあるのだと思う。もう少し柔軟な感性で、日々を過ごしていけたらと思う。