感謝への違和感 前編
ここ最近Daydream theater はお休みしていた。
というのもここ最近はずっとこの記事の執筆にかかっていたからである。
さて,昨日褒められてテンションの上がったキノコはリアルの世界で何をしていたかというといつも通り仕事をしていた。淡々と特に大きく心を動かすことなく仕事をしていた。新たな発見もあったがほんの些細なことである。
最近思うこと
大学にいるあたりからだろうか。「感謝すること」への違和感が出てくるようになった。
ビジネスを極めている人,スポーツや芸術を極めている一流の方々も口をそろえて言いうことは「周りの人への感謝を忘れないこと」である。
たしかに仕事も芸術の余暇活動も他者の支えや仕事がなければ生まれなかったものが多い。あるいは自分の代わりに必要なものを生み出す人間がいなければできない仕事だって山のようにある。この文章だってパソコンと携帯を作ってくれた人,売ってくれた人がいなければ書けなかったのだ。
しかし感謝という言葉に対し,どうしてもぬぐい切れないもやもやしたものを感じてしまうのだ。
感謝することは大切である。大事にしたいのだ。だからこそ,今日はその言葉に刃を立てることにしたのである。
この言葉を聞いてさぞかしけしからんと思う人もいるだろう。自分も思った。随分とけしからんことを考えている,これでは立派な社会人 にはとてもなれないだろうなと。しかしtwitterでキノコとして生活している自分にも言い分というものはある。何たる不届きものだと憤るのはキノコの言い分を聞いてからでも遅くないだろう。
まず,感謝という言葉に対するもやもやを洗い出してみたところ,出てきたのは以下のものに焦点を絞って話していきたい。
1) 社会的動物ゆえの強迫概念
そもそも生物学的にヒトは社会的動物として位置づけられている。つまり個体一つでは生きていけない動物ということである。また,道徳や社会の時間でも聞いた方は多いと思うが,人と人は助け合って生きていくというのが通説である。
実際,人の出産は出産介助者がつくことが特徴とされている文献も存在する。また古代から他者の死に目に埋葬をする慣習もヒトは進化の過程で生み出された。生まれる際も死ぬ間際も一人ではいられないという説もある。
ただこれは果たして本当なのだろうか。自分はまずここに疑問を感じているのである。
確かに生まれる際も両親がいなければそもそも存在すらしなかったというのは否定できない。しかし,そうして得た自分の体は紛れもなく自分だけのものである。もし四六時中誰かと一緒にいないとヒトが生きていけないのであればどうしてそれぞれが個体をもって生活するようになったのか。どうして離れたり近づいたりしながら関係性を作り,生命や社会の営みをするようになったのか。この答えを探るのもロマンがあるが,自分がやりたいのはあくまで「感謝」という言葉への違和感の具現化であるのでこのロマンについては別に機会に触れることとしよう。
おそらく人はだれかと四六時中一緒だと生きていけないのだろう。ヒトはだれかと生きていく以前に一人で生まれて死んでいくものである。双子もいるではないかという反論もありそうだが双子ですら全く同じ人生を共に歩むわけではあるまい。
もともと一人ずつの個別の存在であるが,より安全に,より豊かに生きるための手段としてだれかとの協力をするようになったのだろう。そこには各個人の思惑や価値観,利害があるためどうしてもスムーズにはいかない。
このような背景が人間にはあるため,人生は確かに自分の力だけではどうしようもない部分が必ず絡んでくる。その「どうしようもない部分」である他人や周りの作り出す状況への恐れを「感謝」という言葉を使ってさらに大きくするために誰かが使っているように思えてならない。
そうして一人ひとりが考えて自分の思い通りに動かないことを責め立てるために使っているように思えてならないケースをたくさん見てきたのだ。
その一つが今までも話した部活回想録である。
感謝は決して無言の要求になってはならないのである。
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後編へ続きます。