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やじろべえ日記 No28 「前夜」
「こんにちはー。」
広場につくとすでに浅井さんと伏見さんは準備をしていた。私もあわてて準備にうつる。
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私は普段キーボード弾きをしている学生だ。講義が終わった後の放課後はこうしていつもキーボードを弾いて遊んでいる。いつもは公園で弾いているのだが,今日は明日に控えた本番のゲネプロのため会場の広場にいる。
ゲネプロとは本番さながらにして行うリハーサルである。そのため会場の感じも同じ。機材の調整もここで行ってしまうようだ。本番もこれくらいの面積のステージということか…
自分たちの出番以外はほかの人の演奏を聴いている。
どのチームもすごくうまい。こんなのと私は,いや違うか。今回は3人なので『私たちは』か。私たちは渡り歩く必要があるのだろう。大変なことである。しかし今は3人でやれるだけのことをしたいと思ってしまう。おそらくほかの二人も同じ気持ちだろう。そうこうしているうちに自分たちの出番だ。
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1曲目は浅井さんのアカペラから始まる曲だ。1曲目だからどうしても温めるのに時間がかかる。とはいえ場面転換にはもってこいの曲なのでこの曲にした。
浅井さんのアカペラが終わる。終わったところで伏見さんと同時に入る。ここで二人が盛り上げてさらに浅井さんがペースアップして,観客をヒートアップさせる。
…と思いきや様子がおかしい。伏見さんの方を見ると苦い顔をしている。どうやらミスタッチをしたようだ。それだけでなくなんだか顔がどんどん苦しそうになる。
様子をうかがっている場合ではない。こちらはこちらで演奏を続けるまでだ。そして1曲目は浅井さんも畳みかけで終わる。
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2曲目以降は問題なくやれていたようなので指のけがや腱鞘炎の類ではなさそうだ。
「伏見さん,大丈夫?」
「すみません…あそこ,同時で入らないといけないのに,ミスしてしまって。」
たしかに最初の一発目,伏見さんは入り損ねていたがほんの一瞬だ。よくよく聞かなければわからないだろう。それでも本人的にはかなりのダメージだったようだ。
「…情けないですね。もっと練習しないと…」
「だけど,本番もう明日だし,無理のない範囲に抑えましょう。それに…」
わたしはゲネプロで一番感じていたことを話した。
「それだけのダメージを受けながら1曲目のアカペラ直後より後は完璧にできていました。だから,最初さえ何とかなれば伏見さんはそのまま乗って行けると思います。」
「…!」
「僕もそう思う。」
会話に入ってきたのは浅井さんだった。
「伏見さんは確かにミスしたことが気になってしまうかもしれないけれど,一番大事なのは聴いてくれたお客さんが楽しめるかどうかだ。」
「はい。」
「伏見さんと市村さんの演奏があったから今日はしっかり演奏できた。僕としては明日も伏見さんと市村さんに一番楽しく演奏してほしいな。」
フォローとしていいかどうかはわからないが伏見さんを攻める気持ちがないことは伝わってほしいところだ。
伏見さんは顔を挙げた。そして言った。
「楽しめるかどうかは…わかりませんが精一杯やります。」
「うん。そう来なくちゃ。」
「市村さん。1曲目だけでいいので明日の午前中もう一回合わせ練習してもらっていいですか?」
「かまわないけど,広場って使えるんですか?浅井さん。」
「明日の午前中ならたぶんできると思う。一応聞いてみるよ。」
100%確実の未来なんてありえない。ただ,この3人で演奏をやり切りたい。そのために明日精一杯できることをするだけだ。
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