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やじろべえ日記 No.7 「緩み」
たった3日ぶりなのに,懐かしい気持ちを覚えているのはなぜだろうか。ここ数日の密度が濃かったからだろうか。
私は野良のキーボード弾きをしている学生である。今日は私がいつも演奏していた公園で久々に演奏することになった。
今日はここ数日…と言っても一緒にやり始めてかれこれ一週間たつのだが,一緒にセッションしてくれているシンガーの方と一緒に演奏することになっている。昨日までは彼の本拠地である公園でやっていたが,今日は自分がいつも使っていた広場でやることになった。
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「おつかれー。」
「こんにちは。」
「今日も早いね。」
「早くセッションしたかったので。」
5時過ぎになると例のシンガーの方がやってきた。
挨拶もそこそこに私は最終チェックを始める。準備は完璧だ。
「昨日やった曲でOK?」
「はい。」
昨日と同じ曲だ。今日はどうなるのだろうか。
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「かなり緩やかだったね。今日はわざとそうしたんだね?」
「はい。」
「根拠は?」
「変化がないのもつまらないと思ったので今日は少しゆっくり目に。ただ本格的にゆっくりにしたのは間奏だけであとは気持ち緩める程度です。あなたは昨日もその前もアップテンポで歌ってますし,今日あたり疲れが出ているかもと思ったんです。」
うっとシンガーは息を詰まらせる。
「よくわかったね…僕が今日疲れ取れてないって。」
「いやあ…状態見なくても昨日と一昨昨日でアップテンポまみれの曲歌ってますし…昨日もほぼ休みなしで歌ってる上に一昨日も人かき集めてたから休めてないでしょう。想像つきます。」
「なんていうか…探偵向いてるって言われない?君。」
「いわれたことはないですねえ。」
最初の挨拶の時点で何となく察していたが,疲れが取れていないという予測は合っていたようだ。まああれだけいろんな人をかき集めて,歌の練習もしてとなるととても休んでいる時間はない。
ここで一つ気になった。
「あのう,一つ質問いいですか?」
「うん?別にいいけどどうしたの?改まって。」
「あのう,あなたいつ練習しているんですか?」
かなり直球な質問だったがシンガーの方は特に気にすることもなく答えた。
「昼間。あと夜。僕学校通信制だからさ。あとこうして野良でも練習している。」
「なるほど。だからあのアップテンポまみれでも全然疲れてなかったんですね。」
「そーそー。普段はあの公園かライブハウスで歌ってるんだ。」
ほほう。それはいいことを聴いた。
「私,ライブハウスって言ったことないんですよね。行ってみていいですか?」
シンガーさんは豆鉄砲を食らったような顔をしてこっちを見た。
「なんですか?そんな顔して。」
「いやあ…なんというか君も学生だろう?ライブハウスなんてきていいの?」
「お客としてきている人は学生でもいくらでもいますし大丈夫でしょう。ただ夜の部は厳しいので夕方の部とかないんですか?」
ぶしつけな質問である。
「…明後日の午後,ある本番がある。」
「わかりました。じゃあそれ見に行きたいです。チケットは当日券もありますかね?」
「あると思う,何なら取り置きするよ。」
「ありがとうございます。ええと…」
そういえば取り置きで大事な情報を聴いていない。取り置きどころか普段においても大事な情報を交換していないことにここで気づく。なんて愚かなことだ。
「…浅井。」
「浅井さんだったんですね。私は市村と言います。よろしくお願いします。」
ここにきて発覚した。あって一週間たっているのに,お互いに名乗ってなかったことを。
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