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やじろべえ日記 No24 「視線」

私は野良のキーボード弾きをしている学生である。名前はまだない…のではなくどうせすぐ話すことになるからここで書く必要がないと思っているだけだ。

いつも公園で弾いているのだが今日も特にいつもと変りなく公園で弾いていた。ただ,今日はここ3週間の間では珍しく,一人の演奏だ。伏見さんは模試があり,浅井さんは本番の準備があるので二人ともあと3日くらいは来れないだろう。

その間私は公園で一人お客さんに聞かせる練習である。

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昨日,浅井さんと伏見さんと心機一転,一緒に弾いてみることにした。その時は私の演奏に二人が乗っかる…という妥結案がまとまったのだが,いうのとやるのとでは全然違う。

実際昨日の演奏はグダグダになってしまって終わった。浅井さんも伏見さんも「これは市村さんに負担のかかる案だから最初はうまくいかなくても仕方ない。」とはげましてくれた。しかし励まされてばかりで何もできないのは嫌だ。

というわけで今日は一人でも聴くに堪えうる演奏のための修行だ。

というわけで一人レパートリーを弾き散らかす。弾き散らかすといっても表情や情感はつける努力はする。

まずは序盤。蝶の曲と似た,少しおとなしい感じの曲を選ぶ。あくまで淡々と弾くが,その淡々としたリズムは積み重ねると威力を増してくる。

ラヴェルの有名な曲,ボレロを想像していただけると分かりやすいだろう。あれも,テンポやリズムは一定だが,時系列とともに圧力が増してくる。笑顔で起こる女の人ってあんな感じだろうなあ。

脱線はしたが一曲目は終了。あの独特の圧迫感は出せたと思う。

二曲目。さっきがラベルだとしたら今度はドビュッシーだ。とはいえドビュッシーの曲は弾かないが。

今度は明るい空の曲。さわやかな風が駆け巡る。というのは私が思いついたセリフではない。二曲目はある映画の主題曲なのだがその映画のキャッチコピーがさっき話した『さわやかな風が駆け巡る。』なのだ。

キャッチコピーの通り,青春の一こまを連想させる,夏の日のようなこそばゆい暑さが涼しい風に包まれる曲だ。この曲で必要なのはいかにアルペジオを自由にふるまっているように弾くか。ここが躓くと風を連想させることは難しくなる。

難しかったが弾き切った後で拍手が聴こえてきた。以前伏見さんとセッションすることになった時浅井さんききに来てたことがある。今回も浅井さんかと思いきや,視線がすごく痛い。なんだと思いきや,来客は会いたくない人だった。

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「こんなところで弾いてたんだ?」
拍手の主は今入っているサークルの幹部。といっても私は孤立してしまって以来幽霊サークル員を貫いているが。

「どうも…。」
「すごかったねえ。あんな演奏できるのに,なんでサークル来ないの?」
サークルの幹部は会費や大学の中枢とのやり取り等をするため私が来なくなった理由は知らないだろう。
「うーん。合う人がいないからですかね。セッションメンバーも固定化してますし。」
「へえ。」

視線が刺さる。この人は会費の管理と学校とのやり取りが主な業務のはず。なんでこんな嘗め回すような目で見てくるのか。

「まあ,セッションで大事なのはチームワークですしね。あの演奏では,チームワークは乱れるでしょう。テンポも一定じゃないし,表情はころころ変わるし。あんな演奏じゃ安心してセッションなんてできませんよね。」
いいたいことはおおむねあってるしその通りだが,今の私はこの人の思惑とはずれてセッションをしてくれる人がいる。このセリフはいろいろな人に言われてそのたびにへこんでいたが,今はその必要はなかった。

ああ,自分を認めてくれる人がいると強くなるって,こういうことなんだな。

「そうですね。今一緒にセッションしてくれる人もすごくうまいので私に合わせてくれているんです。すごいですよね。」

それを聴いて幹部はうっと息を詰まらせる。確定だ。おそらく一人で弾く私をけなしに来たと思っていいだろう。

「今日は一人での演奏ですがそれも彼らとの演奏練習のためです。…もう一曲聴きますか?」
「いえ,用事があるから大丈夫です。それでは。」

そういって幹部は帰っていった。そういえばそろそろ会費の支払日だ。多分会費の取り立てもあっただろう。

そろそろ会費を払いに行かねばならない。だが期限までまだある。今はセッションに集中したほうがいいだろう。


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