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感謝への違和感 後編

この記事は「感謝への違和感 前編」の続きです。

2) 人に感謝を強制させる風潮

これは昨今感じている人も多いのではなかろうか。
筆者は,感謝という気持ちはあくまでも内側から出てくるものであって強制されて出てくる感情ではないように感じる。

学校などの教育現場でも頻繁に言われている気がするフレーズが「人に感謝の気持ちをもって接していかなければなりません」がある。
確かにその通りではあるのだ。仕事だって自分ひとりの力で完結する仕事や生活は古今東西見てもほぼない。農業をして生活している人は代わりに売ってくれる人がいる可能性が高いし,工場でモノづくりをしている人もしかり。逆に製品の企画をしている人は工場で作っている人や買ってくれるお客さん,売ってくれる店がなければ成立しない。

しかし,人間は協力して社会生活を営む以前に一人の人間でもある。
相手が気付かないうちに心が傷ついていることもあるかもしれない,誰かのことを機にかけている余裕がないことだってあるかもしれない。
そんな時に感謝を強いること,また感謝を強制して自尊心を満たそうするなど,いい大人がするのは言語道断だと思うのだ。

前提として感謝というものは人間関係を円滑にするためのものである。誰かに感謝することで相手が喜んでもらえる。これを繰り返し正の感情の連鎖を起こすことで人間は協力をしやすくしてきたのだろう。無為な争いを避け,小さい命を守り,生きてきたのだろう。
感謝を強いることはこれと真逆のことだ。
価値あるものであるはずの「感謝」を義務化することで価値を下げ,なければいけないものとし,なくなることで不満の種を生み,新たに正の感謝の気持ちを生む余裕を奪い,ますます不満を募らせる。
義務化ゆえの感謝のデフレーションが起きてしまうのだ。

これを目の当たりにした人間は人と接することに対し慎重になる。慎重になった結果,感謝を含めた正の感情ではぐくんできたコミュニティは弱体化してしまう。コミュニティは結局人間同士のやりとりの賜物なので,やり取りの部分が弱くなってしまえば必然的に弱くなるのだ。

3) 他人に無力感を植え付けてしまう恐れ

実はこの感謝の義務化にはもう一つ厄介な点がある。

それは「感謝の気持ちがわかない」ものに対する風当たりを強くすることである。
まあ宗教によっては神様への感謝を常に抱いている人々もいるし,逆境や苦境に立たされていてもやはり周囲への感謝の気持ちを忘れず生きている人々はいる。それはそれで全く否定しないししたくもない。

ただこの世界には何人もの人がいる。日本だけだって1億人程度の人間がいるのだ。そのすべてが現状様々な人に感謝できているかと言われれば…答えはNOと予測できる。

なぜか。あくまで予測だが,苦境に立たされても周りへの感謝ができる人は普段から周りに支えられていることを自覚している,あるいはわかるように提示されているからである。
しかし全員が全員そうであるかと言われれば間違いなく違うのではないか?

今この時だって親に罵倒されている子供がいるかもしれないし,大勢の前で先生や大人に説教されている子供もいるかもしれない。(祝日だし,そんな人がいないならいないに越したことはない。) いじめられて声を上げられない人もいるかもしれない。偏見で苦しんでいる人もいるかもしれない。職場でいずらい思いをしながら頑張って働いている人もいるかもしれない。子供を連れていて,冷たい視線にさらされている親がいるかもしれない。孤独とプレッシャーを感じながら働いている人もいるかもしれない。

現実的な話,社会は全員が幸せになれるようにできていないのだ。上記に挙げたような人が少しずつ神経をすり減らしながら仕事や家事,育児を頑張っているときに周りに感謝して生きるのが大人としての義務だ,とか言われてもそんなことはできないだろう。自分だったら自分をすり減らしながら周りに感謝なんて絶対に無理である。

しかし,この社会をよくしている人々の中にはこうして自分をすり減らし,身を粉にして働く人,次世代を育てている人が絶対に含まれる。つまり周りに感謝する余裕がない人々である。周りに感謝できる状況じゃないというだけで「周りの人に感謝が足りない」「自分だけで生きていると思っているの」と本来余裕がないだけの人が悪者になってしまう風潮ができてしまえばそれは感謝の義務化の負の産物である。

そんな人たちがいくら頑張っても報われないと無力感を感じてしまえばそれこそ社会は弱体化するだろう。本来感謝という気持ちは人が協力し豊かになるためのものである。しかしこれでは本末転倒である。

まとめ

感謝は正の産物であるべきと,筆者は考える。感謝の義務化で負の産物ができてしまえば,本来感謝したい人に対して,正の気持ちを届けたい人に届かなくなってしまう。

そうなれば協力したい相手と,誰かを助けたいと思っても,誰かに好意を伝えたくとも,感謝のデフレーションに邪魔されてしまう。

それが許せなくて,今回筆者は感謝という言葉の使い方に物申したかったのだ。冒頭で話した「感謝することは大切である。大事にしたいのだ。だからこそ,今日はその言葉に刃を立てることにしたのである。」はそういうことである。

本当に伝えたい人に伝えられる日のために,感謝という言葉の価値をしっかり維持したい。
それが筆者の願いである。

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