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やじろべえ日記 No.8 「同業」
明日が本番ということで,シンガーの浅井さんは今日はリハに行っている。つまりは私はおとなしく一人で弾くしか方法がないということだ。
私は野良のキーボード弾きである。一応名前はあるが名乗るのは浅井さんが出てきてからでも遅くないだろう。
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私が野良でキーボードを弾いているのはそれなりに理由はあるが一番大きいのは歴代で組んできた人に言われたこの言葉だろう。
「ごめん,もうついていけない。」
私は日によってテンポの取り方や表情のつけ方が大きく変わると周りの人に言われた。意識してそうなったのであればしてやったりなのだが残念ながら8割がた無意識なのでチームメイトを振り回してしまい,結果チーム解消されてしまう。
迷惑をかけていたのであれば仕方がない。だいたい人同士の繋がりなんて強要されて続くものでもない。
だから一人で気ままにキーボードを弾いていた。
そんなある日に声をかけてくれたのがシンガーの浅井さんである。昨日までは一緒に色々セッションをしていたのだが,一昨日私がソロリサイタルをやったことと私も浅井さんの演奏を聞きたかったので浅井さんは急遽飛び入りであるイベントに参加することになった。
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今までのことを思い出しながら気ままにひいていると,近くから似たようなピアノっぽい音がする。ぽい,といったのはこんなところで本物のピアノを弾いているとは思えないからだ。
ふと目をやると私より若そうな子がこれまた一人でキーボードを弾いてた。
特にミスタッチもなく,淡々と弾いている。
弾くのに飽きた私はしばらく眺めることにした。
決して情感豊かとはいえない演奏だ。淡々として,周りの風景に溶けていきそうである。そしてその風景は決して色あせることなく目まぐるしく変わっていく。
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ぼうっとしていたらその人の演奏は終わった。引き込まれていたのだろうか。まだ夢の中にいる気分だ。私は珍しく声をかけることにした。
「こんにちは。」
「…どうも。」
「あのう,良かったら今の曲,セッションしませんか?」
「セッション?今の曲ですか?」
「ええ。伴奏くらいならできるかと…それともご都合が悪かったでしょうか?」
「かまいませんよ。」
そんなわけで一曲だけ一緒に演奏することになった。先ほどの演奏は淡々としていて風景に溶けていきそうな感じだった。であればやることは一つだけ。
風景のトーンを落として演奏を目立たせる。といってもやることはひたすらピアノのアルペジオだ。その辺を漂っている感じで添えるだけ。
それでも効果は抜群だったようだ。さっきより明らかに立ち止まるお客さんが増えている。何よりセッション相手が一番驚いた顔をしている。
終了後,その人は声をかけてきた。
「あのう,お疲れ様です。」
「あ,急な申し出だったのにありがとうございました。お客さん,すごかったですね。」
「はい,ありがとうございます。」
その人も夢うつつな表情をしていた。演奏中もびっくりしていたようだが正直わたしもここまではまると思ってなかった。
「あのう,あんな演奏になったの初めてです…あんなにお客さんが来たのも…忘れられない日になりそうです…」
それはよかった。
「それで,お願いなんですけど…」
なんだろうか。
「明日もセッションしてくれませんか?」
「…大変申し訳ないのですが,明日は先約があってそっちに行く予定なんです。ほんとに申し訳ない。」
「先約ですか…そうですよね。すみません。」
なんだか悪いことをした気分である。そうだ。
「あのう…明日わたしこのイベントを見に行くんですよ。」
浅井さんからもらったフライヤーの画像をその子に見せる。
「このシンガーさん,面白い人だから行ってみて損はないと思います。興味があったら見に行ってみるといいですよ。今日以上の盛り上がりが見られます。当日券は多分あると思います。」
そういって初対面のキーボード弾きとその日は別れたのだった。
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