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やじろべえ日記 No.9 「魔物」

わたしの演奏は日によって大きく変わってしまうらしい。これは野良でキーボード弾きを始めてからずっと言われていた言葉である。

私は公園や路上で野良でキーボードを弾いている人間だ。とはいえ今日は公園ではなくライブハウスに来ている。演者としてではなく,観客としてだ。

なぜこうなったかの説明をした方がいいだろう。いつもは公園で演奏するのがほぼ日課のようなものなのだが,1週間くらい前から浅井さんというシンガーに声を掛けられセッションをするようになった。

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冒頭でも話した通り,私の演奏は日によって変わってしまうというセッションをするには最悪の特質を持っている。そのため,このシンガーさんとも1日きりだと思って思いのままに演奏した結果,なんだか気に入られてしまった。1週間…といっても途中でソロリサイタルもはさんだので実質は4日か5日くらい一緒に演奏していたということだ。

先ほどソロリサイタルという話をしたがこれも浅井さんに見せるためのリサイタルだった。とあるセッションでマイクトラブルがあり,時間を稼ぐ必要が出たときに私がアドリブ(と浅井さんは言ってくれたが私はレパートリーを弾き散らかしただけである。)をかましたのだが,あれをもっと見て合わせられるようになりたいという浅井さんの要望をかなえた結果である。4曲くらいしかやらなかったが満足はしてもらえたようだ。

ただ一つ不満なのはあのリサイタルを提案した目的は浅井さんの学びだけではなかったであろうことが推測できることだ。そうでなければ10人以上の友人は連れてこないだろう。絶対面白がってたなあれは。今考えてもあきれ返る。

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話を戻そう。そのすぐあとに自分もリサイタルをやったのだから今度はそちらの演奏を聴きたいと私も要求を出したところ,浅井さんは今日開かれるイベントに急遽参加することにしたようだ。そしてそのイベントの会場が,今日私が来ているライブハウスということである。

たかが経緯を説明するのに文字数をだいぶ使ってしまった気がする。日本語は難しい。

そうこうしているうちにイベントが開始となった。そのイベントはこの辺一帯で活動しているボーカリストが集まってかわるがわる歌うという趣旨のようだった。

さっきから見ているがどの人も盛り上げ方がうまい。こういう盛り上げ方をできるようになれていれば私も歴代の組んでいた人に「ついていけない…」と離別宣言をされずに済んだのだろうか…そんなことを考えていると浅井さんが出てきた。

最初はバラードナンバーだ。盛り上げるという意味では悪手のように見えるが,実際これまでのシンガーたちが激しい盛り上がりを見せたことを考える限り,ここでアップテンポをやるとついてこれなくなる観客もいるだろう。この場合はこれがいい手と考えられる。

そして浅井さんの歌うバラードは飛び跳ねる盛り上がり方というよりは,浸れる盛り上がり方なのだ。演者から見ても盛り上がれているかの判別はつきづらいだろう。しかし観客席から見る限り作戦は成功しているのだと思う。

そして次はダウナーな,重低音激しめな曲。これで盛り上がれない奴はそもそもライブハウス来ないだろう。実際皆様ノリノリだ。かくいう私も盛り上がっていたのは内緒にしておきたい。できれば。

そして最後にやったのは,マイクトラブルリベンジの一曲目でやったあの曲。あれ本当に激しい曲である。前に2曲やった後でできるのか…と内心震えていた。ギターのリフがメタくそ激しくて「人間が弾けるのか?」と尋ねたくなる。シンガーさんがやるラップも激しい。多分あとで「実は口パクでした☆」と言われても私は怒らない。いや怒れない。

そして,浅井さんの出番は終了となった。

浅井さんの出番が終わったのち,あるシンガーが出てきた。その人の第一声で鳥肌が出てきたのはまた別の話だ。

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イベント終了後,なんだかどっと疲れが出てきた。ライブハウスの入り口付近でボーっとしているとある人に声をかけられた。

「こんにちは,昨日ぶりですね。」
声をかけてきたのはあの小柄なキーボード弾き。昨日偶然公園であって一緒にセッションを持ちかけた相手だ。ライブに来ていたみたいだ。本当に来るとは。行動力がある。

「あの,昨日はありがとうございました。すごく楽しいセッションで…」
「いえいえ,お気に召したのであれば何よりでした。」
「あの,気になるシンガーの方はいましたか?」
「私を招待してくれたシンガーさんがいて,その人の演奏を聴きに来たんだ。やっぱり盛り上げ方上手かったです。まあ今日の演者さん,全員上手かったけど。」
「レベル高かったですよね。特に中盤で出たあの人,本当にすごかったです。」

おそらく中盤の人というのは浅井さんの直後に出たあの人だろう。浅井さんには申し訳ないが,浅井さんの作り上げたテンション雰囲気が一瞬で崩された感は否めなかった。決して浅井さんの演奏に落ち度があったわけではない。むしろあれだけの盛り上がりから独特の世界観を作り上げ,引き込んだのはあっぱれであったと考えていいだろう。しかしそこからあれやられたら,悔しいだろうなあ…

私自身は浅井さんの曲を聴いて今後のセッションの参考にするという目的があったので覚えているが,おそらく今日の観客の大半は浅井さんの演奏をあまり覚えられていないだろう。

それだけ次の人が強烈だったということだ。

「直前の人もうまかったのに…なんか本番って何が起きるかわからないですね。」
「本番には魔物が住むといわれていますからね。」

本当にそれを痛感したイベントだった。だがこちらは収穫もあった。浅井さんの世界観を感じ取れたのは今後セッションするときの参考としては大いに有用だ。

明日もあそこで弾く予定だが…浅井さん,来るだろうか。


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