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やじろべえ日記 No29 「魔法」
その日,伏見さんと私は先にいつもの公園で合わせをしていた。
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わたしは野良のキーボード弾きをしている学生だ。名前は市村という。しかし今回はいつもと違う。なぜか。今日は本番なのである。
そして今一緒に弾いている伏見さんもキーボード弾き。今日は私たちと浅井さん含めた3人で本番に挑むことになっている。さっきから心臓がバクバク言っているが,平常心平常心。
昨日のリハーサルで伏見さんが調子を崩してしまい,彼女の希望もあってウォームアップから一緒にやっている。伏見さんの表情はなんだか暗い。
「伏見さん,大丈夫?」
「大丈夫…ではないかもしれないです。ただ,やりきるためにもできることはすべてやっておきたいです。」
「そうだよね。じゃあ,1曲目の中盤から行こうか。」
「中盤…ですか?」
「うん。不安なのは序盤だろうけど,まずは確実に弾けているところからやった方が気持ちも楽かと思って。」
「確かにそうですね。」
「じゃあ,やりましょうか。」
「はい。」
弾いてみるも本調子には至らないようだ。
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ウォームアップが終わり,会場へ移動すると浅井さんがすでにジュース売り場にいた。
「浅井さん,売り子やってるんですか?」
「うん。そうだよ。」
「てっきり本番出るからキャンセルになったかと。」
「まさか。人でも足りなくて大変さ。ああ,君たちは本番までゆっくりしていいからね。」
「ああ,はい。」
伏見さんは相変わらず沈んだ表情だ。とはいえ,生気は失ってない…と信じたい。どう声をかけようか悩んでいると浅井さんが声をかけた。
「昨日の失敗,まだひきずってる?」
「…はい。頭では気にしちゃいけないってわかってるんですけど…なかなか。」
「それだけ本気ってことだろうね。ただ,隣にいる市村さんは信頼できるだろう?」
「…はい。」
「最初にあった時から感動してたって言ってたしね。」
いつの間にそんな会話があったんだ。
「伏見さん,結構頻繁に話してるよ?君聴いたことないの?」
ないものはない。
「伏見さん,そんなに感動してくれてたんですね。」
「あの時は景色が一気に広がったというか,遠くまで視界が開けた感じだったので。あの衝撃が忘れられなくて。」
「そう,伏見さんそれだよ。」
「え?」
「遠くを見て,自分はできるかもしれないって希望を持つんだ。希望を持てるのは自分で意思を決めたときだけだからね。」
浅井さんの優しくも有無を言わさぬ表情を見て伏見さんの顔のきりっとした。多分何か覚悟を決めたのだろう。
「わかりました。…市村さん。ご飯食べたら少しだけやりましょう。」
「はい。」
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そして迎えた本番。まず感じるのはライトがまぶしいこと。そりゃあそうだ。先ほど気が付いたがカメラ普通に回ってるし。
あの後伏見さんとまた練習したのだが,先ほどの浅井さんの圧が効いたのかさきほどより順調になったようだ。
「では,1曲目だけ。序盤から行ってみましょう。」
最終確認になったところでやってきたのは浅井さんだった。
「まってええ。僕も一緒にやるよ。」
「浅井さん,売り子はもういいんですか?」
「さすがに本番1時間前だからねえ。抜けさせてもらったよ。」
「じゃあ,最初のアカペラ終わるあたりからお願いしていいですか。浅井さんのタイミングで入る練習したいので浅井さんの好きなようにお願いします。」
「わかった。じゃあ行くよ。」
そして浅井さんの歌が始まる。そして終わりに近づく。伏見さんと私は息を合わせる。
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1時間後。ついに出番だ。
「伏見さん,大丈夫?」
「あれだけやったので。それにもうやるしかありません。大丈夫です。」
「そうだね。じゃあ行こうか。」
わたしたちはステージへ歩き出した。鍵盤をしっかり確かめてから浅井さんに合図を送る。浅井さんのMCが入った。
「こんにちは!今日は急な参加ですが,楽しんでいってください!」
その一言とともに,浅井さんのアカペラが始まる。そしてアカペラが終盤に入ると私たちが入る番になる。伏見さんと目を合わせる。あちらも万全のようだ。そして,伏見さんも無事に入ることができた。うまくいったのが浅井さんにも伝わったのだろう。ノリノリでテンポを上げていく。
わたしはそれを支え,伏見さんは畳みかける。盛り上がりの最高潮にして1曲目は終了。
間髪を入れずに2曲目だ。2曲目は蝶の曲。これは私の中でも浅井さんの中でも伏見さんのシンボル曲だと思っていた。そのためイントロも伏見さんに任せることにした。
この選択は大正解だったようだ。伏見さんは相変わらず揺蕩うような演奏をする。しかし今日は気ままというより,行きたいところを片っ端から回っているような活発さがある。最終目的地のお花に到着したところで,私の演奏と浅井さんの歌が入る。わたしは周りの植物を揺らして蝶の好奇心を掻き立てる。そして浅井さんは風を起こして蝶を新しい場所へ誘う。
歌もあるがあくまで主人公は蝶である伏見さんだ。歌はあくまで添えるだけ。それでも演奏が破綻しないのは浅井さんのノリの良さだろう。最後は私と浅井さんが先に幕を下ろし,伏見さんのソロで終わる。
そして3曲目。3人で完成させた曲だ。そしてこれは,私が一番大事になる曲。伏見さんが終わって落ち着いたと感じたところで今度は私が入る。何回も破綻しながらやった曲だが,今回ばかりは成功させたい。
最初は私の演奏から入るが,あくまで淡々とそして新しい予感を掻き立てる演奏だ。そして一度渡した落ち着いたら浅井さんの歌が来る。浅井さんの合いの手は伏見さん。私はひたすら裏方に回る。そしてサビに向かっての盛り上がりを淡々と行う。
淡々と行った後は浅井さんがサビを歌う。ここで,観客の盛り上がりが最高潮になった。そしてなんだかそこで時間が止まったような気がした。
曲は進んでいるし,浅井さんの歌も伏見さんの演奏もしっかり聴こえる。浅井さんが気持ちよく調子よく歌えている。伏見さんも思い通りに演奏できて楽しそうだ。私も演奏を進める。
なんだか今ならもっと広げられる気がする。もっと広い大地を,大きな空を描ける気がしたのだ。
そしてやり切った後に拍手が聴こえた。
気が付いたら浅井さんも伏見さんもほほを赤くして立っていた。笑っているように見えたのは私の気のせいだろうか。
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ステージを降りたあと,伏見さんが話しかけてきた。
「市村さん!」
「あ,伏見さん。最初よかったよ!うまくいってよかった。」
「あ,確かにそうですね。…ってそうじゃなくて,あの演奏すごかったです!」
「え?」
あの演奏ってどれだ?
「えーと,浅井さん解説お願いします。」
後ろに伏見さんの一言一言にうなずいている浅井さんがいたので話を振った。
「いや解説って…最後の曲,本当にすごかったよ。」
「最後の演奏?昨日と同じように弾いたんですけど…」
「同じじゃあなかったな。昨日よりもっと深くてもっと広くて。どこまでも行けそうって僕感じちゃったもん。」
あの時が止まった時だろうか。確かにもっともっと行けるとは思ってしまった。だけど二人が楽しそうにしていること以外特に興味が行かなかった。…もちろん演奏が破綻しないようにはしたが。
「そうだったんですね…」
「あれ,もしかして自覚なかった?」
「はい…。」
「…前に市村さん,『日ごとに演奏が変わる』ことを気にしていたじゃないですか?」
唐突に伏見さんが話し出した。
「でもそれって,今日みたいな高揚感を生み出せるってことでもあると思います。昨日と違ううれしいことが起こったら,人間誰でもうれしいじゃないですか。」
「…」
そうか。いつの間にか『日ごとに演奏が変わる』という自分の特質を忘れていた。でもその特質のおかげで今日の本番を迎えることができた。
「そうか…わたしの演奏,悪いものじゃなかったんですね。」
「悪いものどころか,最高でしたよ。」
「うん。本当にここまでやれてよかったよ。」
伏見さんと浅井さんが笑う。
その後主催者側から今日の打ち上げに誘われた。伏見さんなど未成年もいるので次の休みの日の日中にやるようだ。とはいえそこまで日はあかない。どうせ暇な身分だし行くことにした。
そしてわたしは,ある決断をした。
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