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やじろべえ日記 No30 「決別」
わたしの名前は市村という。普段は野良のキーボード弾きとして公園で演奏しているが今日は放課後も学校に残っていた。昨日の本番のために手つかずにしていた課題をやるために今日は残ることにした…というのもあったが,もう一つ理由があった。
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「失礼します。」
サークル棟の一室。実は私は学校のサークルに入っていたがそこになじめずほぼ幽霊部員と化していたのだ。今日行く理由は幹部に会うため。
「お久しぶりです。市村さん。」
「こんにちは。」
「まだあの公園で一人で演奏しているの?」
「まあたまに。」
「そう。」
なんだか馬鹿にされている感じもあるが別に今は重要ではない。本題に入る。
「ところで今日は2つ用事があってきました。」
「なんだい。」
「一つはこれです。今月の分の会費です。」
「ああ。ありがとう。ほとんど来なくなってたから忘れてたと思ったよ。」
「この間催促しに来られていたので。忘れはしませんよ。」
「催促って。ちょっと伝えに行っただけでしょう。人聞きの悪い。」
本人としてはそうだろうがあれは立派な催促である。
「それで,用事の2つ目は何?」
「これを渡しに来ました。」
封筒に大きく『脱退届』と書いた書類だ。部活であれば退部届なのだろうがここは部活ではないからこの名称だ。だがまあ実際内容は退部届と変らない。
「…そっか。抜けるんだ。」
「はい。これからも公園での演奏は続けますが。いい感じの仲間を見つけたので。」
「…君に仲間なんているの?」
「…一緒に演奏したい相手,といった方がいいかもしれません。」
「君のあの協調性のない演奏で一緒に演奏したいという人いるの?」
幹部は相当馬鹿にしてきた。この人も楽器はそこまでできないはずだし,何をどうすればここまで人を見下せるのかはわからないが,きっと私を馬鹿にしたくて仕方がないのだろう。
確かに私の演奏は『日ごとに変わる』というセッションには致命的な特質がある。そしてその特質のおかげで私は浮いてしまった。サークルになじめず,幽霊になった。
でも。
『悪いものどころか,最高でしたよ。』
『うん。本当にここまでやれてよかったよ。』
あの言葉だって,きっと本物だ。
「確かに私の演奏には協調性はないです。」
「じゃあ,これからどうするの?」
「どうもしませんよ。私は一緒に演奏したい人と演奏するだけです。なので,今日付けてこのサークルを抜けます。ありがとうございました。」
それだけ言って,私は部屋を去った。
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図書館で課題を終えたあと私は久々に街中をぶらぶら歩いた。日も短くなってきたが,あたりはまだ電灯で明るい。
いつもより街の照明がきれいに見えるのは,すっきりしたからだろう。あのサークルで,私は誰ともなじめないと思っていた。しかし浅井さんと伏見さんに出会ってそうでもないかもしれないと思った。そして昨日の本番でそれは確信に変わった。
あのサークルには感謝している。あそこを抜け出さなければ私はあのステージにたどり着けなかったから。けれども今日,私は自分の意志であそこを離れた。
わたしはこれからも演奏は続けるだろう。どんな形になっても。その覚悟を得るまでの時間をくれたあのサークルは,もう私の中で役割を終えた。私も新しいステージへ進むのだ。
軽やかな足取りで,私は家路についた。
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