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茶会
静寂が磨きたてられ、穢れなきものの象徴として自らを燃やしつづけるのである。
そこで行なわれるのは、お金の無心でも選挙運動でもまた保険の勧誘でもなく、もっと云えば悩み事の相談でもないし何かの頼み事でもない、つまりいわゆる世間的「意味」というものから解放された逢瀬が実現しなければならない。
そして人は、そこで淹れられたお茶をただ、「無意味」に飲むのである。
社会は、あまりに「意味」や「効用」に染められながら運営されている。政治や経済を抜きにしてはまるで一日もたちゆかないとでも云うように、人は目的に沿って効率的に行動する。
お茶でさえ交渉の潤滑油だったり、あるいは痩せたり病気をす「ために」飲まれる。
しかし我々の生きる時間は、本当はもっと「無意味」なのではなかったか?
無意味な人生に、我々は方便として 志 を立て、その「有為の奥山」に努力して登ろうとする。それは「生き甲斐」とも呼ばれ、重要なことではある。
しかし「有為」である以上、どこかに無理がある。だから人は、茶室に入って「無為」を味わい、日常の疲れを癒す。そういう場であれば、と思うのである。
以上は、あまりに現実離れした夢のような話かもしれない。
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