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【短い物語】 自慢の娘

 17時のベルが鳴ると、横山ジェニファーはすぐさま手を止めた。それに続くように、工場の端から端まで平行に並んだ3つのベルトコンベアがガタンと音を立てて止まる。横山は作業台のパイプに引っ掛けてあったタオルをつまんで、右手のベタついた指をさっと拭うと、タオルを丁寧に四つ折りにしてパイプに掛け、一目散に組長のところへ歩いて行った。

「くみちょ わたし ざんぎょお にじかん?」
「そう、2時間、大丈夫?」
「ああ そうねえ わたし きょお ちょと はやく かえるの したいね いちじかん だめ?」
「どうしたの?」
「こども からだ わるい だからね がっこ やすんだ でも わたしの おかさん やきん だから ごはん だれが つくる」
「ああ、そっかあ、ジョセフィンさん今日夜勤なんだ。アントニオは?」
「だんなさん いま フィリピン かえってますから」
「じゃあ子どもさんかわいそうだね、いいよ今日は、残業なしで」
「ほんと? ありがと くみちょさん じゃ わたし かえりますね ほんと だいじょぶですか?」
「ああ、大丈夫だよ。お疲れさん。子どもさんよくなるといいね」
「ありがとございます おつかれさまでした」

 工場の大きな扉の横には大きなボタンが二つある。緑のボタンが open、赤いボタンが close だ。横山が緑のボタンを押すと、外の冷たい風が勢いよく吹き込んだ。「うー」と震え上がりながら小走りで駆け出て、すぐさま振り返って赤いボタンを押す。ゴゴゴと低い唸り声を上げて扉が閉まるのを後ろ目に、横山は歩を止めずに西門に向かった。

 守衛に会釈をして門をくぐると、そこから先は会社のルールの適用外だ。ポケットに手を突っ込んでもいいし、歩きながらスマホを弄っても怒られることはない。横山は急いで娘に電話をかけた。

「もしもし」
「もしもし Alisa ちゃん おかさん いま かいしゃ でました」
「残業大丈夫だったの?」
「くみちょ きょは やさしいかったですから だいじょぶよ」
「わかった、じゃあ 18:09 に駅で大丈夫?」

 17:23発の電車に乗れれば間に合うが、西門からは駅まで早歩きで12分はかかる。腕時計を見ると、17:13だった。横山は走ることにした。


 電車の中は異常なまでに暑く、横山は着ていたダウンコートを脱いで腕に掛けた。
 席は全て、二駅手前で乗り込んだ工場労働者たちで埋まっていた。繁忙期を迎えた横山の働く工場とは違って、隣町の工業地帯は冬に閑散期を迎える。定時で帰らされた彼らの愚痴が横山の耳に入ってくる。タガログ語だった。

「こんなんいつまで続くんですかねえ。茨城の方に引っ越そうかな」
「4月にはまた忙しくなると思うぜ。毎年そんな感じだから。茨城行ったら後悔するんじゃねえの」
「でもうちの班長が半導体の輸入がどうたらで、今年は繁忙期無いかもって言ってましたよ」
「毎年言ってんだよ、繁忙期無いかもって。今は暇だから、辞めたい奴には自分から自己都合で退職してほしいんだよ。今辞めたらあいつらの思う壺だぞ」
「ああ、そうなんですか……。でもなあ、今回給料やばいんだよなあ。エドアルドさんって貯金とかしてます?」

 1年目か、初々しいものだ、と横山は懐かしい気持ちになった。横山もかつては色々な職場を転々としたものだった。より高い時給、より多い残業、より多い同郷の同僚を求めて、多くの職場に不義理を働いたものだ。中には良くしてくれる日本人もいた。つたない英語で労働法を説明してくれたタカハシさん。病院や市役所に一緒に行ってくれたリエコちゃん。
 後悔ともノスタルジーとも整理しきれない気持ちが不快で、横山はバッグからワイヤレスイヤホンを取り出して耳に着けた。曲はスモーキー・マウンテンの I Believe In You を選んだ。

「遅いよ、何してたの」
「ごめんね わたし トイレで make-up 直すことしたよ」
「なんでこんな時にメイクなんてできんの?」
「なに じゃあ あなた あなたのママ ブスですね みんなおもう いいですか? Alisa ちゃんの mama ブスだな あなたいやでしょ? make-up して かわいいかわいい mama いいでしょ びじん きれいきれい mama いいでしょ」
「はいはい、分かったよ、もういいよ」

 アリサがサイドブレーキを下ろし、ハンドルを律儀に両手で握る。駅のロータリーの出口にある横断歩道の手前で一時停止し歩行者を優先したアリサを見て、横山は嬉しくなった。
 横山は10年前、免許の本試験に二度失敗していた。英語でも受験できるとのことだったが、文法の間違いが多いと聞いて日本語で受験したのだ。当日は必死に設問を読んだが、二回とも不合格だった。それ以来自分で運転することは諦めた。
 だから娘が18になってすぐに一発で合格した時は、人目も気にせず飛び上がって喜んだ。「普通だよ、やめてよ、友だちもみんな受かってるし、そんなにはしゃがないでよ」とアリサに怒られ、少し寂しく思ったのを覚えている。

「Alisa ちゃん かこいいですね くるま broom broom うんてん auto-racer みたいね」
「かっこよくないよ、軽だし」

 前の職場で知り合ったレイチェルの兄に頼んで18万円で用意してもらった車だった。当時の貯金15万円に、会社からの前借り3万円を乗せて支払った。

「ごめんね Alisa ちゃん おかさん かこわるい くるま だけ かえました」
「もうー、そういう意味じゃないってば。めんどくさいなあ」

 横山は何と返していいか分からない。

「来年から私も働くし、そしたらもうちょっと良い車買お。アパートももうちょっと広いとこに引っ越せるかもよ。そしたらジョセフィンばあちゃんも一緒に住めるし」

 アリサの横顔が少しだけ自慢げに見えた。だから、横山も自慢げな顔で「それ いいね」と答えた。


 アパートの前に車を停め、二人は階段を登ってドアの前に立った。横山の口からついため息が漏れる。「開けるよ」と言って、横山の返答を待たずにアリサが鍵を開ける。澱んだ空気が外に流れ出して、近所の人たちに何か気づかれてしまうのではないかと横山は不安になった。
 中に入り、急いでドアを閉める。目を閉じ、深呼吸をして、再び目を開けると、アリサは既にアントニオのそばに立っていた。

 アントニオはキッチンの床に寝そべっている。大きく開いていた目と口は、昼間にアリサが閉じておいてくれたようだった。
 あれから約20時間。もう事切れているはずなのに、眠っているようにしか見えない。横山には、アントニオが今にも起きて襲い掛かってきそうに見えた。
 恐る恐る近づくと、床の血が綺麗に拭き取られていた。アリサにこんなことをさせた自分を、神は赦してくれるだろうか——横山は心の中で神に祈った。

「これ、どうしよう」

 数年前からアリサは夫を「これ」とか「あれ」と呼ぶようになっていた。酒を飲んで横山に暴力を振るうようになってからのことだ。いつもなら軽く咎めるところだが、横山は今の自分に娘を咎める資格など無いことを理解していた。

「ふたりで おとさん くるまで やま いって おっきい あな いれますね で fire つけて burn して bury …… Alisa ちゃん bury の いみ わかりますか」
「埋めるってことでしょ、わかるよ」


「わたし ひどい ひと わるい ひと ね」

 隣町の山に向かう途中、思ったことが口に出てしまった。アリサは無言のまま前を見ている。そんなこと言って、私はアリサに何と答えてほしいのだろう——今さら取り繕うのもおかしいと思い、横山も黙ることにした。

 スコップの代わりに持ってきた調理用のボウルでようやく人間一人分の穴が掘れた頃には、二人の体力は限界だった。限界でも、今やらなければならないという状況が、二人を突き動かしていた。
 穴にアントニオの死体をひきずり下ろす。やっとの思いで穴から出て、自宅にあったサラダ油の残りをアントニオの全身にかけた。たいした量ではないし、サラダ油がどのくらい燃えるのか分からないが、どこかで何かを買って足が付くのは避けたかった。
 油まみれになったアントニオにアリサが近づき、ライターでTシャツの裾に火をつけた。するとシャツに火が広がり、周囲が一気に明るくなった。夜中の山とはいえ、誰かに気づかれるのではないかと横山は不安になった。しかしここまで来たら、燃やし尽くす以外に選択肢は無いように思えた。

「悪い人は、こいつだよ」

 燃えているアントニオを見つめながらアリサが言った。火はとうに髪に燃え移り、もう顔が見えなくなっていた。
 アリサが横山に近づき、肩に手を置く。

「大丈夫だよ、きっと」


 横山が帰宅すると、ドアポストにアリサの成人式の案内と入管からのハガキが入っていた。来月の3日から10日の間に収入印紙とか在留カードを持って入管に行けばいいらしい。

「Alisa! Alisa! Oh my God!」

 急いでアリサの部屋に行くが、まだ帰っていないようだった。電話かメールで伝えようかと思ったが、帰ってきてからのサプライズにしようと思い、リビングで待つことにした。
 しかし18時を過ぎてもアリサは帰って来ない。横山は YouTube を観たり、Facebook を見たりして過ごした。そうしている間も、横山の心はずっとふわふわしていた。ふと、Facebook で「永住権取得できました」と書こうかと思ったが、アリサが帰宅中に見てしまったらサプライズにならない、我慢しなければ、と思い直した。
 もう横山もアリサも「永住者の配偶者等」ではなくなるのだ——そう思うと、ついニヤけてしまう。誰の付随物でもない、一人の人間として、自分の権利でこの国に住めるようになるのだ。

 アリサからメッセージが届いた。

“2時間 ざんぎょうだった〜 今から こうじょう 出るから かえるのは8時くらいになるかも”

 二年前のあの日から、アリサと横山の距離はぐっと縮まった。横山はアリサのメッセージを愛おしく眺めながら立ち上がり、キッチンに向かった。

“Wakatta, otsukaresama! Kyowa yorugohan ebi no garlic ni shiyone!”

 送信の文字をタップし、冷凍庫のドアを開けた時、玄関のチャイムが鳴った。