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他人に何を言われようと関係ない。私は私。-Yukko side-

自分でやるべきこと、信じることをするだけ。



誰かの言葉をもとに自分の人生や価値観を言語化する大人の交換ノート、第2巡目のテーマはケイト・モスのこの言葉。


すごいな〜ケイト・モス、強いな〜〜

ケイト・モスだから言えるんだろうな〜


って思ったけどそういうことじゃないんだよね。ケイト・モスの人生、わたし1μmも知らないし。


わたしはわたし、だなんて彼女は生まれたときから確信していたのだろうか。それとも、そう思えるようになった転機が彼女にはあったのだろうか。生きていく過程から徐々に得た学びなのだろうか。



実のところ、わたしは他人の目をとても気にする。

それはもう気にする。死ぬほど気にする。


人と関わって生きていく中で自己評価より他者評価の方が重要だと思っているから。

自分の値段付けを他者に委ねたいから。

自分がよくても誰かがよく思わなかったら価値を損なうから。


でもさ、そもそも価値ってなんだろうな?



以前付き合っていた人にこう言われたことがある。

「初めて会った時、周りにすごく合わせててなんか大変そうだなって思ってたよ」



前回の記事の繰り返しになるが、今までのわたしはひたすら受動的に人生を送っていた。それはひどく心地よくて安心できる日々だった。

私にとって周りに合わせることは当たり前だったし、当時それ以外に生きる方法を知らなかった。でも周りの人たちが次々にアイデンティティを獲得していく中で、いつまでも周囲の人に合わせている自我のないわたしの滑稽さやダサさや子どもっぽさがみるみるうちに浮き彫りになってしまい、取り残され、次第に生き辛さを感じるようになった。

そしてあろうことかカラッポの自分の内部に閉じこもってしまい、結果、信念もないのに頑固になってしまった!


もっと自由に私らしく生きてみたいのに、なんて言えるほど「私らしさ」を持っているわけではないけど、自意識過剰に周りの目を気にするのではなく それでもいいよねぇだってこれが私だもんねぇ って柔軟に自分を肯定できるようになりたい。


どんなにかっこわるい自分でも許して認めてあげられる心の広さ、欲しいよね。


とりあえず、自我建設途中のわたしはいままでよりほんのちょっと自由に生きてみようと思って実践している最中である。

他人の目を気にするあまりに他の誰かではなく自分自身で課してしまった「こうあるべき」という無意識の制限は忘れて。