愛とは信頼。人を愛するときは完全に信じることよ -Yukko side-
本日のお題はマリリン・モンローの名言。
突然だが、わたしは愛の話が好きだ。
家にいるのに患者のことが気になったり、地面の草を踏まないように歩いたり、大事にされている犬を見てにこにこしてしまったり、ショッピングモールやスーパーで家族をみて心がきゅうとしてしまうのもすべて愛のせいなのだ。
うまく言えないけど、大半のことの原動力の根底に愛はいつもあると思っている。
なので愛には分類し切れないほど種類があると思うのだけど、ここでは交換ノートをしているみんなに倣って恋愛について考えていく。
わたしは母との関わりの中で家族愛の土台に信用が必要なことを学んだ。信用がないと愛してもらえなかった。ここでは深く触れるとこんがらがるからやめとくけど。
では、恋愛的な愛情=信頼なのだろうか?
わたしはわたしを好きな人しか恋愛的に好きになれない。
いつからかは覚えていないけれど、好きになる人の前提条件が私のことを心から好きで好きでたまらない人、になっていた。高校生のころ、私のことが好きだと言ってくれた人と付き合ったが、思ったほど愛してくれなくて2ヶ月で別れてしまったことがある。
とても小狡くて面倒くさいな、と我ながら思う。
過去、一番長く付き合っていた人は3年程わたしに片思いをしていた人で、そこからようやく付き合いはじめ、3年ちょっとのあいだ恋人でいたがある日わたしが相手の浮気を知ってしまい、次の日に自分から別れを告げた。
このとき私に困惑とか迷いとか情とか憤怒といった激情はなく、すんなりと別れを選択できた。
というより、ほかの選択肢が出てこなかった。浮気をした理由も聞かなかった。理由なんてどうでもよかった。
浮気を知ったときにあった感情は、ただただ失望と裏切られたことへの寂しさだけだったからだ。
だって、おまえ、6年前から昨日まで、私のこと好きだって言ってたじゃん。
このことからわかるように、わたしは相手の「わたしへの愛」を心から信頼していたのだ。そしてその信頼を裏切られた事によって愛という契約は破綻し2人の関係は完全に終わった。終わらせた。別れたくない、せめて仲のいい友達でいたいという相手の申し出もあったが、私を裏切った人間に対して友愛の気持ちが湧かなかったのでお断りをした。
見返りを期待せず勝手に誰かに恋愛的な愛情を抱く分には信頼なんていらなくて、あぁ、好きだなぁ。あなたのそういうところが大好き。本当に好き。でも、わたしが好きだと思うその部分がもしわたしの思った通りでなくても、きっとわたしはあなたが好き、と思えるかもしれない。
嫌なところがあったとしても少し距離のあるところから想っている分には自分にはなんら影響は及ばないし、愛したままでいられる。浮気はするし、限度を超えたギャンブルもする。全然ダメな人で絶対にぜったいに信頼できないんだけど、確実にわかってはいるんだけど、それでもどうにもならないくらい好きなの。とうっとりできるかもしれない。
しかし、付き合うとなると話は変わってくる。
付き合うということは一対一の契約だ。婚姻には法的なお約束があるが、お付き合いには法的な効力はないので、相手を完全に信頼することが必要だ。様々な恋愛があるためお互い許容しあっているペアもいるとは思うが、基本的には誰かと付き合うということはその他の選択肢を全て捨てることだとわたしは思う。許せないところを少しずつ許して一緒にうまくやっていこうね、というのがお付き合いの醍醐味かもしれないが、「許せないこと」が信頼を損なう行為であれば契約上大問題だろう。更にわたしには結婚願望がないので、お互いお約束が守れる関係であれば結婚はいらないと思うのだ。
でもそれってなんだか淋しい、と最近思うようになった。
もっと焼け死ぬように恋人のことを想ってみたい。浮気されて激怒できるほど、わんわん泣いて嫌だと伝えられるほど、あるいは泣きすぎて伝えられないほど相手を自分だけのものにしたい気持ちに支配されたい。独占欲や支配欲とと履き違えていたとしてもそれがわからなくなっちゃうほど相手のことを愛したい。自分が愛されなかったとしても自分が愛した人のためだけに馬鹿になりたいし弱くなったり強くなったりしたい。信頼なんてどうでもよくなっちゃうくらいの愛を押し付けたい。
かといってそんなこと、しようと思ってできることではないし。きっとわたしはそんな経験をせずに生きて、そして死んでいくんだろうな。と洗濯機を回しながら思った連勤明けの土曜日の昼でした。おわり。