【日記】対話の虚像とSNS
友人であるはるまきごはんくんの曲に第三の心臓という曲がある。その冒頭にはこんなフレーズがある。
この歌詞に気づいたとき、やけに腑に落ちる表現だなあと思った。
例えば僕のことを真面目だと思っている人もいれば、大雑把だと言う人も、大人しいと思っている人もいる。騒がしい人だと思っている人もいる。
それは僕自身が知っている本当の僕ではなく、僕自身から読み取って、他人の中にイメージされた僕だ。第三の心臓ではそれを鏡に映った偽物と表現している。まさに虚像。
僕はプライベートで話す時、どうしても相手に合わせがちだ。どうやら僕は、相手と空気感が合っていて気持ちよく喋れればいいと思っているみたいだ。相手のことを見て、どこまで話していい人なんだろうとか、どんなテンポだと気持ちよく喋れる人なのかとかをつい考えてしまう。あるいは、そう言うことをサボってもいい人かどうかとかも判断する。そこに自分がこうしたいと言う気持ちを差し込んで対話していくような感じなんじゃないかな、たぶん。そういった行為の中に、きっと虚像は生まれていると思う。
でも、虚像はブレる。1年以上の付き合いのまったりとしたしゃべりの友達に、仕事の時の僕のハキハキとした喋りをする場面があって、とても驚かれたのが印象に残っている。
僕は特に、4人以上いる場所での会話が苦手だったりする。それは合わせる相手が複数いるから。鏡が複数あれば、お互いに反射しあい、虚像はブレていく。そうしてその論理積を見られて、本当の自分だと言うことがバレてしまう。加えて、そのために作った虚像もバレてしまう。これはとても恥ずかしいことだ。僕は嘘つきをしたいわけじゃないんだけど、嘘つきのように思われてたらと思うと凹んでしまうかも。
そんな僕だけど、ずっと思っていることがある。少なくとも、hako 生活と言う存在は僕自身ではないんだ。僕自身を、僕自身がなりたかった姿に近づけた彼が、日々Twitterで呟いてる。SNSは、自分の虚像を作るツールとしてうってつけなのかも。
もしかしたら逆さまのアイコンの鳥は、ひっくり返った虚像だったのかもしれない。
…とオチまで考えてみたんだけど、上下にひっくり返るのは鏡ではなくレンズの虚像だったね。SNSで自分を大きく見せてるという意味では、間違ってないのかも…。
オチも虚像もブレブレだけど、今日はおしまい。