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『俺ガイル結1』の映画館と比企谷家から本編と分岐を再考する。

はじめに

 本稿では、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。結1』(小学館ガガガ文庫、以下『俺ガイル結1』or『結1巻』)で描かれていた映画館と比企谷家の場面をそれぞれ取り上げて、考察を試みたいと思います。
 先月発売された『結2巻』のネタバレはありませんので、その点はご安心を。

 なお本編からの分岐については、以下の描写を切っ掛けに、Prelude最後の独白から少しずつずれて行ったという(おそらく無難だと思える)解釈をしています。

あたしはもう引き返せない横断歩道の向こうを見る。

結1巻、P.22

 以上、よろしくお願いします。

奉仕部の三人で映画を観なかった本編

 厳密に言えば、描写が無かっただけで実は本編でも年末に映画を観ていた可能性は残っていますが、完全には否定できないものを拾っていくとキリがないので「観なかった」と断言口調にしてあります。

 さて、映画については8巻の以下の描写が印象的でした。

 始まってもいなかったものを、今になってちゃんと終わらせることができた気がした。

8巻、P.165

 折本と並んで映画を観たことで彼我の距離感を自覚して、中学の頃のあれこれに区切りを付けたつもりの八幡でしたが、残念ながら事はそう簡単ではありません。
 つまり人間関係は相互的であるがゆえに、9巻で折本が八幡を「再発見」したことで、新たな関係性が立ち上がることになるからです。
 その流れは結1巻でも続いていて、それが本編からの分岐を促進させることになります。

 とはいえ八幡の中では「終わらせた」という意識のまま10巻から11巻へと進んで行ったように思われますし、本編での折本は顔見知りの部外者という域を出なかった感がありました。
 その理由として、八幡と折本が顔を合わせる機会が少なかったから、という点は重要ですが、もう一点。
 八幡と一色の行動からも、推測できることがあるのではないかと思うのです。

 ということで、分岐となった結1巻の話をする前に、まずはそれについて以下で述べておきたいと思います。

八幡の行動原理と一色

「どうでもいいですけど、先輩ビリヤードとか似合わないですね」
「ほっとけ」
「あ、でも卓球なら似合いますよ!」
「そんなフォローいらねぇよ……」
「……とりあえず、映画でいいか? 二時間はつぶせるぞ」
「なんで時間つぶし前提なんですか……。まぁ、先輩に任せますけど……」
「じゃあ、映画だな」
「わたし、これ観たいです」
「じゃあ俺こっち観るわ」
「あとで待ち合わせな。下のスタバでいいか?」
「……え、なに」
「なるほど。そういう対応するからああなるんですねー」
「映画はやめて、やっぱり卓球やりませんか?」

10.5巻、P.82-83、会話のみ抜粋

 折本と映画を観たことは、八幡の中では「終わったこと」であり、わだかまりなどは特にありません。だから一色にも気軽に提案できました。
 けれども問題は別々の映画を観ようとしたことで、この行動はかなり意図的なものだったと思われます。
 その根拠として以下の2つを引用します。

「と、なると効率重視で回るべきだな。じゃあ、俺こっち回るから」
「ええ、では私が反対側を受け持つわ」
「じゃあ、小町はこの奥のほうの」
「ストップです♪」
「なんだよ……っていうか指超痛ぇ……」
「何か問題でもあるのかしら?」
「お兄ちゃんも雪乃さんも、そのナチュラルに単独行動取ろうとするのやめましょう。せっかくなのでみんなで回りませんか? そのほうがアドバイスし合えるし、お得です」

3巻、P.105-106、会話のみ抜粋

 まずは由比ヶ浜の誕生日プレゼントを買いに行った時のこと。
 単独行動は良くないと、小町から学習済みであることが確認できます。

「この映画もうやってたんだ……」
「じゃ、映画にするか」
「あ、でも八幡の好きなのでいいよ!」
「いや、映画にしよう。よく考えたら、家族以外と映画観るのって初めてだし。たまにはいいだろ」

5巻、P.74、会話のみ抜粋

 そして夏休みには戸塚と一緒に映画を観ています。遊ぶ約束をしただけで何をするかは決めていなかった二人ですが、当日のノリで映画を観ることになりました。
 八幡の初めての相手が戸塚というのは、改めて考えてみると面白いですね。

 ここで10.5巻の一色に話を戻すと、「そういう対応するから」という発言は「別行動の提案」のみを指すのではなく、「別行動を提案する理由」までをも念頭に置いていることが窺えます。
 つまり八幡が「始まってしまわないような」対応を心掛けていることに、一色はここで気が付いたのだと受け取れます。

 先程は9巻で折本との間に新たな関係性が立ち上がったと書きましたが、その変化は八幡も感じ取っていたのでしょう。
 だからこそ、何かが始まってしまわないようにするために自分がどうすれば良いのかを、八幡はちゃんと理解していたと思われます。
 要するに、他者との接触の機会を極力減らそうとしていたのだと考えられます。

 そうした状況を把握した一色ですが、彼女が取った行動は興味深いものでした。

 おそらく普通なら八幡の提案を却下して、二人で一緒に映画を観ようとするのではないかと思います。
 そしておそらく八幡は、そのルートを妥協点として受け入れたであろうと思われます。むしろ「それ以上」を拒絶するために、極端な選択肢を提示したとも考えられます。

 けれども一色は少し前の会話や、気軽に映画を提案してきた態度から、八幡の過去の体験を大まかに察知したのでしょう。「映画は何度か行っている。でも卓球はおそらく行っていない」と。
 そして一色は、「八幡と映画を観た」グループの最後尾に加わるのを良しとせず、誰も体験したことのない「八幡と卓球」というルートに向かいます。

 メタ的な視点から言えば、ここで一色が「映画」を引き継がなかったことで、本編では奉仕部の三人で映画を観る展開が消えてしまった(少なくとも、遠ざかってしまった)のだと思います。
 と言うと結1巻とは時期が違うのではないかと思われるかもしれませんが、物語が分岐という構造を取る場合は一般的に、類似の展開を観察しやすいと思うのです。
 つまり時系列や参加者などの違いはあれども、作中の流れを極端にねじ曲げてしまう何かが起きない限りは、結1巻と同様に本編でも、奉仕部三人で映画を観る日がそのうち実現していたように思えるのです。

 その流れをねじ曲げてしまったのが、この時の一色の提案でした。
 それは同時に、「映画」の体験者である折本を「ここで終わらせる」ものでもあったと考えられます。
 というのは、雪ノ下と由比ヶ浜という八幡にとって特別な二人が「一緒に映画を観た」一団に属さないということは、「映画」という体験の価値が作中で著しく減少してしまうことになるからです。

 もちろん一色は、こうしたメタ的な理由で「卓球」を選んだのでは無いでしょう。
 では何故かというと、以下の場面が参考になるように思います。

一色は三浦と葉山を交互に見ると、ふふんと不敵に笑った。
 そして口元に手を添えると大きな声を出す。
「葉山先輩がんばってくださーい! ……あ、ついでに先輩も」
(略)
「は、隼人。……が、頑張ってね!」
 控えめな声は他の歓声の中に埋もれてしまいそうなくらいに小さい。だが、葉山は無言のまま手を上げ、そしてやはり穏やかな微笑みを浮かべた。
 三浦は陶然とそれを見ると、声も出さずにうんうんとゆっくり頷く。
 隣にいた一色は二人の様子を満足げに眺めてから、またこちらに向き直った。
「……先輩も頑張ってくださいねー!」
(略)
 そして、由比ヶ浜もぶんぶん手を振る。
「が、がんばれー!」
(略)
 すると、雪ノ下は声もなく小さく頷いた。ほんのわずか口元が動いた気がするが、声は届かない。
 なんて言ったのかはわからない。誰に向けているのかも知らない。
 だがまぁ、気合いは入った。

10巻、P.288-289

 古典的な男女関係において、「男は最初の男になりたがり、女は最後の女になりたがる」という言説がありました。
 それに倣って言うとすれば、一色は「最初」にこだわりを持っているようにも思えます。
 そこにはどのような意図があるのか、もう少し掘り下げていきましょう。

一色の行動原理と八幡・葉山

 さて、一色のようなキャラ設定だと、現実であれば中学生の頃に(場合によっては小学生の頃から)異性と付き合っていたでしょうし、その付き合いの長さに応じてそれなりの経験をしていたのではないかと思われます。
 ところが作中の一色にはそうした経験が全くないと考えられ、それはメタ的には、ラノベが暗黙に要請する制約に原因があると考えられます。
 つまり、性的な諸々に対する制約です。

 一色というキャラが興味深いのは、小説を書く上ではデメリットとも思えるこの種の制約を逆手に取って、その面倒な性格を裏付けるように描かれているからかもしれません。
 それはどういう事かというと、以下のやり取りが参考になると思います。

葉山はそっと視線を外し、どこか、この店内ではない、もっとどこか遠くを見ていた。
「結局、本当に人を好きになったことがないんだろうな」
 それは、胃の腑を摑むような言葉だ。わずか一瞬、呼吸が止まる。反射的に反論することもできない。そんなことさえ思いつかなかった。
 ただ、黙ってしまうのはよくないと直感して、わずかに口を開ける。それでも声は出てこなかった。
 返せる言葉を持たない俺に、葉山は自嘲するような微笑みを浮かべる。
「……君も、俺も」
 天を仰ぐように、そっと顔を上げる。葉山の横顔は懺悔でもしているかのようだ。
「だから勘違いしていたんだ」
 小さな呟き声は空気に溶けて霧散した。

8巻、P.183-184

 私が『俺ガイル』でリアルだなと思うのは、例えばこの場面で出てくる「本当に人を好きになった」という言語表現が持つ意味合いや射程が、キャラによって違うところ。そして、同じキャラでも時間の経過によって違って来るところです。
 それは、同じように彼我の感情を言語化した以下の一文と比較すると、分かり易いのではないでしょうか。

 あたしは、あたしたちは、初めて本当に恋をした。

14巻、P.345

 さて、この8巻の場面では以上に加えて、葉山の自己評価および八幡評が妥当か否か(葉山の思い込みに過ぎない可能性)が問われる上に、そもそも「遠くを見て」いる葉山が口にした「君」が八幡なのか。たとえ八幡だとしても、決して見逃せない別の他者が存在しているのではないか、といった留保が必要になって来るように思います。

 具体的に言ってしまうと、この時点では、葉山が思い描いている「君」(あるいは「君」=八幡の背後に見ている存在)は、「雪ノ下姉妹」(つまり、まだ両者とも当て嵌まる段階)だったと考えられます。

 そして9巻で告白された後の葉山の言動からは、「本当に人を好きになったことがない」と表現した自他の経験と照らし合わせることで、一色の気持ちを推測していたようにも思われます。
 これは逆に言えば、雪ノ下姉妹を背後に見る「君」の中には、八幡だけではなく一色も含まれていたことを意味します。

「……君は知ってるのか。なんでいろはが告白してきたか」
「いや、知るはずないだろ」
「そうか……」
「お前は知ってたのか。一色が、その……まぁ、気持ち的なもんは」
「……ああ」
「気づいてたんなら覚悟が足りなかっただけなんじゃねぇの」
「……そうじゃない。いろはの気持ちは素直に嬉しい。でも違うんだ。それは、たぶん、俺じゃなくて……」

9巻、P.355-356、会話のみ抜粋

 だからこそ、この9巻のやり取りにおいて言い淀んだ末に「ああ」と口にした葉山は、「八幡が推測する一色の気持ち」と「自身の推測」が異なることを自覚した上で肯定したのだと考えられ、ゆえに「そうじゃない」が切なく響きます。
 ここでの葉山の心情は、八幡にも多くの読者にも見過ごされやすい描かれ方をしていますね。

 以上の流れを確認した上で、一色を「本当に人を好きになったことがない」グループに加えてみると。つまり一色の葉山への気持ちは、少なくとも「本当に人を好きになった」ものとは違うのだと仮定してみると、今度は葉山の解像度が高まります。
 というのは、そのスペックの高さの割には、葉山もまた一色と同様に異性と付き合った経験が無さそうだからです。

 葉山と一色のキャラ設定の妙は、「異性と付き合った経験が無さそうなのは何故か?」という疑問と向き合う中で明らかになります。

 葉山が誰とも付き合わないのは、彼がいい奴だからではなく、意中の人と付き合えないから。すなわち、「本当に人を好きになった」という言葉の定義を自ら狭めていただけで、葉山が抱いている感情は、実際には「本当に人を好きになった」それだということ。
 これらを察するのは、読者目線ではさほど難しくないように思います。

 それに対して一色は、葉山への気持ちを「本当に人を好きになった」ものだと拡大解釈していたのでしょうけれど、実際には違っていたのかもしれません。
 とはいえ断言は難しいので、選択肢としては、葉山と八幡への気持ちのいずれがが当て嵌まる場合、両方が当て嵌まる場合、いずれも違う場合の4通りが考えられます。
 そして、この四択を決めきれないのは読者だけではなく、当の一色も似たようなものだった可能性があります。

 そう考えるに至ったところで、一色が「最初の女」になりたがっている理由をようやく推測できるようになりました。
 つまり「自分の気持ちをはっきりさせたい」という欲求が、一色を動かしているのではないかという推測です。

「……わたしも、本物が欲しくなったんです」

9巻、P.361

 一色のその欲求は、実は八幡が火を点けたものでした。
 だからこそ一色は余計に混乱したのだと思うのですが、八幡にとっても予想外の展開だったと思われます。
 これは八幡が一色を警戒する理由となり得ます。

 別々に映画を観るという提案を受けて、こうした八幡の意図を察した一色は、捻くれた先輩の許容範囲を見定めながら、同時に自らの欲求を果たせるように動きます。
 その結果が以下のやり取りです。

「とりあえず、今日は参考になりました。ありがとうございます」
 意外なほど素直に、一色は感謝の言葉を口にするとゆっくりお辞儀した。真面目で礼儀正しい一色の姿を見て呆気にとられ、おうとかうむとかこちらこそみたいなへどもどした言葉をごにょごにょ言っていると、顔を上げた一色が可笑しそうにくすっと笑う。
「……先輩もちゃんと参考にしてくださいね?」
 その眼差しは優しさに溢れていて、けれど言葉の裏には少しばかりの厳しさが見え隠れする。

10.5巻、P.123

 一色としては、少なくとも「葉山とは違う楽しさがあった」ことは確かでしょうし、「参考になりました」という言葉は本心であろうと思われます。
 しかし同時に「参考にしてくださいね」と念を押していることから、少し前に引用したマラソン大会の場面と似た心情であろうことも窺えます。

 あの時の三浦に対するのと同様に、「最初の女」としての優越感はきっとあったのでしょう。それは八幡への気持ちを推し量るための有力な手掛かりとなります。
 そして、「参考にしてくださいね」と言われた八幡が、同じように自分の気持ちを確かめるための参考にするとは欠片も考えていない一色は、今日を参考にしてあの二人とお出掛けする八幡を許容しています。

 それは何故なのか?
 あるいは、一色はそれで自分の気持ちを推し量れるのか?
 後者の問いへの答えは、イエスです。

 閉ざした扉が、二度と開くことのないように、固く鍵を掛けた。
 最後に一度だけ。
 その扉を撫でて、感触を肌に刻む。
 それが冷たければ冷たいほど。
 それが痛ければ痛いほど。
 選んだ答えが本物だと信じることができる。

13巻、P.358

 つまり一色もまた、自分の感情が本物であることを、「本当に人を好きになった」ものであることを証明するために、自らが傷つくやり方を選んでいるように思えるからです。

 この10.5巻のOVAでは、奉仕部の三人で遊びに行った様子がダイジェストで描かれていて、最後には一色の反応もありました。
 八幡に対して「参考になったみたいでよかったです」とささやく一色の胸の中では、全く同じ台詞が違う意味で響いていたのでしょうし、その時の感情の一端は13巻で間接的に描かれることになります。

ほんとにほんとに、ちゃんと責任とってほしい。

13巻、P.91

 あの日の一色が「最初の女」として行動したのと同様に、一色の意識の中では、あの日の八幡は「最初の男」だったと思われます。
 もちろんそれまでにも男性と出かけた経験はあったと思いますが、一色にとっては荷物持ちだったり暇つぶしの相手といった軽い扱いでしかなかったのでしょう。

 そして一色がとても可愛らしいなと思うのは、8巻で自らが遭遇したにもかかわらず折本のことを覚えていないので、映画の流れこそ断ち切ったものの(そして卓球はおそらく初めてだったものの)、八幡と千葉デートをした「最初の女」ではないことに全く気付いていないところではないかと思うのでした。
 がんばれいろはす……。

女子三名と八幡の相性、八幡との違い

 という終わり方だと何だか不憫なので、もう少しだけ話を続けてみます。
 タイトルや書き出しの割には結1巻とあまり関係がないというか、ここまでは本編から読み取れる話ばかりな気もしますが、あとちょっとだけお付き合い下さい。

「小町は常々、兄の相手をするには上から引っ張り上げるか下から押し上げるかしかないと思ってたんですが……なるほどなぁ。同じく普通にクズ同士って選択肢があったんだなぁ」

14巻、P.479

 八幡が一色を警戒して、表面上は(つまり八幡の一人称で描かれる地の文からは)全くなびく気配が無いように思えるのは、おそらく相性の良さを本能的に理解しているからだと思われます。
 上記は小町の評価で、初見の際には「クズ」という言葉が持つ意味合いの強さゆえに少し納得のいかない部分もあったのですが、「似た者同士」という側面は確かに感じられるように思います。

「一色さんも案外懐いているし……」
「あー……、うん。や、いろはちゃんはちょっと特殊な気もするけど……」
「比企谷くんもちょっと特殊なのよね……」
「それはそう。ほんとそう」
「なんか、気が合う? みたいな感じだよね」
「気が合うというよりは、同病相憐れむ……、いえ、同病相蔑む?」
「病気、ではないような……」
「となると、同じ穴の狢、みたいなことかしら……」
「むじな?」
「アナグマやタヌキのこと。(略)」
「へー……」
「関係ないけどタヌキ可愛いよね」
「では、例えとしては不適当ね……。一色さんは可愛らしいけれど、彼は、ね……」
「言葉濁しすぎだから!」(略)
「あっ。では共犯者、とか?」
「犯罪者扱い!? ……でも、ちょっとしっくりくる気もする」
「でしょ?」
「ちょっと変わった人に好かれやすいのかもね」
「うん。それは絶対そうだと思う」

結1巻、P.108-112、会話のみ抜粋

 それは雪ノ下と由比ヶ浜も同感のようで、結1巻では以上のように二人を評していました。
 一色本人の認識はどうあれ、他者から観察する限りでは、八幡と一色は相性が良いと思われている感がありますね。

 では八幡と雪ノ下・由比ヶ浜はどうかというと、雪ノ下とは相性が良いように描かれている感があります。それは特に、二人の間で交わされる遠慮のないやり取りの印象が強く作用しているのでしょう。
 それに対して由比ヶ浜は、八幡との会話が雪ノ下ほどは広がらない(由比ヶ浜が突っ込んで話題が終わってしまう)ことが多いので、あまり相性が良くないのではないかと考える方が少なからずいらっしゃるようにも思います。

 とはいえ相性とは不思議なもので、相手との類似性だけで語れるのかというと、決してそうではないと思うのです。
 それを八幡と雪ノ下の関係性を振り返りながら確認してみましょう。

「それにさ、お前と顔が似てるのに、笑った顔が全然違うだろ」
 俺は本物の笑顔を知っている。媚びたり、騙したり、誤魔化したりしない、本物を。

3巻、P.152

 ここの場面では姉妹の違いが肯定的に描かれています。
 優秀な姉との違いを八幡に指摘されたこの一幕は、雪ノ下にとって重要な意味を持つ事になります。

「まだ、あの人みたいになりたいと思ってるか?」
「どうかしら。今はあまり思わないけれど……ただ、姉さんは私にないものを持っているから」
「それが欲しいとか?」
「いいえ、なんで私はそれを持っていないんだろうって、持っていない自分に失望するの」
「あなたも、そうよ。あなたも私にないものを持っている。……ちっとも、似てなんかいなかったのね」
「そりゃそうだ……」
「だから、別のものが欲しかったんだと思う」
「私にできることが何もないって気づいてしまったから、あなたも姉さんも持っていないものが欲しくなった。……それがあれば、私は救えると思ったから」
「何をだ?」
「……さぁ、何かしら」

9巻、P346-347、会話のみ抜粋

 それが明確に描かれているのが9巻で、ここでは姉との違いに加えて八幡との違いが意識されています。
 つまり似ているということは代替が利くということでもあり、二人である必要は無いということにも繋がるので、関係性としては脆弱な側面があるからです。
 そう考えると、相性が良いと思えていた関係がとたんに怪しく思えて来ます。

「これくらいのことはあなたも考えていると思っていたから」

9巻、P.287

 実際に、同じ9巻ではこのような発言がありました。
 客観的には雪ノ下の買いかぶりだと思えるような場面ですが、これは11巻にて「依存」に由来するものであることが判明します。
 とはいえ「依存」までは行かなくとも、雪ノ下が「八幡さえ居れば、自分は不要ではないか?」と考えたようなことは、誰しも経験があるのではないでしょうか。

「こんな紛い物みたいな関係性はまちがっている。あなたが望んでくれたものとはきっと違う」

13巻、P.356

 その結果、八幡との違いを自身の中に見出せなかった雪ノ下は、いったんはこう言って関係を終わらせる決断を下します。
 だからこそ八幡は、雪ノ下との関係を繋ぎ止めるために、自分との違いを明確に伝えることを心掛けます。

「まぁ、俺では無理ですね」
「……けど、幸いプロムを取り仕切った経験者に当てがありまして。おたくの娘さんなんですけどね」(略)
「正直、成功させる自信はない。時間も金も何もかもが足りてないのに、厄介ごとだけは確実に増えてる。ぶっちゃけ、トラブルの方が多い。重大な問題が起きないとも限らない。何も保証はできない。あくまで俺のわがまま、個人的な理由だ。お前が無理にやる必要はない。かなり難しい案件だと思ってる。無理しなくていい」
「……安い挑発ね」

14巻、P.381-384、会話のみ抜粋

 具体的な言葉は口にせず、成否にはまるでこだわらず、否定を重ねることによって真意を浮かび上がらせる形で雪ノ下に伝えたのは、端的には「自分とは違って雪ノ下なら」「雪ノ下と一緒なら」という想いでした。
 ここで必要なのは二人の類似点ではなく、相違点です。

「……なんで、そんなどうでもいいバカみたいな言葉はぺらぺら出てくるの。もっと他に言うことあるでしょ」
「言えねぇだろ。……こんなの、言葉になってたまるかよ」
(略)
「私はちゃんと言うわ」

14巻、P.397-400、会話のみ抜粋

 その締め括りがこの場面であり、「言えない」八幡と「言える」雪ノ下の違いこそが、二人をパートナーにならしめた要因であると言えそうです。
 つまり、違いがあるからこそ相性が良いと言える関係も、世の中には多々あるのだと考えられます。

 ここで由比ヶ浜に話を戻すと、13巻でダミープロム計画に取り組んでいる時の二人は、お互いの役割を上手く分担できていました。
 八幡と他者を上手く繋げる由比ヶ浜と、独特の発想と行動力で計画を形にしていく八幡は、そう考えると相性がとても良いのだと言えそうです。

 結局のところ、この項の冒頭で引用した小町の評価で言い表せてしまう結論ではあるのですが、三者三様の相性の良さがあると思われますので、刊行中の『結』シリーズだけではなく『色』シリーズや、本編の続編である『新』の後の物語も、早く読みたいものですね。

奉仕部の三人で映画を観た分岐先

 とか何とか無難にまとめたところで、本題の結1巻の話に移ります。
 本題に入るまでに一万字を要するとか、他の人がやるならともかく自分がやるのはどうなのだと思わなくもないですが、書いてしまったことは仕方がないのでこのまま続けさせて下さいませ。

 で、まずは映画の話。

「ねぇねぇ、あたしたちも映画観ようよ」

結1巻、P.43

 この結1巻では本編と比べると由比ヶ浜との関わりが増えて、そのぶん雪ノ下との関わりが減っているように思います。
 それが目に付きやすい変化だとすれば、あまり目立たない変化として、一色との関わりも減っているように思えるのです。

 既に述べたように、折本との映画体験を本編で「終わらせた」のは一色でした。
 ところが分岐した結1巻では、上記の由比ヶ浜の提案を雪ノ下が受け入れて、二人と映画を観ることによって、八幡本人が「終わらせて」いる感じがします。
 つまり「映画を観る」という行為の重要性は保たれたまま、けれども前座と真打のように格の違いを確定させる形で、その行為は上書きされています。

考えてみれば部室でだらだら過ごす時間こそそれなりに重ねてきたが、三人だけで何の目的も依頼も仕事もなく街中を歩いたり、ましてや映画を観たりなんてことはなかったように思う。

結1巻、P.44

 こうした(映画の後にお茶をすることまで含めた)時間の過ごし方は、本編では一色のおかげで実現できたことでした。
 更に言えば、一色が仕事にかこつけて八幡との行為に及んだことを考慮すると、上記の描写は一色にとって一層厳しいものであるように思います。

 この辺りの変化を踏まえておくと、10.5巻(フリーペーパー)の時期に一色の逆襲がどのように描かれるのかが楽しみですね。

 銀幕からの光は二列前に座る二人の横顔を淡く照らし出していた。
 影になったお団子髪が跳ねるたび、濡れ羽色した黒髪が微笑むようにわずかに揺れている。影絵の世界はスクリーンの中よりよほど楽しい話が繰り広げられているらしい。
(略)
 気づけば、そんな姿ばかりを目で追ってしまっていて、映画の中身はまるで頭に入ってこなかった。

結1巻、P.46-47

 そんなこんなで映画を観た八幡ですが、映画を観ていませんでした。
 この八幡の行動を検討していく前に、俺ガイルとは違う書籍から引用をしておきたいと思います。

画面スクリーンと言うと、分離の空間、さらには見えるものを隠蔽する空間をただちにもたらすものと思われがちだ。「スクリーンとなる」という表現は、「隠す」「邪魔する」という意味である。だが、私たちがここで問題にしている画面とはイメージが出現する場のことである。(略)
画面上の視覚的受容は、常にある種の束の間の逃げ去る非場アトピー、つまり映像ヴィジョンや上映の時間のうちで起こる。この非-場所は社会的空間のうちに場所をもつ。それによって観客たちの空間や彼らの場所が形成される。彼らは相互に適切な距離をもって位置するが、ほとんど闇の中にいるために、彼らの身体と画面との現実的距離や、他の観客との現実的距離は消滅する傾向にある。つまり、何かが集団的な空間のなかに生じるわけだが、そこではスペクタクルの共同体と同時に、ヴィジョンの孤独が機能する。(略)
いったい何が共有されたのかという問いが出るのはスペクタクル終了後のことだ。(略)
他の者とともに見ること、これこそが問題である。というのも、人はいつも一人で見るからであり、他者と共有できるのは視界を逃れてゆくものでしかないからだ。見る身体と見られたイメージの間に見えない形で紡がれる何かが、私たちを横断する情念=受苦の運命において共有される意味や選択の横糸を構築するのだ。それは画面上で起こるにもかかわらず、そこには見えない。

マリ=ジョゼ・モンザン著、澤田直/黒木秀房 訳『イメージは殺すことができるか』
(叢書・ウニベルシタス1139、法政大学出版局)、P.41-44

 難しい話は専門の方にお任せするとして、ここで興味深いのは、八幡の行動がこれらの問題のうち前半部分の大半を解決しているように思えることと、後半部分の問題を未解決のまま引きずっているように思えることです。

 具体的には、八幡のまなざしは現実的な距離を保ったまま二人の姿を追っていた一方で、二人のまなざしはスクリーンの中に映し出された映画の世界に向けられていました。
 つまり八幡は「映画を観ている二人を観る」という体験をしたことになり、それは映画を観ていた二人とは共有できない体験となります。
 その結果として、折本と映画を観た時には出来ていたこと=映画の感想に口を挟んだり、上映中の反応を話題に出されるようなことが、二人とは出来ませんでした。

 つまり前言を翻すことになりますが、映画体験は完全には上書きされないまま、折本との体験は特異なものとしてかろうじて残り続けることになり。
 そして映画の後で入ったお店で折本と遭遇したことを思うと、物語の組み立てという点でも、八幡の行動は興味深いものだったと言えるのではないでしょうか。

はたして、融合なしに共同体を作り出すことはできるのだろうか。ともに生きることは、一者として生きることではないのだ。

前掲書、P.30

 今回引用した書籍は色々と示唆に富んでいて、例えばこの部分は先に述べた類似点と相違点の話とも繋がってくるように思います。

ネットがテレビを沈下させ、それを凌駕するのは、ネットがリアルタイムで作用するからだ。パフォーマンスの創造的で開放的な本質に対する最も重大な侵害は、まさに時間そのものを射程にした侵害である。ネットの流れにおける時間は、象徴形成の過程に必要な時間の遅延と袂別したのだ。(略)
というのも、思考は、まなざしを耐え忍ばせ、言葉パロールの息継ぎをさせるリズムを奪われるからである。

前掲書、P.108-109

 最終的にはこうした話にまで繋がって行くことになるのですが、一見すると俺ガイルとは大きく隔たってしまったように思えた事柄が、最後のたった一文によって思いがけない関連性を示されてしまい愕然とする、といった体験ができますので、興味のある方は目を通してみて下さい。

ただし、モンザンはかなり自由に変更して引用している。

前掲書、P.67

 とはいえ一応の注意として、上記のような傾向があることはお伝えしておきます。
 なので先に解説・あとがきを読まれた後で本編に進むと、読解がスムーズになるのではないかと思います。

比企谷家で重なり合う本編と分岐

 さて、折本と自転車二人乗りで帰ってきた八幡は、自宅の玄関先で小町と(そして川崎大志と)遭遇します。
 ここで本編と分岐の日付が重要になって来るのですが、残念ながら確定はできないように思います。

目の前に広がる光景は昨夜大掃除することを諦めてしまった俺の部屋。
 読み終わった本は山と積まれ、飲み終わったマッ缶は天を衝く。
 日々の慌ただしさと年末学期末の諸々が積み重なって、勉強机はいつ雪崩が起きてもおかしくない。
 今日はちゃんと片付けよう……。
(略)
 とりあえず今日のところは、(略)机の上だけどうにか形にし、残った箇所は後日に回すことにした。

結1巻、P.25-28

 つまり、10巻では大掃除の途中で本を読み始めていましたが、それが昨夜のことなのか、それとも「ちゃんと片付けよう」と思った後のことなのか、判然としません。

本を読んでいると、すっかり日は暮れていた。
(略)
 危ないところだった……。もし、今読んでいたのがシリーズものだったら勢いに任せて全巻読破してしまい、「最新刊まだかよ作者仕事しろ!」とか言いだすところだった。
 俺は寝ころんでいたソファから起き上がると、読み終えた本を本棚に戻す。
 これにて俺の大掃除は終了。ぜんぜん片づいてないけど、まぁ、終了。
(略)
 何はともあれ、少なくとも自室の本棚整理まではし終えたので、意気揚々とリビングへと引き揚げていく。
(略)
リビングにででんと横たわる、何やら不吉なオーラを放っている存在がいた。
 俺の妹、比企谷小町である。

10巻、P.12-13

 ひとつの可能性としては、机の上を片付けて本を本棚に戻そうとしたところで太宰の作品を発見して読み耽ってしまった、という流れが考えられます。
 そしてもうひとつは、太宰ではなくシリーズものが目についたので全巻読破してしまい、その結果として翌日になっても机の上には読み終わった本が積み重なっていた、という流れです。

 もしも前者なら、10巻で太宰を読んでいた時間帯に、結1巻では三人で映画を観ていたことになります。10巻にてリビングで小町と遭遇したのも同日ですね。

 そして後者なら、前日に太宰を読まず小町とも遭遇しなかった八幡が映画を観に行ったら雪ノ下・由比ヶ浜とばったり会ったという形になり、それは裏を返せば、10巻ではリビングから自室に戻った小町が初詣の連絡をしたので女子二人でのお出掛けが延期になった、という可能性を示唆します(もちろん延期は確定ではなく、年末にも二人でプリクラを撮って買い物に行っていた可能性も残っています)。

 このように本編と分岐を比較することで、一方では描かれていなかった出来事を他方から推測できると思うのですが、ここで掘り下げてみたいのは「小町との遭遇」です。
 そして小説の構造的には前者の流れのほうが、つまり10巻で太宰を読んでいた日と結1巻で映画に行った日が同じであるほうが、より深みが出るように思えます。
 その場合だと同じ日に、「小町との遭遇」がリビングか玄関先かという違いを伴って発生するからです。

「小町、大丈夫かお前……」
「うん……、ダメ……」
(略)
「大掃除、しないと……ごみ、ごみを片づけ……ごみいちゃんを、片づけ……」
「落ち着け小町。大掃除はもうだいたい終わってる。それに、お兄ちゃんはそう簡単には片づかん。気長に構えとけ」
「ううっ、小町的には早く片づいてほしいんだけど……」
(略)
 小町がこうなっている理由はだいたい察しがつく。おおかた受験がらみだろう。

10巻、P.14-15

 仮に同じ日だった場合、結1巻で描かれたように10巻でも小町は、自宅の前まで川崎大志と一緒に帰ってきたのだと考えられます。

「お兄さん、ちょっと話いいっすか」
(略)
「ちょっと話長くなっちゃいますかね。もしあれなら場所とか考えたほうがいいっすかね」
 言いながら、ちらっちらっちらちらちらっと玄関のほうへ視線をやっていた。

結1巻、P.144-147

 であれば、10巻の小町は兄に連絡することなく何とか大志にお帰りいただいて、その結果としてリビングで死んだようにうつ伏せで寝っ転がっていたのだと推測されます。

 それに対して分岐した結1巻では、兄が玄関先で大志と応対してくれたので、小町に負担は生じませんでした。
 その代わりに折本との顔合わせイベントが発生しましたが、それも兄の説明で納得できましたし、直後に由比ヶ浜から八幡に初詣のお誘いが来たので、ここでも小町の気遣いは不要となりました。

 こうした変化を確認した上で上記10巻の引用文を再読してみると、「小町がこうなっている理由」が受験などではないことが理解できるのではないかと思います。

 これが俺ガイルの面白いところだと私は思うのですが、何気なく書かれている八幡目線の地の文が盛大にまちがっている可能性があり、それが本編からの分岐を描いた『俺ガイル結1』という作品の描写から明らかになるというこの構成が、やはり私はたまらなく好きだなぁと思うのでした。

おわりに

 当初の予定では、映画を観た時の話と比企谷家の話を数千字ほどでさらっと書いて済ませるはずでしたが……。
 詳しい話をするための前提としての本編の話は、確かに必要ではあるものの、語り出したらキリがないのが楽しくもあり、書くのが難しい部分でもありますね。

 ここで書いたものは、あくまでも私個人の解釈に過ぎないので、「ここは違うのでは?」と引っ掛かった箇所があれば各々で読解を深めて下さるといいなと思いますし、その成果を教えて頂ける日が来るといいなと思っています。

 最後に、ここまで読んで下さってありがとうございました!