『俺ガイル結1』の映画館と比企谷家から本編と分岐を再考する。
はじめに
本稿では、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。結1』(小学館ガガガ文庫、以下『俺ガイル結1』or『結1巻』)で描かれていた映画館と比企谷家の場面をそれぞれ取り上げて、考察を試みたいと思います。
先月発売された『結2巻』のネタバレはありませんので、その点はご安心を。
なお本編からの分岐については、以下の描写を切っ掛けに、Prelude最後の独白から少しずつずれて行ったという(おそらく無難だと思える)解釈をしています。
以上、よろしくお願いします。
奉仕部の三人で映画を観なかった本編
厳密に言えば、描写が無かっただけで実は本編でも年末に映画を観ていた可能性は残っていますが、完全には否定できないものを拾っていくとキリがないので「観なかった」と断言口調にしてあります。
さて、映画については8巻の以下の描写が印象的でした。
折本と並んで映画を観たことで彼我の距離感を自覚して、中学の頃のあれこれに区切りを付けたつもりの八幡でしたが、残念ながら事はそう簡単ではありません。
つまり人間関係は相互的であるがゆえに、9巻で折本が八幡を「再発見」したことで、新たな関係性が立ち上がることになるからです。
その流れは結1巻でも続いていて、それが本編からの分岐を促進させることになります。
とはいえ八幡の中では「終わらせた」という意識のまま10巻から11巻へと進んで行ったように思われますし、本編での折本は顔見知りの部外者という域を出なかった感がありました。
その理由として、八幡と折本が顔を合わせる機会が少なかったから、という点は重要ですが、もう一点。
八幡と一色の行動からも、推測できることがあるのではないかと思うのです。
ということで、分岐となった結1巻の話をする前に、まずはそれについて以下で述べておきたいと思います。
八幡の行動原理と一色
折本と映画を観たことは、八幡の中では「終わったこと」であり、わだかまりなどは特にありません。だから一色にも気軽に提案できました。
けれども問題は別々の映画を観ようとしたことで、この行動はかなり意図的なものだったと思われます。
その根拠として以下の2つを引用します。
まずは由比ヶ浜の誕生日プレゼントを買いに行った時のこと。
単独行動は良くないと、小町から学習済みであることが確認できます。
そして夏休みには戸塚と一緒に映画を観ています。遊ぶ約束をしただけで何をするかは決めていなかった二人ですが、当日のノリで映画を観ることになりました。
八幡の初めての相手が戸塚というのは、改めて考えてみると面白いですね。
ここで10.5巻の一色に話を戻すと、「そういう対応するから」という発言は「別行動の提案」のみを指すのではなく、「別行動を提案する理由」までをも念頭に置いていることが窺えます。
つまり八幡が「始まってしまわないような」対応を心掛けていることに、一色はここで気が付いたのだと受け取れます。
先程は9巻で折本との間に新たな関係性が立ち上がったと書きましたが、その変化は八幡も感じ取っていたのでしょう。
だからこそ、何かが始まってしまわないようにするために自分がどうすれば良いのかを、八幡はちゃんと理解していたと思われます。
要するに、他者との接触の機会を極力減らそうとしていたのだと考えられます。
そうした状況を把握した一色ですが、彼女が取った行動は興味深いものでした。
おそらく普通なら八幡の提案を却下して、二人で一緒に映画を観ようとするのではないかと思います。
そしておそらく八幡は、そのルートを妥協点として受け入れたであろうと思われます。むしろ「それ以上」を拒絶するために、極端な選択肢を提示したとも考えられます。
けれども一色は少し前の会話や、気軽に映画を提案してきた態度から、八幡の過去の体験を大まかに察知したのでしょう。「映画は何度か行っている。でも卓球はおそらく行っていない」と。
そして一色は、「八幡と映画を観た」グループの最後尾に加わるのを良しとせず、誰も体験したことのない「八幡と卓球」というルートに向かいます。
メタ的な視点から言えば、ここで一色が「映画」を引き継がなかったことで、本編では奉仕部の三人で映画を観る展開が消えてしまった(少なくとも、遠ざかってしまった)のだと思います。
と言うと結1巻とは時期が違うのではないかと思われるかもしれませんが、物語が分岐という構造を取る場合は一般的に、類似の展開を観察しやすいと思うのです。
つまり時系列や参加者などの違いはあれども、作中の流れを極端にねじ曲げてしまう何かが起きない限りは、結1巻と同様に本編でも、奉仕部三人で映画を観る日がそのうち実現していたように思えるのです。
その流れをねじ曲げてしまったのが、この時の一色の提案でした。
それは同時に、「映画」の体験者である折本を「ここで終わらせる」ものでもあったと考えられます。
というのは、雪ノ下と由比ヶ浜という八幡にとって特別な二人が「一緒に映画を観た」一団に属さないということは、「映画」という体験の価値が作中で著しく減少してしまうことになるからです。
もちろん一色は、こうしたメタ的な理由で「卓球」を選んだのでは無いでしょう。
では何故かというと、以下の場面が参考になるように思います。
古典的な男女関係において、「男は最初の男になりたがり、女は最後の女になりたがる」という言説がありました。
それに倣って言うとすれば、一色は「最初」にこだわりを持っているようにも思えます。
そこにはどのような意図があるのか、もう少し掘り下げていきましょう。
一色の行動原理と八幡・葉山
さて、一色のようなキャラ設定だと、現実であれば中学生の頃に(場合によっては小学生の頃から)異性と付き合っていたでしょうし、その付き合いの長さに応じてそれなりの経験をしていたのではないかと思われます。
ところが作中の一色にはそうした経験が全くないと考えられ、それはメタ的には、ラノベが暗黙に要請する制約に原因があると考えられます。
つまり、性的な諸々に対する制約です。
一色というキャラが興味深いのは、小説を書く上ではデメリットとも思えるこの種の制約を逆手に取って、その面倒な性格を裏付けるように描かれているからかもしれません。
それはどういう事かというと、以下のやり取りが参考になると思います。
私が『俺ガイル』でリアルだなと思うのは、例えばこの場面で出てくる「本当に人を好きになった」という言語表現が持つ意味合いや射程が、キャラによって違うところ。そして、同じキャラでも時間の経過によって違って来るところです。
それは、同じように彼我の感情を言語化した以下の一文と比較すると、分かり易いのではないでしょうか。
さて、この8巻の場面では以上に加えて、葉山の自己評価および八幡評が妥当か否か(葉山の思い込みに過ぎない可能性)が問われる上に、そもそも「遠くを見て」いる葉山が口にした「君」が八幡なのか。たとえ八幡だとしても、決して見逃せない別の他者が存在しているのではないか、といった留保が必要になって来るように思います。
具体的に言ってしまうと、この時点では、葉山が思い描いている「君」(あるいは「君」=八幡の背後に見ている存在)は、「雪ノ下姉妹」(つまり、まだ両者とも当て嵌まる段階)だったと考えられます。
そして9巻で告白された後の葉山の言動からは、「本当に人を好きになったことがない」と表現した自他の経験と照らし合わせることで、一色の気持ちを推測していたようにも思われます。
これは逆に言えば、雪ノ下姉妹を背後に見る「君」の中には、八幡だけではなく一色も含まれていたことを意味します。
だからこそ、この9巻のやり取りにおいて言い淀んだ末に「ああ」と口にした葉山は、「八幡が推測する一色の気持ち」と「自身の推測」が異なることを自覚した上で肯定したのだと考えられ、ゆえに「そうじゃない」が切なく響きます。
ここでの葉山の心情は、八幡にも多くの読者にも見過ごされやすい描かれ方をしていますね。
以上の流れを確認した上で、一色を「本当に人を好きになったことがない」グループに加えてみると。つまり一色の葉山への気持ちは、少なくとも「本当に人を好きになった」ものとは違うのだと仮定してみると、今度は葉山の解像度が高まります。
というのは、そのスペックの高さの割には、葉山もまた一色と同様に異性と付き合った経験が無さそうだからです。
葉山と一色のキャラ設定の妙は、「異性と付き合った経験が無さそうなのは何故か?」という疑問と向き合う中で明らかになります。
葉山が誰とも付き合わないのは、彼がいい奴だからではなく、意中の人と付き合えないから。すなわち、「本当に人を好きになった」という言葉の定義を自ら狭めていただけで、葉山が抱いている感情は、実際には「本当に人を好きになった」それだということ。
これらを察するのは、読者目線ではさほど難しくないように思います。
それに対して一色は、葉山への気持ちを「本当に人を好きになった」ものだと拡大解釈していたのでしょうけれど、実際には違っていたのかもしれません。
とはいえ断言は難しいので、選択肢としては、葉山と八幡への気持ちのいずれがが当て嵌まる場合、両方が当て嵌まる場合、いずれも違う場合の4通りが考えられます。
そして、この四択を決めきれないのは読者だけではなく、当の一色も似たようなものだった可能性があります。
そう考えるに至ったところで、一色が「最初の女」になりたがっている理由をようやく推測できるようになりました。
つまり「自分の気持ちをはっきりさせたい」という欲求が、一色を動かしているのではないかという推測です。
一色のその欲求は、実は八幡が火を点けたものでした。
だからこそ一色は余計に混乱したのだと思うのですが、八幡にとっても予想外の展開だったと思われます。
これは八幡が一色を警戒する理由となり得ます。
別々に映画を観るという提案を受けて、こうした八幡の意図を察した一色は、捻くれた先輩の許容範囲を見定めながら、同時に自らの欲求を果たせるように動きます。
その結果が以下のやり取りです。
一色としては、少なくとも「葉山とは違う楽しさがあった」ことは確かでしょうし、「参考になりました」という言葉は本心であろうと思われます。
しかし同時に「参考にしてくださいね」と念を押していることから、少し前に引用したマラソン大会の場面と似た心情であろうことも窺えます。
あの時の三浦に対するのと同様に、「最初の女」としての優越感はきっとあったのでしょう。それは八幡への気持ちを推し量るための有力な手掛かりとなります。
そして、「参考にしてくださいね」と言われた八幡が、同じように自分の気持ちを確かめるための参考にするとは欠片も考えていない一色は、今日を参考にしてあの二人とお出掛けする八幡を許容しています。
それは何故なのか?
あるいは、一色はそれで自分の気持ちを推し量れるのか?
後者の問いへの答えは、イエスです。
つまり一色もまた、自分の感情が本物であることを、「本当に人を好きになった」ものであることを証明するために、自らが傷つくやり方を選んでいるように思えるからです。
この10.5巻のOVAでは、奉仕部の三人で遊びに行った様子がダイジェストで描かれていて、最後には一色の反応もありました。
八幡に対して「参考になったみたいでよかったです」とささやく一色の胸の中では、全く同じ台詞が違う意味で響いていたのでしょうし、その時の感情の一端は13巻で間接的に描かれることになります。
あの日の一色が「最初の女」として行動したのと同様に、一色の意識の中では、あの日の八幡は「最初の男」だったと思われます。
もちろんそれまでにも男性と出かけた経験はあったと思いますが、一色にとっては荷物持ちだったり暇つぶしの相手といった軽い扱いでしかなかったのでしょう。
そして一色がとても可愛らしいなと思うのは、8巻で自らが遭遇したにもかかわらず折本のことを覚えていないので、映画の流れこそ断ち切ったものの(そして卓球はおそらく初めてだったものの)、八幡と千葉デートをした「最初の女」ではないことに全く気付いていないところではないかと思うのでした。
がんばれいろはす……。
女子三名と八幡の相性、八幡との違い
という終わり方だと何だか不憫なので、もう少しだけ話を続けてみます。
タイトルや書き出しの割には結1巻とあまり関係がないというか、ここまでは本編から読み取れる話ばかりな気もしますが、あとちょっとだけお付き合い下さい。
八幡が一色を警戒して、表面上は(つまり八幡の一人称で描かれる地の文からは)全くなびく気配が無いように思えるのは、おそらく相性の良さを本能的に理解しているからだと思われます。
上記は小町の評価で、初見の際には「クズ」という言葉が持つ意味合いの強さゆえに少し納得のいかない部分もあったのですが、「似た者同士」という側面は確かに感じられるように思います。
それは雪ノ下と由比ヶ浜も同感のようで、結1巻では以上のように二人を評していました。
一色本人の認識はどうあれ、他者から観察する限りでは、八幡と一色は相性が良いと思われている感がありますね。
では八幡と雪ノ下・由比ヶ浜はどうかというと、雪ノ下とは相性が良いように描かれている感があります。それは特に、二人の間で交わされる遠慮のないやり取りの印象が強く作用しているのでしょう。
それに対して由比ヶ浜は、八幡との会話が雪ノ下ほどは広がらない(由比ヶ浜が突っ込んで話題が終わってしまう)ことが多いので、あまり相性が良くないのではないかと考える方が少なからずいらっしゃるようにも思います。
とはいえ相性とは不思議なもので、相手との類似性だけで語れるのかというと、決してそうではないと思うのです。
それを八幡と雪ノ下の関係性を振り返りながら確認してみましょう。
ここの場面では姉妹の違いが肯定的に描かれています。
優秀な姉との違いを八幡に指摘されたこの一幕は、雪ノ下にとって重要な意味を持つ事になります。
それが明確に描かれているのが9巻で、ここでは姉との違いに加えて八幡との違いが意識されています。
つまり似ているということは代替が利くということでもあり、二人である必要は無いということにも繋がるので、関係性としては脆弱な側面があるからです。
そう考えると、相性が良いと思えていた関係がとたんに怪しく思えて来ます。
実際に、同じ9巻ではこのような発言がありました。
客観的には雪ノ下の買いかぶりだと思えるような場面ですが、これは11巻にて「依存」に由来するものであることが判明します。
とはいえ「依存」までは行かなくとも、雪ノ下が「八幡さえ居れば、自分は不要ではないか?」と考えたようなことは、誰しも経験があるのではないでしょうか。
その結果、八幡との違いを自身の中に見出せなかった雪ノ下は、いったんはこう言って関係を終わらせる決断を下します。
だからこそ八幡は、雪ノ下との関係を繋ぎ止めるために、自分との違いを明確に伝えることを心掛けます。
具体的な言葉は口にせず、成否にはまるでこだわらず、否定を重ねることによって真意を浮かび上がらせる形で雪ノ下に伝えたのは、端的には「自分とは違って雪ノ下なら」「雪ノ下と一緒なら」という想いでした。
ここで必要なのは二人の類似点ではなく、相違点です。
その締め括りがこの場面であり、「言えない」八幡と「言える」雪ノ下の違いこそが、二人をパートナーにならしめた要因であると言えそうです。
つまり、違いがあるからこそ相性が良いと言える関係も、世の中には多々あるのだと考えられます。
ここで由比ヶ浜に話を戻すと、13巻でダミープロム計画に取り組んでいる時の二人は、お互いの役割を上手く分担できていました。
八幡と他者を上手く繋げる由比ヶ浜と、独特の発想と行動力で計画を形にしていく八幡は、そう考えると相性がとても良いのだと言えそうです。
結局のところ、この項の冒頭で引用した小町の評価で言い表せてしまう結論ではあるのですが、三者三様の相性の良さがあると思われますので、刊行中の『結』シリーズだけではなく『色』シリーズや、本編の続編である『新』の後の物語も、早く読みたいものですね。
奉仕部の三人で映画を観た分岐先
とか何とか無難にまとめたところで、本題の結1巻の話に移ります。
本題に入るまでに一万字を要するとか、他の人がやるならともかく自分がやるのはどうなのだと思わなくもないですが、書いてしまったことは仕方がないのでこのまま続けさせて下さいませ。
で、まずは映画の話。
この結1巻では本編と比べると由比ヶ浜との関わりが増えて、そのぶん雪ノ下との関わりが減っているように思います。
それが目に付きやすい変化だとすれば、あまり目立たない変化として、一色との関わりも減っているように思えるのです。
既に述べたように、折本との映画体験を本編で「終わらせた」のは一色でした。
ところが分岐した結1巻では、上記の由比ヶ浜の提案を雪ノ下が受け入れて、二人と映画を観ることによって、八幡本人が「終わらせて」いる感じがします。
つまり「映画を観る」という行為の重要性は保たれたまま、けれども前座と真打のように格の違いを確定させる形で、その行為は上書きされています。
こうした(映画の後にお茶をすることまで含めた)時間の過ごし方は、本編では一色のおかげで実現できたことでした。
更に言えば、一色が仕事にかこつけて八幡との行為に及んだことを考慮すると、上記の描写は一色にとって一層厳しいものであるように思います。
この辺りの変化を踏まえておくと、10.5巻(フリーペーパー)の時期に一色の逆襲がどのように描かれるのかが楽しみですね。
そんなこんなで映画を観た八幡ですが、映画を観ていませんでした。
この八幡の行動を検討していく前に、俺ガイルとは違う書籍から引用をしておきたいと思います。
難しい話は専門の方にお任せするとして、ここで興味深いのは、八幡の行動がこれらの問題のうち前半部分の大半を解決しているように思えることと、後半部分の問題を未解決のまま引きずっているように思えることです。
具体的には、八幡のまなざしは現実的な距離を保ったまま二人の姿を追っていた一方で、二人のまなざしはスクリーンの中に映し出された映画の世界に向けられていました。
つまり八幡は「映画を観ている二人を観る」という体験をしたことになり、それは映画を観ていた二人とは共有できない体験となります。
その結果として、折本と映画を観た時には出来ていたこと=映画の感想に口を挟んだり、上映中の反応を話題に出されるようなことが、二人とは出来ませんでした。
つまり前言を翻すことになりますが、映画体験は完全には上書きされないまま、折本との体験は特異なものとしてかろうじて残り続けることになり。
そして映画の後で入ったお店で折本と遭遇したことを思うと、物語の組み立てという点でも、八幡の行動は興味深いものだったと言えるのではないでしょうか。
今回引用した書籍は色々と示唆に富んでいて、例えばこの部分は先に述べた類似点と相違点の話とも繋がってくるように思います。
最終的にはこうした話にまで繋がって行くことになるのですが、一見すると俺ガイルとは大きく隔たってしまったように思えた事柄が、最後のたった一文によって思いがけない関連性を示されてしまい愕然とする、といった体験ができますので、興味のある方は目を通してみて下さい。
とはいえ一応の注意として、上記のような傾向があることはお伝えしておきます。
なので先に解説・あとがきを読まれた後で本編に進むと、読解がスムーズになるのではないかと思います。
比企谷家で重なり合う本編と分岐
さて、折本と自転車二人乗りで帰ってきた八幡は、自宅の玄関先で小町と(そして川崎大志と)遭遇します。
ここで本編と分岐の日付が重要になって来るのですが、残念ながら確定はできないように思います。
つまり、10巻では大掃除の途中で本を読み始めていましたが、それが昨夜のことなのか、それとも「ちゃんと片付けよう」と思った後のことなのか、判然としません。
ひとつの可能性としては、机の上を片付けて本を本棚に戻そうとしたところで太宰の作品を発見して読み耽ってしまった、という流れが考えられます。
そしてもうひとつは、太宰ではなくシリーズものが目についたので全巻読破してしまい、その結果として翌日になっても机の上には読み終わった本が積み重なっていた、という流れです。
もしも前者なら、10巻で太宰を読んでいた時間帯に、結1巻では三人で映画を観ていたことになります。10巻にてリビングで小町と遭遇したのも同日ですね。
そして後者なら、前日に太宰を読まず小町とも遭遇しなかった八幡が映画を観に行ったら雪ノ下・由比ヶ浜とばったり会ったという形になり、それは裏を返せば、10巻ではリビングから自室に戻った小町が初詣の連絡をしたので女子二人でのお出掛けが延期になった、という可能性を示唆します(もちろん延期は確定ではなく、年末にも二人でプリクラを撮って買い物に行っていた可能性も残っています)。
このように本編と分岐を比較することで、一方では描かれていなかった出来事を他方から推測できると思うのですが、ここで掘り下げてみたいのは「小町との遭遇」です。
そして小説の構造的には前者の流れのほうが、つまり10巻で太宰を読んでいた日と結1巻で映画に行った日が同じであるほうが、より深みが出るように思えます。
その場合だと同じ日に、「小町との遭遇」がリビングか玄関先かという違いを伴って発生するからです。
仮に同じ日だった場合、結1巻で描かれたように10巻でも小町は、自宅の前まで川崎大志と一緒に帰ってきたのだと考えられます。
であれば、10巻の小町は兄に連絡することなく何とか大志にお帰りいただいて、その結果としてリビングで死んだようにうつ伏せで寝っ転がっていたのだと推測されます。
それに対して分岐した結1巻では、兄が玄関先で大志と応対してくれたので、小町に負担は生じませんでした。
その代わりに折本との顔合わせイベントが発生しましたが、それも兄の説明で納得できましたし、直後に由比ヶ浜から八幡に初詣のお誘いが来たので、ここでも小町の気遣いは不要となりました。
こうした変化を確認した上で上記10巻の引用文を再読してみると、「小町がこうなっている理由」が受験などではないことが理解できるのではないかと思います。
これが俺ガイルの面白いところだと私は思うのですが、何気なく書かれている八幡目線の地の文が盛大にまちがっている可能性があり、それが本編からの分岐を描いた『俺ガイル結1』という作品の描写から明らかになるというこの構成が、やはり私はたまらなく好きだなぁと思うのでした。
おわりに
当初の予定では、映画を観た時の話と比企谷家の話を数千字ほどでさらっと書いて済ませるはずでしたが……。
詳しい話をするための前提としての本編の話は、確かに必要ではあるものの、語り出したらキリがないのが楽しくもあり、書くのが難しい部分でもありますね。
ここで書いたものは、あくまでも私個人の解釈に過ぎないので、「ここは違うのでは?」と引っ掛かった箇所があれば各々で読解を深めて下さるといいなと思いますし、その成果を教えて頂ける日が来るといいなと思っています。
最後に、ここまで読んで下さってありがとうございました!