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クラウン*ベスのアメリカ体験記 vol.29

米国で”地上最大のショウ” リングリングサーカスのブルーユニットに入団したエリザベス! 今回はサーカスの始まった歴史とリングリングサーカスの乗馬の芸についてです。


フィリップ・アストリー

英語の「Circus」という言葉は14世紀に証明され、ラテン語の「Circus」に由来していると言われています。ギリシャ語では「kirkos」と呼ばれ、「円」や「輪」という意味がありローマ字化すると「Circus」になるそうです。
サーカスの起源はイギリス説やギリシャ説があり、一般に「近代サーカスの父」と呼ばれているのは、イギリス人のフィリップ・アストリー( Philip Astley)です。彼は9歳の時に父の弟子になりましたが、馬が大好きで馬術に長けていました。彼の夢は馬を扱う仕事をすることだったので17歳の時にエリオット大佐の第15騎兵隊に加わり後に曹長になりました。ブロイセン王国とオーストリアの対立がきっかけとなって起こった「7年戦争」は1756年から63年まで続き、その間曹長として奉仕したフィリップは乗馬のプロのトレーナーやライダー達と関わる機会に恵まれました。彼自身も凄腕の騎手だったそうです。彼の天才的と言われた技は乗馬中にスタントを行う「トリックライディング」と言われる馬術でした。フィリップ自身もトリックライディングが群集から最も注目を集めていることに気づき、将来はアクロバティックの乗馬スキルのショーも実施できる乗馬学校をロンドンに開校するというアイディアが芽生えていきます。1768年、フィリップが現在のロンドンのウォータールー地区のセントジョンズ教会の裏手にある野外で馬術のデモンストレーションを行った際には、技と技の間に観客を楽しませるためにショーにクラウンを追加しました。1769年にはウエストミンスター橋の南にある柵で囲まれた敷地に移り乗馬学校を開き、ショーの内容を拡大しました。フィリップは午前中は乗馬を教え、午後は素晴らしい馬術を披露したそうです。

フィリップ が開設した、オリジナルのアストリーの円形劇場(1777年)外観
フィリップ が開設した、オリジナルのアストリーの円形劇場(1777年)競技場

フィリップは次第に名声を築き始め裕福になっていきます。2シーズンロンドンで過ごした後彼は自分のパフォーマンスに斬新さをもたらす必要があった為、他の馬術師、ミュージシャン、クラウン、ジャグラー、タンブラー、綱渡り師、踊る犬などを雇い現代のサーカスが誕生しました。
フィリップの当初のサーカスのリングは直径65フィート(約19メートル)でしたが、後に彼はその直径を42フィート(約13メートル)に決定し、それ以来サーカスの国際標準となっています。サーカスリングの大きさも実はフィリップの馬術の歴史が大きく関わっているのです。

火災の後立て直されたアストリーの円形劇場(1808年)


カンバロフ・ライダーズ

128thエディションのリングリングサーカス「サイドショー」ツアーでは、トリックライディングのエキスパート達、「カンバロフ・ライダーズ」(Kambarov Riders)がスピード感のある美しい馬達のギャロップに乗せてアクロバティックな馬術を披露して観客を楽しませます。

リングリングサーカスの128thエディションの「カンバロフ・ライダーズ」

彼らはキルギスタン(キルギス共和国)出身です。キルギスタンは旧ソビエト連邦の構成国で公用語はキルギス語とロシア語です。中央アジアに位置し、ウズベキスタン、カザフタン、タジキスタンに囲まれた海のない山がちな内陸国は、中国の草原と国境を接していて、20世紀までほとんどのキルギス人はパオと呼ばれる丸いフェルトのテントに住み馬に乗って羊を飼っていました。
カンバロフ・ライダーズがリングリングサーカスにたどり着くまでは長い道のりがありました。騎手達の多くが所属していた国家支援のサーカスへの資金提供はソ連の崩壊と共に崩壊し、一時はこの才能ある一座は破滅するかのように思われました。しかし、この混乱は13人の騎手達の一座の新しい扉を開くことになります。ベクチャー・クバ二チベコフ氏(Bektur Kubanychbekov)の指導の下、彼らは1995年リングリングサーカス 「The Greatest Show On Earth」のショーに参加することになったのです。そして今回全く新しい大胆な騎乗を披露し128thエディションに戻ってきたのです。

10名のライダー達はキルギスタンで飼育されスピードと強さで有名な厳選された馬にまたがり、リング2に入場です。4頭の白い馬達が中央で円を描きその周りを黒い馬達が逆方向に回っていきメリーゴーランドを披露した後はエネルギッシュな数々のトリックを見せていきます。馬が全速力で疾走している中、倒立したり、一人の騎手がアリーナのフロアーから全速力で仲間のライダーの肩へ飛び乗ったり、2人の騎手が同じ馬の背中でバランスをとりながらそれぞれ馬の下を這ったりします。彼らが使用する特注のサドルには様々な手掛かりや足場がついています。団長のイチベック・カンバロフ氏は「パフォーマンスは我々にとって自分の足で立って誠実に仕事をする千に一度のチャンスなんだ。」と語っていました。自国の伝統に対する敬意と誇りを感じました。

騎手が馬の下を這う危険な技。サドルの写真も掲載されています。
「カンバロフ・ライダーズ」の馬術の一部

バックステージで彼らは常にウエイトトレーニングを欠かさず、グループで喧嘩をしているところは見たことはありません。団長の息子と娘もアクトに参加していて、毎日サーカススクールで勉強していました。サーカススクールは高校生以下の学生が毎日通って勉強する場で、他の楽屋同様カーテンで仕切って部屋を作った簡単なものです。先生もツアー中同行して年齢の違う子供達の勉強を見ています。スクールがクラウンの楽屋の近くだったことがよくあり団長の娘とはよく話をしました。高校生だった彼女は背が高く一見大人びているけれどお喋りをするとごく普通の可愛い女子高生。その見た目と性格のギャップが印象的でした。いつも笑顔で銀色の歯列矯正器つけていました。どちらかと言うと静かでおっとりした優しい性格。彼女が全力で疾走する馬の上で危険な技をやっているとは思えません。決して派手な目立ちたがりでは無かったけど、父親を尊敬して一緒に頑張っている彼女はいつもどこかでキラリと光っていました。彼女は今もどこかでキラリと輝きながら生活しているんでしょうね。

「カンバロフ・ライダーズ」の馬術の一部

続く。。。


書いたのは、

エリザベス

1990年クラウンカレッジジャパン2期卒業生。7年間日本でクラウンとして活躍後、渡米。アメリカとカナダのサーカスで10年間クラウニングを続行。その後10年間マクドナルドのクラウン、ロナルドのアシスタントを務める。現在アメリカ在住。

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