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プラモデルのミキシングビルドと自分の話
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軽い気持ちでSDガンダムとミキシングビルドについて書いたらとんでもない文字数になったのでnoteに書いてみました!
結論、発散ベースで8000字超えています!笑
ミキシングの具体的な話はなく、何で始めたんだっけ、どういうことが起こってハマってったんだっけ、という備忘録と年表的な話です!
暇な時にお読みいただけると嬉しいです。
1.センサーに関するミキシングの発生形態
今の趣味に繋がる最初の記憶は、SDガンダムだ。
どれが最初から覚えていないけれど、ガンダムペンションや外伝のアニメを毎日見ていたのを覚えてる。
気がつくと家には元祖SDガンダムがあって、ポリパーツが共通だったからいろいろ組み替えて遊んだのがミキシングビルド(複数のプラモデルを混ぜて別のものを作る事)の始まりだった。
元祖は特にそう遊べと書いてはいなかったが、そう遊べるのが魅力の一つなんじゃないかなと思う。
小学生になって親戚のおばさんに元祖は高いからとBB戦士のアルガスゼータを買ってもらったのが初めてのプラモデルだった。胴体が難しくて親に作ってもらったのを覚えている。馬の出来はよくて壊れずに今もどこかにあると思う。
その後元祖に戻るものの、父がエビルエンペラーの手首を逆につけていたことをきっかけに自分で作るようになった。
自己完結出来るようになると、お小遣いでも買うようになり、コストや頻度、物量的にBB戦士を買い進めていくことになった。軸も太くなったり組みやすくなったことも大きい。
キット同士の連動ギミックがあって、どう楽しんでもいいと書いてあったこともあって「これもアリだな!」と特に違和感なくパーツを混ぜていた気がする。
当時は情報量はSDガンダムが圧倒的だったが、アニメや漫画はOVAや月間だったので描かれない部分が多く、インプットが尽きてしまうと妄想をして過ごしていた。
気がつけばミキシングしたオリジナルキャラで遊んでたと思う。
元祖のキャプテンネオにスターガンセイヴァーの手足をつけたのがカッコよくて、それを主人公に妄想を進めた。
弟のビーダマンや妹のシルバニアファミリーも巻き込んで、子ども部屋はまるまるおもちゃの都市になって、たくさんの妄想を共有してた。
ビーダマンの採掘場からガンレックスが出土し、うさぎの赤ちゃんが操者だった時の脳汁はもう味わえないだろう(ピッタリ乗れた)
それぞれのおもちゃや知識を持ち寄って混ぜ合わせて話を作っていく。あれも今考えるとミキシングビルドする遊びの一つだったのかもしれない。
そうしていく中で、だんだんとプラモを混ぜて改造する遊びが残っていった。
高校生になって、友達にプラモを貸して一緒に改造して遊んだことはあったが、趣味として周りにやってる人はほぼ居なかった。
自分が好きだから1人でプラモを作って、お話を妄想して、敵を作って、強化して、ひっそり1人で遊んでいた。
“ミキシング”“見立て改造”なんて言葉も知らず、ただひたすら自分のかっこいいと思う形を組んではバラして、を繰り返して。
ブロックのような感覚で延々組んで変えてバラしていた。
当時は、児童誌も、模型誌も“改造はパテなどでやろう!”と記載されてるのが普通だった。合わせ目を消して、表面綺麗にして、足りないパーツは自作する。そこには憧れもあったが、粘土遊びでそこまでの造形ができない自分には『天性の才能がある人がやることなんだろな』と思ってパテではチャレンジしなかった。
それでも親戚のおじさんがホビージャパンを買ってるのを読ませてもらったり、ボンボンは好きでずっと買って作例などを読んでインプットだけは続けた。魔法みたいな作り方でガンプラが形になることは興味があったからだ。
耳鼻科に行くとプラモのフルスクラッチの本がなぜか一冊だけ置いてあってそこに行くといつも必ず読んでいた。パテ塊からの削り出しの方法を読んでは“自分には到底無理な技術で作られている”と子どもながらに諦観を持って見ていたし、合わせ目を消しすらSDガンダムには必要性を感じなかった。
自分がやりたいのは“大好きなSDガンダムやキャラクターで妄想すること”であって、綺麗なプラモが欲しいわけではなかったからだ。
それでも、面白くて読み続けたことは、後々インプットして良かったなと思っている。
ミキシングでもスクラッチでも、無いパーツを見つけることに関しては脳の同じところを使うので、どんな形がいるか・どう構成されているかの考え方はこの時に培った、のかもしれない。
多くのモデラーさんはここで手を動かした人たちなのだと思うのだけど、自分はここで回り道をした。それでも逆にミキシングについては特化できたのかなとたまに振り返る。
プラモ趣味ではなく妄想趣味としては最適解だったかもしれない。笑
なので、自作パーツを練習する暇があれば模型を混ぜる方が早いと思い、そればかりやっていた。
ジムコマンドをたくさん買ってきてF90の装備をさせた小隊を作り何度も脳内で出撃させた。クラスメイトのゆうたくんの乗る迷彩仕様のジムコマンドが中破した時は、ジムスナイパーのパーツで応急処置をして、ガドリング仕様に改装した。
自作では次の戦闘に間に合わなかっただろう。
特に目的もなく、好きだからと脳内戦争に明け暮れた。
後にプラモウォーズがあって、自分ものめり込んだが、自分の周りにはおんなじ遊び方をしてる人はいなかった。
みんなコロコロ派だったからだ。
1人きりの頭の中の戦争は、高校いっぱいまで続いた。
大学生になって一人暮らしを札幌で始めて、初めてビックカメラに行った時の衝撃はすごかった。
山積みのガンプラ、他社の改造パーツ、工作用のツール。
地元にもプラモ屋はあったけれど、ここまでの品揃えはなくて、買い漁ったのを覚えてる。
仕送りのほとんどを当ててしまって買いだめてたシーチキンや塩おにぎりを作って乗り切った。
マスターグレードのFAZZの箱を開いた時にパーツが細かくてテンション上がって一度も組まずにゼクアインに貼り付けた。
冷静に書き出すと気が狂ってるが、今考えてもなかなか無い魅力的なミキシングパーツの宝箱だったから仕方ないと思う。みんなもパーツ取りでM GのFAZZ買って欲しい。
そうやって改造パーツやデザインナイフなども手に入れて、出来ることが一気に広がってさらにのめり込んでいった。
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実家から持ってこなかったこともあってSDは触れなくなっていたけど、HGや MGを買っては混ぜて遊んで妄想を進めていた。
誰に見せるわけでなくとも、これはこれで本当に充実していた。1人でも一生満足できる趣味だと思っていた(家族は心配してたと思うがw)
周りに認められなくても好きだから続ける、という事はこの時確立してたなと思う。
もしもSNSが無くなったら寂しいが、ガンプラが発売する限りこの趣味は続くだろうなと思う。
2.三国伝とSNSによる意識変化
社会人になって地元に帰ってきた時、イオンでSDガンダム三国伝を見かけた。
司馬懿サザビーの箱絵がカッコよくて夏侯惇ギロスと衝動買いしてしまったのを覚えてる。
組んでみて驚いた。子どもの頃に遊んでたSDガンダムよりも大きくて、よく動く!
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特に、サザビー顔とベルガギロス顔の素体が手元にある衝撃はすごかった。子どもの頃はガンダム顔のミキシングしか出来なかった(せいぜい目を黒く塗ってジュエルシールでモノアイガンダムを作ったくらい)ので、“こんなことが許されていいのか!?”という気持ちだった。
ラインナップを見るとトールギスもある!ということですぐ買ってきて作った。トールギスの割にでけえなと思った記憶がある(サザビーより小さくあって欲しかっためんどくさいオタクだった)
買い漁っていたら九州に転勤になり、荷物になるのでプラモを持っていかなかった為に2年ほど模型趣味とは疎遠になる。
上司から「地元に帰してやる」と旭川に転勤になり(釧路が地元なので、道民だとこのエグさがわかると思う)、友人も住んで無く暇になったので三国伝はどうなったんだろうと検索したのが人生の分岐点だった。
「まだ続いてる!?
え!?主人公がブルーディスティニー!?
サーペントもいる!?
次出るのがぺーネロペーとクスィーとサイコとノイエジール!?」
思えば忙しすぎて2年ほど模型誌をみる暇もなかった。慌ててネットを見ると幻かと思うほどの充実したラインナップが売っている!三国伝2年分のラインナップを一気に浴びる幸福な体験はもう2度とできないと思う。笑
すぐさま気になったものを5、6個注文して作り、その出来の良さに感動してたまた別のを5、6注文することを繰り返した。ネットにないものはプラモ屋まで行ってまとめ買いし、それも片っ端から作った。そうして毎晩三国伝を作っては感動した。最高な体験だった。全部3体ずつくらいは買ったと思う。
様々なMSが立体化されてて、間接部や鎧の接続は共通で組み換えしやすい。象や船などもあり、ディジェすら立体化してる。そして三国志をベースにしてるので史実にいるけど登場しないキャラもいる。理想すぎる。
妄想しろ、と公式が言っている(言ってない)。
自分がそこからできることは一つだった。三国志についての情報を片っ端から読み漁って詳しくなった。ラインナップ的に機駕好きかつガンダムX好きだったので、曹操が主人公の蒼天航路に行き着き、特装版を買って読み耽った。傑作だろ蒼天航路…。
完全に曹操贔屓になった。許褚や荀彧が大好きになった。
そうして知識を得て妄想を膨らませて、改造の参考にと軽い気持ちでネット検索をしたら、たまたま、ダギイルスの武将の画像を見つけてしまった。
なにこれ!?こんなの発売してないでしょ!とクリックするとある模型投稿サイトに行き着いて、ああ!これ、だれかのオリジナル武将なのか!と気づき、胸が熱くなった。
他の人のしっかり作られたオリジナルSD作品を見るのは、たぶんこの時が初めてだったと思う。
そんなマニアックな作品を見れるなんて思ってなかったので本当に衝撃だったし、そのサイトのトップページからSDガンダムを検索してさらに衝撃だった。そんな作品が数十ページにわたって投稿されてたからだ。
世界で1人だけ生き残った人類だと思ってたら、数万人の都市に行き着いたくらい滑稽な話だが、リアル系と比べてSDはとにかく表に出てなかったから、ここに行き着いた時に本当に脳を焼かれた感覚だった。
実質、異世界転生並みに都合のいい世界に出会ってしまった瞬間だった。
とっくに人気がなくなったコンテンツだと(大変失礼)思ってたのに、SDに絞っても毎日10数体の新作が流れてくる盛況ぶりで、しかもおそらく同年代くらいの人たちが作ってる。こんなにファンがいたんだ!と感動した。
そしてそこで見た改造にいくつも心奪われたのを覚えてる。
ゼノギアスのヴェルトールがイドに変形するSDガンダムや、ガオガイガーの見立て、フル可動の馬超などなど、今でも画像が脳内にこびりついてる作品が多い。
それら全てが本当に素晴らしかったし、没頭して毎日くる日もくる日も投稿を見て感動してた。SDの作品はほぼ全部見たかもしれない。大半にいいねをして回った。それくらい衝撃で、楽しすぎる経験だった。
特に模型誌にはほとんど載らないSDのオリジナル作品を大量に見れた多幸感は本当にすごかった。三国伝とSNSには感謝しかない、そう思えるくらいの体験だった。
同時に自分にもそれまでに思い描いたことのない感情が芽生えたのを覚えてる。
自分もオリジナルのプラモを投稿したい!
正直自分の作る模型は作例的なものでは全くないのは理解していて、ネットで投稿する価値もないと勝手に思っていた。(実際組み換えのために塗装はしてないものばかり)
それでもたくさんのプラモを見ていくうちに、“素晴らしい作品を見せてくれたことに対してのせめてもの恩返しと賑やかし”をしたくなった。
ここに混ざりたい、盛り上がりの一部になりたいと言った方が正しいかも。
有象無象の一つでいいから盛り上がりを表現したい、と思ったら、自然と投稿するための作品を考えて、作りだした。
3.SNSで変わっていく事、そのままな事
盛り上がりの有象無象でいい。でも、それを考えていくうちにどうせ投稿するなら少しは誰かの記憶に残りたいなと欲が出た。笑
ではどうしたらいいだろう。
自分のオリジナル要素満載の妄想世界では投稿しても伝わらないなと思った。そこで三国伝で当時流行っていた外伝の演者MS変更に焦点を当てて作ることを決めた。
投稿するにあたっては、他人に脳内補正は掛けられないのでドレスコードとして色くらいは塗る。なるべく作品以外に気が散らないように背景紙やスタンドライトを購入して最低限の撮影環境を整えてデジカメで撮影するように心がけた。下手だからこそ、下手に見えないようなポーズや構図を意識した。
せめてこれをしようという自分の中の縛りが、今となっては誰かの目にとまる「完成品」として見えたのが良かったのかなと思う。
当時は「なんで私のはいいねくれないの!やめます!」みたいな意識でやれるほど環境は整ってなかったので、伸びないのは自己責任(今でもそうだと思うけど)で、それがとても合っていた。
フィードバックが多ければ合っていて、少なければ何かが間違ってる。それを確認して修正していくのが楽しかった。
それまでプラモの塗装はやっても缶スプレー塗装とガンマカで塗るくらいしかしたことがなかったけれど、幸い模型誌は家にたくさんあったし読んでいたのでやってみると案外簡単に塗り分けられた。
ネタとしては曹操がダブルエックス、曹操が気にいるのが関羽ダブルゼータだったので、ダブル繋がりで未登場のダブルオーを武者化して投稿しようと決めてサッと作って色を塗って投稿した。
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HGも使ってて何気に豪華
いいね一桁代かなと思っていたので、これが当時30いいねほどついてそれはもう嬉しかった。
自分の作品を見てくれる人がいる、ましていいね押してくれる人がいる。
それがたまらなく嬉しくて、そこから1〜2週間に1回作品を作って投稿するようになった。
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HGとSD混ぜる塩梅を学んだ。
2作目でデイリー2位獲得できて有頂天だったw
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恐竜形態を入れたくて余剰をカプルに背負わせすと、妄想が進み、ノリでコレンカプルまで実装。
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伸びるのが嬉しくて次を作る、そのスピード感を維持したくて、ミキシングがどうしても間に合わない時にパテを使うようになった。
基礎知識はあったので処理はまだまだだったが形にする事はできるようになっていった。
そんな事を3ヶ月ほどやった時、フォロワーさんからTwitterへのお誘いがあり、登録をしてみた。
登録したものの、当時はメンションの仕組みやタグの使い方もわからず簡単な投稿だけして半年ほど放置したと思う。笑
その後、プラモ投稿サイトのトラブルが続き、Twitterを本格的に動かすようになっていく。
当時はブログに記事を書いてリンクを貼っていて、SNSとしてはほぼ使っていなかったが、ある方から
「リンクだけじゃなくて画像も挿入した方がいいよ」とアドバイスをもらって入れるようにするといいねが伸びていった。
気をよくして、「じゃあTwitterに短く設定まとめて画像投稿すればもっと伸びるのでは?」と設定と画像を毎日投稿し続けたところ、通知が止まらなくなり、100人くらいだったフォロワーさんが、いつのまにか500人ほどになっていた。
だんだんと認知されて、ファンですという方まで出てきて、嬉しいのは間違い無かったけれど、「表面処理や合わせ目消しもしてないからな…」みたいな負い目も常にあって、いいねが増えるにつれてそういったところに時間や意識も割くようになった。
そのコメントの中には横井画伯や今石画伯からのものもあり(当時はオリジナルでもバンバンいいねやリツイートやコメントいただけてた)
※これは間違いなく自慢ですが、横井画伯からお誕生日お祝いされた時に筆舌しがたいくらいの幸福な体験で、そのあたりでもう一生尽くすしかないコンテンツだと思うようになった。
@CLOVERSENSER おめでとうございます!!これからも共にSDガンダム祝っていきましょう☆
— 横井孝二 SD画集Ⅱ発売中☆☆☆ (@nisegundam) March 12, 2017
特に認知されだしたのが武者バルバトスあたり。
きっかけは、フォロワーさんとの会話の中(通話かも)で「オルフェンズのバルバトスはSDのミキシングでは作れない」という会話があったとき。
(そうか…?形があるんだからできそうだけど)と思った事と、オルフェンズ1話がめちゃくちゃ面白かったので、SD化してみよう!と作ったのが初の1000いいね超え(諸事情で消えてしまったが)で、フォロワーさんもその時にいつのまにか1000人を超えていて驚いた。
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(奥のは後に作ったグシオン)
オルフェンズ放送開始した10月の末には仕上がったのでオルフェンズのパーツは当然使ってません
それまでは“外伝にいそうなキャラ”を意識して作っていたが、ここで旬の作品人気に乗るたのしさに目覚めてしまったw(オルフェンズは作中のガンダムタイプはほぼ放送中に作ってる)
この前後で色々あって落ち込んだ(詳細は割愛w)していたところに模型同人誌のお誘いがあり生きる気力をもらった。
この辺りから1人でやるよりみんなで何かの目的のために作っていく楽しさと、SDを広めたり楽しみ方を知ってもらってSDファンのみんなにも(勝手に)恩返ししていきたいと思うようになった。
当時助けてくれた方とは疎遠になってしまったが、今でも深く感謝はしてる。
その後もたくさんの同人誌や企画に参加させてもらった。どんどん忙しくなる生活の中でも、締め切りという意味でも交流という意味でもとても大切な経験だった。
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特にSNSウケが良くて派生作品もたくさん作ったw
代表作のひとつ。
その後、結婚して、転職して、子どもが3人生まれ、とプライベートが多忙を極めていてもニコニコSD触れるのは、この時にSDガンダムとSDファンに命を助けてもらった恩があるから感が強い。
プライベートや仕事の考え方・頑張り方や気持ちの向け方を教えてくれたのがSDガンダムとの関わりだった。
たくさんの人たちとの交流の中でトワイライスフィアという唯一無二の仲間に出会えたのも実りの一つ。考え方や生き方、こだわりが近いのに、それぞれに刺激を与えられ続ける場所があるのはでかい。3年間途切れず毎日今日もおはようとお疲れをする。家庭も仕事も趣味も混ぜこぜで話せる場所があることは本当につよい。
妻には仲良すぎて浮気を疑われるが(笑)自分たちでも意味わかんないくらい連絡を取りたいSD仲間が出来たのは間違いなく実りだ。
4.ミキシングビルドを続けて気づいたこと
振り返ってみると、本当に自分は運が良かった。たまたまSDガンダムブームに生まれ育ち、模型誌やプラモに囲まれて育ち、1人でも続けれるメンタルを育めて、大人になって財力がついてから三国伝やLGBBが始まり、SNSが流行り、たまたま人よりミキシングをしていたので早く作れたりして目立ち、たまたまミキシングの流行りに乗れて、たまたま素晴らしい人たちと出会い、仲良くなれた。たまたまずっと、幸せな趣味の時間を満喫できている。こんなに嬉しいことはない。
ガンプラのミキシングビルドを続けていなければ自分を卑下する自分のまま、誰かを羨んだりするだけで時間を使い終わっていたかもしれない。
だからみんなもミキシングをしよう、というわけではなくて。
多分自分の好きな何かを続けていたから今のスキルや個性があって、今の交友関係があって、今の考え方になって、今の仕事になって、楽しく生きられるようになった。
1人でも楽しめる事を見つけて楽しむ。それを人にも見てもらう。そこで出会った肯定的な人、競える人とも楽しんでいく。
本質はそこなんじゃないかなと思う。
そうすれば、
誰かを羨んだり、自分を蔑んだり、
他人との足の引っ張り合いをしている時間なんて、無駄だと気づける。
もっと価値のある自分の好きなもの、好きな場所、好きな人の価値に気づけるはず。
そうやって自分の人生にとって価値のあるパーツを見つけていくことが、ミキシングビルドなんだと思います。
SNSが流行って、プラモをミキシングしてる人が他にもたくさんいることを知って、嬉しかった。
1人でしていた妄想を、みんなでするようになってより大きな形でできるようになって幸せだ。
そう思える人が少しでも多くなればいいなと思うし、そういう場所を作る1人になっていけたらなと思う。
以上です!
今回は発散ベースで書きましたので、次はもう少し焦点を絞った話にしたいと思います。笑
最後まで読まれたかた、もし居たらいいねも押してもらえると書いたかいがあって最高に嬉しいですのでよければお願いしますw
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