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【短編小説】人魚姫と水兵

何時、何処で、どうして知ったのか、もう今となっては分からないけれど、こんな物語を知っている。
○○○
ある冬の日、波打ち際に一人の水兵が倒れていた。
漁村の住民たちの介抱により息を吹き返した水兵は、次のように話した。

自分たちの乗っていた船は、氷山の一角に激突して沈没した。
沈みゆく船の中で何処からともなく美しい歌声が聞こえてきた。
その歌声の方向、月夜の海原を見渡すと、遠くの海上に突き出た岩の上に本の挿絵で描かれているような人魚姫が一人座って、この世のものとは思えない程の綺麗な声で歌っていた。
自分の仲間たちは、その歌声に陶酔しながら苦しむことなく冷たい海の中で死んでいった。
そして自分も、首元まで迫る水の冷たさを感じながら、こんな人魚姫の歌を聞きながら死ねるのならばそれ程大きな幸福はない、と思いながら意識を手放した。
しかしどういう訳だか自分はこうして生きて有人島に流れ着くことができた。

けれどもう一度、どうしてもあの人魚姫の歌声を聴きたい。

その晩水兵は村の漁師の家に泊めてもらった。だが翌朝ベッドに彼の姿はなかった。
そしてもう一つこの漁村から消えていたものがあった。半ば朽ち果て、もう誰にも使われていない木造の小さな船だった。
○○○
おそらく私がこの童話を読んだのは小学生の頃だろう。
どこで?
…学校の図書室か、近所の図書館か、或いは友達の家か親の実家か……
少なくとも今、手元にはこの話の載った本はない。
もしかしたら、持っていたけれど捨てたのかもしれない。
文庫本だったかハードカバーだったか、何という題名だったか、何も覚えていない。ただこの物語の流れだけを覚えている。

ずっと、この水兵の気持ちを理解することが出来なかった。
なんで折角助かったのに、わざわざ自殺行為に及んだの?
そこまでして、人魚姫の歌声を聴く価値はあるの?
生きていた方が、それよりもずっと沢山の幸せはある筈なのに。

そう、私、浅間輝は思っていた。
高1になって、博多瑞穂に出会うまでは。
❉❉❉
元々彼女に対してそこまで良い印象はなかった。
おとなしくて、無口で、恥ずかしがり。少し可愛いけれど、まあ、立場は弱そう。
少なくとも博多瑞穂を好む理由は私には無い筈だった。

度肝を抜かれたのは、高1になって初めての音楽の時間だった。
音楽室で先生のピアノに合わせて歌う。取り敢えず口を動かし僅かに声を出す。推薦で某大学に入ることを目標としている私は、たとえ音楽といえども評定を悪くしては拙いから。

何処からともなく、美しい歌声が聴こえてきた。

人魚姫は博多瑞穂だった。

出席番号順の座席で、私の苗字は浅間。一番左の列の、前から4番目。
博多瑞穂は4列右の、前から2番目に居る。そう近くない距離なのに、その歌声は明瞭に聴こえた。
中高一貫のこの学園で彼女と既に同じクラスになった事のある人はそこまで動揺していなかったが、今年初めて同じクラスになった人たちはざわめきあい、博多瑞穂を凝視していた。
❉❉❉
そしてそれが週一の日常となっていく。
毎週水曜日の1時間目は4組の誰もが浮き立つ時間。
先生に怒られない程度の小声で歌の歌詞を口ずさみながら、耳はひたすら博多瑞穂の方へ傾ける。

その歌声の美しいことと言ったら。
私達にとっては普段ルーチンワークとして機械的になぞるだけだった旋律が、博多瑞穂によって生命を吹き込まれて世界を祝福する。
聴く者の脳裏からは、日々の不平不満、例えば明日の世界史の小テストだの厳しい先輩だのといった事柄は吹き飛び、聴こえてくる歌声、その非日常的な美しさをただただ享受し幸せに浸る。

授業の後、ひたすら「みずちゃんやばいね」としか言えないその語彙力の無さに、誰もが心の中で地団駄を踏むのが分かった。
国語の先生とかが『〈やばい〉を使いすぎるのは良くない』と忠告する理由もそれなりに分かった。

…でもね、全てを正確に言葉にする必要はないじゃん、とも思う。そんなの無駄な足掻きだから。胸の高鳴りと感嘆と陶酔を、正しく表現できる人なんてきっとこの世にいない。

そう思えるほど彼女の歌声は綺麗なのだ。
❉❉❉
ゆっくりとそんな日常は流れていく。
1週間単位のループは何時までも果てしなく続いていくように思えた。憂鬱な科目や嫌いな先生も存在するけれど、その中で水曜日の1時間目は輝きを増す。

瑞穂ちゃんの歌をもっと聴きたいな。

もっと。

水曜日が巡ってくる。

もっと、もっと、もっと。

少しづつ自分が歪んでいく事に、私はなかなか気が付かなかった。
自覚したのは6月半ばだった。
その日の音楽の授業は歌のテスト。課題は、昔々イタリアで生み出された歌だった。
「今日みずちゃんの番じゃんっ!」「うおっしゃ!」「まじ楽しみ〜」と私も友人たちと笑う。
私はこの時既に歪んでいた。何故それに気づかなかったのだろう。          ❉❉❉
思い立ったのは前日だった。
昔親戚に貰ったボイスレコーダーの存在を思い出し、机の中から見つけ出し、充電を終えてからスカートのポケットに入れて学校に持っていった。

音楽の時間の前、トイレの個室に入ってボイスレコーダーの電源を入れる。

録音ボタンを押す。
❉❉❉

深夜1時。自室の鍵を閉めて。


機械越しに流れる博多瑞穂の歌声は生で聴くよりかは劣っていたけれど、それでも美しいことに変わりはなかった。


私も今なら水兵になれる。

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